2011年4月14日木曜日

今回の震災で多くの「神話」の化けの皮がはがれましたー「多文化共生」もそうです

昨日のブログで「復興」の問題点を中村教授の講義を基に記しました。西川長夫さんが<新>植民地主義と唱えている、大都市と地方都市との関係性、及び大都市の中の格差の問題は日本のこれまで社会・経済のあり方を根底的に問わなければならないのですが、これからなされようとしている「復興」は、これまでの矛盾を抱えた社会構造をさらに強化、拡大する方向で取り組まれていくような気がします。
http://anti-kyosei.blogspot.com/2011/04/blog-post_13.html

私は、震災後は、脱原発=環境、安心できる生活=平和・住民主権、差別のない社会実現を当然のこととしてめざすと考えましたが、「多文化共生」は日本人と外国人の関係性の問題に矮小化されていました。「共生」「多文化共生」を私たちはもう20年前くらいから批判をし、過激派だとか、原理主義者だとか言われましたが、この震災で「共生」の問題点は可視化される形で明確になったと思います。

すなわち、「共生」はマジョリティが目で見えるマイノリティ問題に関して、それを解決すべく、両者の対話を求め、後者の人権に関して取り組もうとしたものです。「多様性」をもたらすということでは、財界をはじめ各界で「多文化共生」はもてはやされました。しかしそれは、マジョリティの(手を差し伸べる)側の基盤が絶対的に確固としたものであることが前提になっていたのです。従ってどのような善意であっても、マイノリティ問題という捉え方は基本的に、パターナリズムであったと言えるでしょう。マジョリティ側のあり方、社会構造が問われることはなかったのですから。

「共生」を訴えるマイノリティ側は逆に、マジョリティと同等のものを要求することで、既成社会への「埋没」に終わり、差別・抑圧をもたらすマジョリティの社会構造の変革の要求にいたりませんでした。従って、行政は「多文化共生」と「民営化」を旗印にして、マイノリティ側に一定の利権を与えるかたちで(しかし実際は、行政の合理化を進めるために)、沈黙を守るマイノリティにしてしまったのです。

「多文化共生を実現する地域社会」を謳いながら、川崎市長は、いざというときに戦争に行かない外国人は「準会員」であるという発言をこれまでのところ3期目の今日にいたるも撤回せず、採用した外国籍職員の昇進と職務の制限を撤廃しようとしません。「当然の法理」によって、外国籍公務員は昇進できず、「公権力の行使」ということでタバコや空き缶を捨てることを注意する仕事さえ就けないでいます。

ところがこの震災で日本社会の脆弱さが一挙に可視化されました。原発は絶対安全と強弁してきた政府・東電は事故発生後1カ月に至るも原発事故の真相をひた隠しにしていました。もはや原発が安全と言う人はいないでしょう。しかし国策として原子炉の輸出に力を入れていくこと、地方の原子炉はそのまま安全なものとして運用していくこと、この点にはいささかの変化もないようです。

輸出の花形の自動車、家電、精密機械などは東京本社の下請け(大量の低賃金労働力)として東北地方を使ってきました。これは西川さんの定義では、植民地主義であり、大都市の地方「搾取」です。急いでいたTPP参加への交渉は、一旦、保留になりましたが、東北地方の「復興」の中で必ずや締結されるでしょう。そして零細の農業・畜産業に従事する人たちは行き場を失うでしょう。必要な労働力はどこで確保するのか、それは外国人です。「多文化共生」が唱えられ、同時にいびつなナショナリズムはさらに強化されるでしょう。

天皇制は「国民統合の象徴」としてゆるぎない地位を継続し、戦前の「国体」の継続であることに誰も疑問を抱かなくなるでしょう。藤原正彦は、「覚悟を国民に促す強い言葉を直接語りかけてくれる人(天皇―崔)をもつ国は幸せだと思う」(『週刊新潮』4月21日号)と記しています。

また私の知人は、皇太子が被災者を訪問に来た時に、「来るな」と叫んだだけで2日間拘留されたと言います。上野千鶴子は「天皇の被災者訪問」の「仕掛け」についてツィ―トしています。

このように外国人労働力の必要な日本社会はますます「多文化共生」を強調し、そしてますますナショナリステイックになるでしょう。そのことでこれまでの既成社会の温存・強化(発展はどうかな?)を図ります。だから私のようにこのような異常事態だからこそ、民族・国籍を超え<協働>で地域社会の変革を、と言い出したら拒絶反応が起こったのです。「クソ朝鮮人 日本から出て行け」!

「多文化共生」は違う文化背景を持つマイノリティたちとの交流、対話らしいのですが、マジョリティ間の対話ってありますか? ハンナ・アーレントを持ち出すまでもなく、戦後に仕入れた民主主義制度は、地方での住民間の対話を基にしてなされてきたとはもはや誰も思わないでしょう。

ではマイノリティ間の「共生」ってどうなってるんでしょう?「在日」の間での対話は保障されていますか?民団・総連を取り出すまでもなく、自分たちに都合の悪い奴とは話もしないのではないですか?「共生」を唱える民族団体では、フェミニズムの問題は置き去りにされていませんか?等など、新しい社会に向かって歩むのは大変ですね(ため息)。

だからこそ、一歩、前に歩き始めなければならないと思うのです。組織に頼らず、人と人のつながりを求め、一致できるところがあれば、それを基にして歩み続けるしかありません。みなさん、そうでしょう?

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