2010年9月28日火曜日

個人史―私の失敗談(その5、お母さんたちの問題提起)

私は慣れない自分の仕事のことに全力を尽くして鉄屑を運ぶトラックを乗り回していましたが、桜本ではじめた地域活動のことが気になっていました。保育園は公認保育園として社会的に認知され青丘社の中心だったのですが、同時に「在日」青年や日本人の青年が多く集まるようになりいつの間にか自分たちの問題意識で動き始め、何が中心なのか混沌とした状況になっていました。ボランティアから主事になった日本人青年や「在日」の主事たちにとっては既に日立闘争は「伝説」になっており、彼らは日立闘争から学ぶものはないと公言するようになっていたのです。

私はその状況に危機意識をもち、川崎市の奨学金制度における差別(国籍条項)問題があったことをきっかけに「民族差別とは何か」というティ―チインを提案し、青丘社に関わる職員とボランティ全員で民族差別と闘うことの意味について徹底的に話し合いました(「民族差別とは何かー青丘社での民族差別の本質を問うティ―チイン資料として」http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_16.htm)。

そのティ―チインがきっかけになり青丘社の中で保育園や学童保育・学習塾を統合して「民族差別と闘う砦づくり」をめざす運営委員会をつくることが、正式に理事会の承認をうけて発足しました。教会員の、それほど社会意識の強いとは言えない人たちを説得して、私たちの熱意や意欲を支えてくれたのは李仁夏牧師でした。日立闘争からの動きをじっと見守り支えてくれていた李牧師の、私への信頼はそれほど篤ったのです。

私はその運営委員会の委員長に選ばれました。月に1回、各現場の代表と社会人(私と、日立闘争後、川崎市役所に就職したY君)が加わり、各現場の報告を受け、現場の問題を議論するようにしました。妻は3人の子供を産み乳がんの手術をしたこともあり一度復職した後レストランを始めるにあたって退職していましたが、保育園の父母会の会長の悩みを聞くうちに、保育内容に関わると思いそのことを保育園に伝えようとしたのですが、彼らは「文句を言っている」と反発しはねつけるばかりでした。そこで「在日」と日本人のお母さんたちが一緒になって話し合い、保育園のあり方に問題を投げかけるようになりました(曺慶姫「『民族保育』の実践と問題」『日本における多文化共生とは何か』(新曜社)参照)。

その問題提起の内容を聞きながら、私たちが目指してきた民族主義的な運動と大きくなってきた組織のあり方に根本的な問題があると気付き、私は彼女たちの問題提起を受け留め青丘社内部全体の問題にしようとしました。保育園(青丘社)は差別と闘うことを掲げた「在日」のためのもので、「在日」が主になっており(民族保育)、日本人はそれを見守り支える存在となっていたため、日本人父兄は傍観者的な立場にならざるをえず、そのことの反発からいろんな問題が噴出して父母会会長は苦しんでいたのです。

民族や国籍に関わりなく子供一人ひとりを見守るというより、どうしても差別に負けない子供に育ってほしいという、運動をしてきた私たちの思いが保育内容や、組織の在り方にでてきていたのです。「在日」の大変さや差別の実態を聞かされても地域の日本人父兄からすれば、私たちの子供と私たちの生活の大変さはどうなるのよということにならざるをえません。

妻は元保母として保育内容の問題を根底から考え直さなければならないと考え、私は青丘社の存在意義、組織の在り方を捉え返さなければならないと認識するようになりました。いずれにしても自発的に地域のお母さんたちが提起した問題を青丘社全体が一人一人しっかりと受け留めることが先決であることを私は主事たちや職員、各ボランティに精力的に(時には徹夜をして)話しかけ説得を試み、各現場で問題提起のことを話しあうまで運営委の凍結を宣言しました。

保育園のお母さんたちが準備をして礼拝堂で問題提起をするという前日に、組織の混乱を引き起こしたという理由で、私は青丘社の主事や青年たちから糾弾を受けました。私たち夫婦は気が狂ったと叫ぶSさんは、その時のテープを問題提起したお母さんたちに送りつけてきました。糾弾される中で、それでも保育園のお母さんたちが青丘社に問題提起するという事実は残ると一言、私は何の弁解をすることなくみんなに話しました。

涙ながらに訴えたお母さんたちの問題提起の後、臨時の理事会が開かれ、何の議論も総括もなく、運営委員長の解任、同時に運営委員会の解散が多数決で決められましたが、その記録は一切公開されていません(「社会福祉法人青丘社理事長に宛てた公開書簡」http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_38.htm)。

私は保育園の園長は牧師が兼任するのでなく、それを専門職とするべきだというところまで踏み込んだので、NCC総幹事に選ばれ対外的な仕事に忙しかった李牧師は、信頼していた崔が自分を追放しようとしていると捉え、私を「過激派」とみなし、李牧師に批判的でありながら「身内の仲間づくり」を優先してお母さんたちの問題提起を受け留めようとしなかった主事や青年たちと一緒になることを選びました。青年たちの糾弾も理事会の決定も全て彼が承諾・実行したものだと思われます。

義母を含めた私たち家族は地域活動や教会からはじき出されるようにして離れることになるのですが、そのときの私たちの生活はまさに「地獄」でした。しかしまさかそのときの問題提起が30年後、現在の新自由主義下の「多文化共生」を批判する根源的な核になろうとは私たち自身、夢にも思ったことはありません。

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