2011年3月24日木曜日

福島朝鮮初中級学校―地域住民と<協働>の始まり

Twitterから福島朝鮮初中学校のブログの紹介があり、そこで日本人避難者と<協働>して飢え、寒さ、孤独に立ち向かっている様がわかりました。http://blogs.dion.ne.jp/f_chojun/archives/10053649.html

金明秀さんはtwitterから以下の箇所を引用して紹介しています
「阪神淡路震の折にもこうした差別意識が知らないうちに行政においても頭をもたげました。行政が、在日コリアンが避難所として利用していた朝鮮学校を緊急避難地として認定しなかったために、在日コリアンが被災者への様々な支援から除外されたのです」 http://amba.to/dSGZDb

TVでは日本代表のサッカー選手が「日本の団結」を強調しますが、今回の震災で地域に住む人たちはみんな一緒に、それこそ国籍も民族も性も関係なく、津波に呑みこまれたことで、地域社会というものはどういうものかその本質が明らかにされたと、私は考えています。

日本という国民国家が総体としてひとつであるとは言え、個別の地域社会がどうなのか、そこの自然環境、産業、文化・伝統などの姿が実は、社会の実態なのです。その地域社会においては、国籍や民族を理由に、外国人を二級市民としたり、排斥していては成り立たない、ということが今回、目で見える形で明らかになったと思います。

朝鮮学校は地域社会にあって、今回の非常事態だけでなく、また催し物などの一時的な行事でなく、恒常的に地域社会との関係を意識化し、具体的なあり方を模索するときが来たのだと思います。そしてそれは「在日」が生きるということはどのようなことなのかを示唆します。私が最近投稿した「人権の実現―『在日』の立場から」(斎藤純一編『人権の実現』(講座「人権論の再定位」全5巻、法律文化社)を参照ください。「在日」の「人権の実現」は地域社会との関わりなく実現されるのか、「民族主体性」の絶対化が地域社会参加への阻害要因になっていないか、問題提起をしました。

韓国においてもKINという市民団体がいち早く、「在日」を国籍で区別することなく、全ての「在日」に平等に支援することを政府に求めていましたし、これまで「歴史の清算」を求めてきた韓国の市民団体もまたその声明文で具体的な共同募金活動を発表し、その中でも「北朝鮮国籍の在日朝鮮人」が韓国領事館から「公式的な助けを受けることが難しい実情」に触れています。

私は「共生」批判論者ですが、みんなが仲良くすることに何の反対がありましょう。そうでなく、そのような建前によって、実際の差別を生みだしている社会構造を問題に(変革)するのでなく、既成社会をそのまま肯定(埋没)することになっていることを私は批判しているのです。それと「共生」論者の「在日」は、「在日」内の「共生」に関心がないことは不思議です。金時鐘さんの指摘は正しいと思います。

小さな声ですが、国籍を絶対視しないで、生きている場で<協働>する兆しが見え始めています。「持続する社会」とは、住民が生き延びることができる社会です。繰り返しますが、そこでは国籍や民族に関わりなく、住民は<協働>してそのような地域社会建設に向かうしかないのだと、私は確信します。

そのような地域社会をつくるためにも、差別や偏見を助長する、特にネット環境下で蔓延している発言は社会の良識として許してはいけないのだと思います。みなさんはどのように思われますか。

0 件のコメント:

コメントを投稿