2011年3月15日火曜日

日本の「精神的偏狭」を解放する時―加藤博之

この加藤博之さんは大阪の高校の同級生ですが、私は彼とクラスも異なり話した記憶がありません。元某大会社の副社長になった彼とは高校の同窓会で話すくらいでした。それがFaceBookで出会い、彼は私の「未曾有の大震災の後、日本はどうなっていくのでしょうか」(http://anti-kyosei.blogspot.com/2011/03/blog-post_3423.html)を読んで感想文を送ってくれました。それが以下の文です(タイトルは私がかってに付けました)。本人の承諾を得て、掲載させていただきます。

私は大学に入るまでは自分の本名の読み方も、歴史も知らないまま大阪の受験校でバスケット部に属しながら高校生活を過ごしました(公立高校で2回、インター杯にでましたー自慢です!)。恐らく加藤さんは私が「在日」であることを知らなかったかも知れません。その高校は受験高校では鶴橋に近く最も「在日」が多い学校だったでしょう。しかし「在日」同士も自分のことを明かすことはありませんでした。「在日」であることは公然の秘密であって、みんなそれを知らない「振り」をしてくれていたのです。

東京の大学に入り、私は本名を使いました。一時、過去の植民地の歴史を知るにつれ、私は日本名を一切使わなくなり、むしろそれを植民地主義による「同化」と考えました。しかし今私は、「斎藤」という日本名も愛おしく思い、「サイ」という日本読みも、そして「チェ」もすべて受け入れます(その後の歩みを含めて「個からの出発―在日朝鮮人の立場から」参照。http://anti-kyosei.blogspot.com/2011/03/blog-post_3423.html)。

私は高校の同級生の加藤さんからの感想文を読み、お互い社会人になり多くのことを経験して引退した後、日本社会のあり方をめぐってこのような対話ができたことを本当にうれしく思います。感謝です。
崔 勝久

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日本の「精神的偏狭」を解放する時―加藤博之

崔さん、崔さんのご意見に全面的に賛同します。私の場合は些か観念的かもしれませんが、この国、この国民が新しい全世界的の地政学的な激変の中で、ことさらに過去の伝統的文化にたいする再評価や、伝統的な「もてなしの心」を強調するなどという「内向きの偏狭なナショナリズム」で自信を取りもどうとする風潮は大変危険な事だと思います。すべてが経済的に劣後した状況に対する意図的なプロパガンダではないかと考えるからです。こうした風潮はまさに「我が村」・「我が会社」・「我が故郷」と言った素朴な心情が、「国家レベル」の偏狭なナショナリズム・ファシズムに繋がっていった歴史的事実を想起させます。

古くから歴史的に中国や朝鮮から多くを学んできたこの国は、そのグローバルな時代には実に大らかにこれらの国々の人々を受け入れ、重用し独自の文化を築き上げてきました。今こそ、往時の大らかな受容と学びと互恵の気持ちでこの国の「精神的偏狭」を解放する時だと思います。

世界的な地政学的激変の中でこの国の目指す方向は徹頭徹尾「国を解放する勇気」を持つことだと思います。その明確な意思の中で、「オープンで公平な社会的規範」を築いてゆくことが、これからも生き延びていく上での唯一の未来に向けての加太だと思います。

そのことを成し遂げてこそ日本人の精神的自立・世界市民としての自己の確立ができるのだと思います。経済的視点のみからの議論に終始している現状の中でどれほどの理不尽な行為や意識が黙示されていることでしょう!!

崔さんの議論は、「根源的」には日本「人!!」の「戦争責任」感・意識についての議論に、私たちがどう立ち向かうかにも繋がっていると思います。そうした意味で私は崔さんの御意見に全面的に賛同したいと思います。崔さんのように旨く論じられないのが大変残念ですが心は共有しているつもりです。

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