2011年3月14日月曜日

「祈り」についてー上野千鶴子さんの退官に思う

上野さんの東大での明日の最終講義が中止になったそうです。東北地方の悲惨な映像と、原発の惨憺たる状況をテレビで観ながら、「祈り」とは何か考えてみました。

私の親しい信頼する女性牧師は、「あなたがたも祈りで援助してください」(Ⅱコリント1:11)という聖句を送ってくれました。上野さんは、『生き延びるための思想』のあとがきで、「あとがきー『祈りにかえて』」とわざわざ書き、「あの世の救済ではなく、この世での解放を。」、「人間がひき起こした問題なら、人間が解決できるはず。『祈りましょう』と無力に唱える代わりに、いま・ここで生き抜くための方策を、ともにさぐろう、としてきた。」と、彼女がこの世を生き延びるための女の思想である、フェミニズムの思想を掲げます。彼女は、それを「『祈り』のぎりぎりまで傍まで行って、その手前でとどまろうとした者の『此岸の思想』だ」とします。

私は彼女のこのあとがきを読み、田川建三さんが書いた「存在しない神に祈るーシモ―ヌ・ヴェ―ユと現代」『批判的主体の形成』(洋泉社、2009)を思い出しました。どうしても越えなければならない現実があるとき、その現実に立ち向かう生きる姿勢、人としての「基本的なたたずまい」が「祈り」であり、「存在しない神に祈る」としたシモ―ヌ・ヴェ―ユは「人間精神の最も正しい部分を表現している」と田川さんは記します。

「祈り」の虚偽性、堕落を直視したうえで、なおかつ人として越えなければならない現実に立ち向かうとき、「祈り」に逃げるのでなく、「祈り」によって闘い続けるという姿勢を私は尊いと思います。確かに上野さんの言うように、「人間がひき起こした問題なら、人間が解決できるはず」であり、神に逃げ、「祈り」に逃げることは、私は許されないと考えています。しかし、今回の地震・津波や、先週私が観たイタリア・ポンペイの遺跡のような天災と、圧倒的な権力による抑圧・虐殺は区別できるものではありません。この何千年かの歴史上、そして今も、人類は人間がつくった圧倒的な不条理の中で生きているのです。

上野さんは女性差別へのルサンチマンが自分の原点と、2年前の川崎でのシンポで話されました。何度悔しい思いに涙し、それでも何ともならないものに闘いを挑み続け、明日の最終講義を迎えることになったのでしょう。そしてその闘いは、おそらく間違いなく、これからも闘い続けないことにはどうしようもないと思っていらっしゃるに違いありません。『女ぎらいーニッポンのミソジニ―』で近い将来、女と男の立場が逆転すると書いた三浦展に歯を剥いたのもそのためでしょう。私は、それは「祈り」であると思います。いや、限りなく「祈り」に似たものだと思うのです。

「在日」の闘いはフェミニズムのそれとは違うという人がいるかもしれません。しかし私は同じだと思います。人間が作り出した不条理に挑み闘い続けなければならないものであり、それが社会構造として差別・抑圧を再生産している以上、その闘いを止めるわけにはいかないのです。

上野さん、お疲れさまでした。これからも闘い続けましょうね。よろしくお願いします。

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