2010年2月21日日曜日

マイノリティ論の問題点

川崎での日立闘争以降の運動の中でたどり着いたマイノリティの運動論が、「要求から参加へ」と「マイノリティのためにいいことがマジョリティにもいいことである」というテーゼのようです。そしてこのテーゼは、「多文化共生」というスローガンで語られています。私たちは、『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社)で、「多文化共生」を批判しました。今後、「多文化共生」を言うのであれば、まずこの本を読んでからにしてくださいと言えるだけの水準、内容にはなっていると自負します。

今日は、川崎で未だに言われているこのマイノリティの運動論を批判します。
「要求から参加」へというのは、「在日」はこれまでのような日本社会の差別に対して糾弾や要求するのでなく、外国人市民代表者会議などに参加して、或いは参政権を付与してもらって日本社会に参加して、その組織や仕組みの中で要求を実現していくべきだという論理のようです。これは何重にも間違った主張です。日本社会に差別がある限り、「在日」はその不当性を糺し差別をなくす運動をしなければなりません。そしてその「要求」というのは、そもそも住民・市民が行政に対していかなる場合にも基本的に追及しなければならない行動です。それは「公共性」の追求、という言葉でも説明可能です。

「要求から参加へ」の「参加」は既成の組織や仕組みへの参加を意味するのであれば、「参加」して何をするのでしょうか。「要求」するのではないのでしょうか。私は、既成の組織や仕組みへの「参加」は「埋没」と同じと見ます。差別や、不平等を生みだす社会の「変革」への「要求」こそ、私たちの目的であるべきです。それはマイノリティがマジョリティと一緒になって変革すべき社会全体の課題です。

もうひとつ、「マイノリティのためにいいことがマジョリティにもいいことである」ということが、外国人市民代表者会議のテーゼにもなっているようです。しかし、どうしてそう言えるのでしょうか。これを例えば、社会的弱者である高齢者や「障がい者」のためにいいことはすべての人にとっていいことである」というのであれば、話は違ってきます。なぜなら、全ての人は誰もが、高齢者になり、身体的に不自由になる可能性が高いからです。だから高齢者や「障がい者」が、お金がなくとも安心して暮らしていける社会をつくることは、地域全体の課題になるのです。

しかしマイノリティの状況に対してマジョリティが問題にするとき、それは自分たちマジョリティが持っている同じ権利や境遇をマイノリティに保障すべき(してあげるべき)だということになり、自分自身は安全で確固たる場に身を置きながら、その場がマイノリティ差別を生みだしているにも拘わらず、その基盤の上で成り立っている社会と自らが闘うことをせず、そのマイノリティへの姿勢がパターナリズムであることに無意識なのです。

上野千鶴子が『当事者主権』(岩波新書)で指摘するように、識者や行政の人間がいくら差別者のためにいいことだと思いそのための制度を作ろうとも、自分たちにとっていいのか悪いのか判断は当事者がするのであって、マジョリティの善意な人間がしてはいけない、と私は思うのですが、みなさんはどのように思われますか?

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