2010年9月14日火曜日

「在日」のスクラップ(鉄くず)屋さんと出会って

今日、身内が手放した家を解体し引っ越すというので、解体屋さんが残されたクーラーや室外機を取りに来ました。どこにでも解体現場に駆けつけ、そこで金属ものをもらっていく仕事です。私と同年輩に見えたその解体屋さんは腰が低く、要らないものは何でももらっていくという話をしていました。私は、岳父のスクラップの仕事を継いでいたので、私もスクラップの仕事をしてたんですよと雑談の中で話しました。

そうすると誰もいなくなったところで、ハングサラミ(韓国人)ですか、スクラップの仕事をしていたと言われたので、と彼が言い出しました。そうですと答えて話がはずみました。奥さんを亡くされて、再婚をせず子供を育てたこと、数年前に焼肉屋を止め、昔やっていたスクラップ屋に戻ったということでした。ヤード(置き場)を持たず、解体現場を回って金属ものを集め、すぐに仲間に売っているのでしょう。ヤードがなければ家電にある銅線やレアメタルなどを取り出すことはできませんから。

私は30代の頃、在日韓国人問題研究所(RAIK)の主事を辞め、川崎での地域活動の現場を離れる決心をして、亡くなった岳父の小さなスクラップ屋を継ぎました。朝鮮人の従業員が4名の小さな会社でした。彼らは達者なもので、11トントラックに40トンの鉄くずを積み、運搬するのです。毎朝夜明け前にでかけ、造船場のスクラップを取りに行くのが主な仕事で、私の場合はヤードがあったので、その鉄くずを機械にかけててのひら大の大きさに切り、問屋に納入するのです。問屋はそれを電気炉をもつ会社に納め新たな鉄に生まれ変わります。そのスクラップ業は、戦後、ごみの収集と合わせ、在日朝鮮人が従事する仕事でした。

私は日本名を名乗る彼が東京の民族学校を出たことを知りました。映画「パッチギ」の世界の経験者でしょう。腰を低くし、解体現場を回り、家電や金属ものをもらう仕事の大変さに思い至り、これをきっかけにお付き合いしましょうねと言ったのですが、彼は何か解体物の処理で困ったときにはいつでも連絡ください、と答えました。それは商売にしたいというより、何か親近感を表す言葉だったのでしょう。

本名を名乗ることを日立闘争以来主張してきた私自身はどのビジネスの時でも本名を名乗り、3人の子供は日本名(日本読み)のない子として育てました。地域で本名を名乗る体制をつくることにも奔走してきました。しかし今、それでよかったのか、複雑な想いを抱くのです。

日本人と同じ権利、そう、それは当然です。しかし朝鮮人であることを当たり前のこととしては生きにくい現実を今日も目のあたりにして、私は日本のあるべき姿は正論を並べるのではなく、明治以来の国民国家づくりの過程でどれほど圧倒的な日本人が植民地主義を正当化する感性をもたされてきたのか(朝鮮人自身も)、その実態を知り、そこからの脱却はどうするのかという課題を自分の課題として取り組むことから始まると改めて思いました。

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