2010年10月15日金曜日

さらばサツキさん、「革命」に生きようとした友人、逝く

サツキさんはこの5ヶ月間の闘病生活もむなしく、本日、病院で亡くなったそうです。御冥福を祈ります。

サツキさんは、新左翼党派に属し20歳の時から活動をしていたそうです。成田闘争で機動隊から水平打ちされた催涙弾で片目を失明し、下半身は同じ新左翼の他党派の火炎瓶を下半身にまともに受け大火傷をしたとのことです。

私たちとは、10年以上、川崎の「外国人差別を許すな・川崎連絡会議」で一緒に活動をしてきました。歌が好きで、カラオケでは何時間も歌うような明るい性格の持ち主でした。
1週間前に彼が末期がんで手術もできず放射線と抗がん剤で「復帰」しよとしていると聞いて、私はすぐに電話をし、早く元気なったらカラオケに行こうねと言ったところ、喜んで「そうしましょう」と応えていたのですが・・・残念です。

61歳11カ月と部屋にありましたが、病床には同郷の太宰治の『走れメロス』が置かれていました。純粋な文学青年だったのでしょう。

彼の本名は今日、初めて病床で知りました。ある中年の女性が成田闘争の集会に参加したときの名簿を彼が見て、その日の夜自宅に来たそうです。その時の彼の説得によってオルグられた、本当に感謝しているということを彼の耳元で話していました。そうか、彼らはもう40年も、党員として命をかけ日本社会の「革命」を目指して闘ってきた同志なんだ、ということをつくづくと思い知らされました。身内は誰もないところで、意識のない彼の足をずっとなでる人たちを見て、彼らは闘ってきた「仲間」なんだなと実感しました。

今のこの時勢、「革命」に本気で取り組んでいる人たちがいるということは驚きです。「革命」とは何か、それはどんな手段によって実現するのか、世俗化した世界において一般の大衆との接点はどうなるのか、一部の労働戦線の「勝利」をもって針小棒大に拡大解釈して自論を展開しているだけではないのか、仲間を暴力的に切り捨ててよいのか、「在日」問題を利用主義的に取り上げてきたのではないか等など、私なりに言いたいこともあります。

しかし私はサツキさんとは論争をしたことがありません。時々は自宅に集まり、楽しく酒を交わし話をした仲です。妻は、彼の仲間にどうしてもっと早く知らせてくれなかったのよと涙ながら詰め寄っていました。意見が違ってもいいではないか、どうして10年も一緒に活動してきたのに、党の事情で私たちの人間関係を切るようなことをしたのか、恐らく彼は自分の心情と党の方針の間で悩んだに違いありません。

そういえば、昨夜から私は自室のステレオでナット・キング・コールを聴きだしました。夢の中で私が「モナリザ」を歌っていたら誰かが自分に歌わせろとマイクを取り上げるのです。不思議な夢だなと思っていたら、その意味が先ほど届いた彼の死亡を知らせるメールを見てわかりました。サツキさん、今度またカラオケに行きましょう。下手だったけど、たっぷり、何時間でも聴いてあげるね、御冥福を祈ります。

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