2011年3月12日土曜日

未曾有の大震災の後、日本はどうなっていくのでしょうか。

昨日、東京駅から川崎に歩き始め、品川で川崎ナンバーのダンプに乗せてもらい、夕方から翌朝の4時までかかり川崎に着き、そこから自宅まで送ってもらった話を書きました。大げさではなく、42歳の、川崎南部に住む日本人のダンプの運転手は私の命の恩人です。私には関東大震災時の6000名もの朝鮮人虐殺を思い出すような恐怖は全くありませんでした。同じ災害に遭った者同士の心のつながりを強く感じています。

私の若い日本人の友人(博士課程の研究者)は、宮城県の、恐らくは壊滅したであろう田舎に住む家族を想いながらも、バイクで宮城に入り「従軍慰安婦」の宋神道ハルモニの安否が心配でそこに寄って確認するとメールを送ってくれました。私はこのような「新しい日本人」の友人を心から信頼し、共に歩みたいと願うのです。

しかし同時に、横国の加藤千香子さんからは、横浜市の中学歴史教科書をめぐる問題や外国人からの献金問題を取り上げるやり方から、国民国家を正当化し戦後作られた法律を大上段に掲げた、いびつなナショナリズムの台頭を危惧するメールをいただきました。私にはこの「新しい日本人」と、国民国家を絶対視するナショナリズムを掲げる人たちとのギャップが気になります。特に、後者の流れの強さが気になるのです。

中野剛志編『成長なき時代の「国家」を構想するー経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』にある大屋雄裕「配慮の範囲としての国民」という論文に注目しました。よく議論される外国人の政治参加という角度ではなく、今後低成長が予想される日本社会にあって経済の成長を前提にせずに「国民」の福祉を考えるとき、外国人の配慮される権利はどのようになるのかという問題提起です。そこには、参加の範囲と配慮の範囲は同一ではないだろうという冷徹な認識があります。政治参加しない外国人にも、豊かでなくなる時代の日本国家は(日本人と同じように)福祉の面で「配慮」するのか、それはどの範囲なのか、そのことをしっかりと考えておこうという、意欲的な論文です。

ニューカマーと言われる外国人が急増し、これまでのような小手先の政策では埒があかない時代になって、「国家がその福祉に対して配慮すべき国民の範囲に、外国出身の労働者のどこまで」を含めるのか、移民是非論ではなく、まずその定義をしっかりとすべきという主張です。

この定義に関して日本社会はこれまで議論をしてこず、最近になって「多文化共生」を言いだして、急増する外国人の日本社会への「統合」をもくろむようになりました。勿論、その中には、外国人の人権を強調し、多様性を評価する意見や、まじめな実践があることは事実です。川崎市は、「多文化共生社会の実現」、「かけがいのない隣人」を謳います。しかしそのような観念的でセンチメンタルな議論は、日本社会の成長を見込めない「成長なき時代」になったとき、どうなっていくのか予断を許さないでしょう。私は「多文化共生」は外国人を「二級市民」に落とし込める植民地主義イデオロギーだと考えます。

外国人の労働力だけ欲しい、というわけにはいかないのです。外国人は日本に住む限り家族をもつことになり、そこでは日本社会による生活と人格(人権)の保障は不可避です。当然のこととして自分の住む地域社会をよくするための政治参加を求めることになるでしょう。そのとき日本国籍を条件にするのか、二重国籍を認めるのか、永住権者だけに限定するのか、滞在年数で決めるのか、税金の納入という実績を重視するのか、国家(あるいは地域社会)の「配慮」の範囲についての定義は確かに必要になるでしょう。大屋のその主張は認めます。

しかしながら国家と地方自治体は同じなのか、住民・市民の定義は国家がするのか地方自治体がするのか、そもそも外国人対策の前提に、「住民主権に基づく地方自治」のあり方につてしっかりとした議論とその具体的なあり方が議論されるべき、というのが大屋論文についての私の感想です。なお、浦山聖子の「外国人労働者の受け入れは、日本社会にとってプラスかマイナスか」も問題点が整理されて記されているので一読を勧めます。

「在日」もまた、自分たちの政治参加の権利主張だけではやっていけない時代に突入していることをしっかりと認識すべきでしょう。自分たちは指紋押捺拒否の運動をしましたが、ニューカマーを取り締まりの対象にすると日本政府が言い出したとき、反対運動を組めませんでした。政治参加によって何を実現したいのか、どのような社会にしたいのか、そのようなヴィジョンもなく、ただ参政権が欲しい(非選挙権はなくともせめて選挙権でも)と言うだけでは、日本の矛盾ある社会にただただ埋没するしかないのです。

飛躍しますが(私の中では必然なのですが)、私は川崎や横浜(それに便乗した各地方自治体)の外国人市民代表者会議の解散を求めます。決定権もなく、討議する内容も外国人問題に制限されるようなものは不要です。そうでなく、例えば区単位の決定権ある協議会(または区民議会)で住民が自分で責任をもって運営していく「住民主権による地方自治」をはじめるとき、私たち「在日外国人」もまた、同じ住民として選挙権・被選挙権をもち、外国人問題もひとつの課題として議論すればいいのです。それは国会に諮らなくとも、各地方自治体の条例によって可能になります。

それは「在日」の権利の主張の問題ではなく、日本人の民主社会をどのようにつくり運営するかという「民度」の問題、歴史的課題だということを蛇足ながら記しておきましょう。

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