2011年1月22日土曜日

「人権」って何なんでしょうね

人権とは何か、米中間で取り上げられているこの問題は、中国側の政治体制に問題があることを前提にしています。しかし、アメリカのこの間のイラク、アフガニスタンへの侵略は、「人権の名によって人権を侵害」したものではなかったのでしょうか。中国がそのことに触れないのはチベット問題を内部に抱えるからです。国民国家は国益を優先します。普遍的な概念であるかのようにされる「人権」は国益に左右される曖昧なもののようです。

基本的人権として外国人の政治的権利(政治参加)は認められるべきだというのが私たちの主張ですが、この点は、国民(日本国籍者)であるかどうかを最大の判断基準にする日本社会においては全く認められていません。そしてこれがまた世界の国民国家の実情でもあります。外国人(非市民)の基本的人権に政治的権利は含まれるのか、この議論はほとんどなされていないのです(斎藤純一)。このことを問題にしていこうとするのが「公共性」の論議ですが、同時に、国民国家は、外国人を差別・抑圧する植民地主義を絶えず再生産する装置である(西川長夫)という視点から、国民国家を相対化し、実態としてある地域(region)の変革を求めることで内破する視点も重要になってくるというのが私の意見です。

「在日」(在日外国人)の人権は、経済、環境や福祉などの分野で、国籍を超えてあらゆる住民が「生き延びる」、よりよい地域社会にしていく過程に自ら参加することによって実現されるというのが、私の主張です。そのためには地域社会において「住民主権に基づく住民自治」の仕組みをつくり、市民が積極的に地域社会のあり方について、行政・企業との対話を通して関わることが保障されなければなりません。すなわち、これまでの地方自治のあり方が「変革」されなければならないのです。

そのような「住民主権に基づく住民自治」を実現するなかで、外国人の政治参加が可能になると私は考えています。今の日本の地方自治のあり方を問い直すことなく政治参加を求めるということは、既存社会に埋没することになります。「要求から参加へ」というスローガンを出し「外国人市民代表者会議」(「外国人市民」は「市民」ではなく、2級市民であることに注目)の設立に政治参加の夢を見た、川崎の「多文化共生」を提唱してきた「在日」の過ちはここにあります。既存社会の変革がなければ住民は生き延びることができないと考える日本人と、その変革に参加しようとする「在日」との協働の可能性・展望がここに見え始めます。

「共生」「多文化共生」を進めることが日本社会の変革になると唱える塩原良和(『変革する多文化主義へ―オーストラリアからの展望』)の問題点は、オーストラリアの「多文化主義」の問題を歴史的に的確に分析しそれを日本の外国人の問題に応用させ実践に結び付けようとするのですが、マジョリティ(日本人)とマイノリティ(在日外国人)との関係性に問題を限定して考え、その「共生」を「協働」によって実現していくことを「変革」としている点です。重化学工業化による自然破壊下の住民、身障者、高齢者、寂れる中小・零細企業主、非正規社員にしかなれない若者たち、野宿者、それにジェンダー差別の中にある女性など様々な問題を抱える地域社会にあって、各当事者がその地域社会そのものの変革に取り組めるようにするにはどうすればいいのかということが塩原の発想にはないように思われます。

神戸での震災の時の「在日」をめぐる動きが、関東大震災のときとは違い、まさに「多文化共生」の鏡であったかのように言われますが、はたしてそうだったのでしょうか? 協働して街の復興に両者が手を携えたということはその通りでしょう。しかし、そこで強調された「多文化共生」の動きは、復興を通して神戸という都市のあり方そのものを問題にする方向には行っていないのではないかと私は危惧します。神戸の「多文化共生」を推進する人の意見はいかがでしょうか。「共生」がどのような内実をもった言葉として語られるのか、この点を吟味する必要があります。新自由主義経済下の「多文化共生」の実態は何か、もっと開かれた論議をすべき時が来ました。

私の主張を記した論文が掲載された、斎藤純一編『人権の実現』(講座「人権論の再定位」全5巻、法律文化社)が発売されました。この講座は、人権理念を哲学的に再定位し、「批判的自己修正力をもったプロセス・方法・制度装置を探求する」ことを意図したものです。
関心のある方は私にメールをいただければ定価3300円の8掛けで購入可能です。私の論文内容を確認したいという方には添付でお送りします。


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斎藤純一編『人権の実現』の「はしがき」より

「第4章・崔勝久「人権の実現について―『在日』の立場から」は、日立裁判や国籍条項撤廃などの市民的・社会的・政治的権利の実現の運動に携わってきた経験に立って書かれた論考である。崔が批判するのは、定住外国人(「在日」)の権利主張に対してある限られた範囲でのみ応じようとする日本市民の姿勢である。彼が重視するのは、定住外国人がたんに諮問を認められる者としてではなく、熟議のパートナーとして意思形成―決定に参加しうる(地方自治体内の)住民自治の新しい仕組みをつくりだし、共に生き(延びて)いくことのできるように地域社会を形成し直していくことである。それは、「公の意思形成への参画」にあたる職務は日本国籍者に限るとする「当然の法理」を問い返し、マジョリティが認めるかぎりでの「包摂」という論理を問題化していくことにつながっていく。

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