2009年10月13日火曜日

政治的中立とは何のことでしょうか?

教育は中立、教育委員会は政治的に「中立」の組織である、行政の長の介入を許さない、これって本当ですか?

今日、川崎市教育委員会のある室長とお会いしました。私の知りたかったことは、横浜での、全国初の「つくる会」系中学教科書採択と同じことが川崎で起こうるのか、起こりえないのか、その理由は何か、を探ることでした。室長との対話で、私は問題の所在がどこにあるのか、わかりました。

まず横浜で何が起こったのか確認しましょう。横浜では18の区でそれぞれどの教科書を使うのかを6名の教育委員の無記名投票で決定します。同数の場合は、委員長が決定することができます。今回八つの区で「つくる会」系、自由社の教科書が採択されたのですが、残り8区では3対3の同数でした。従って「反動」「右翼」と言われていた委員長が職権で自由社教科書を採択したら(それには誰も文句を言えない)、18区のうち16区で採択できたことになります。

私見では、来年度以降、採択は一本化され、市内全域で同じ教科書が使われることになっているので、中田元市長が抜擢した今田委員長は、焦らず(大きな反発が起こらないように配慮しながら、戦略的に)、来年度に賭けたのでしょう。

6名の教育委員会委員は、首長が人事案件として議会に出し、承諾されれば任命するという形になっています。決して市長の独善で決まるのではなく、市民が選んだ市議が市長の人事案に賛成して決めているので、(中田)市長だけの問題ではなかったことになります。即ち、「つくる会」系教科書の全国初の採択は、市長と議会の共同作業であったということです。どうしてそれが可能であったのか、その鍵は、民主党の右傾化(愛国、自虐嫌い傾向)にあると見ていいでしょう。

室長との話では、確かに教科書を評価する作業は、まさに政治的「中立」で、政治家や党派の介入を許さない仕組みになっています。各学校での調査研究、調査研究会、その他に教科用図書選定審議会があり、その報告を受け、教育長を含む6名の教育委員会が教科書採択をすることになっています。その選択課程は、非常に厳密で現場での徹底した議論が保障されていると強く感じました。しかしおそらく、これは横浜も同じだったでしょう。

問題は、そのように上げられてきた報告を、教育委員会は参考意見として受け止め、自らの「責任と権限」で教科書を決定するということです。政治的「中立」で検討された報告は単なる参考意見にしかならず、教育委員会は独自の判断で決定できるのです。

そうすると問題は、委員を選ぶ市長の価値観と、方法論(広く教育委員会から推薦された見識ある人物の中から市長が選ぶなど)ということになります。議会は市長と同じ党派(民主党)でしょうから、市長の人事案を潰すはずがありません。「つくる会」系教科書は、これまでの他の教科書と価値観が明らかに異なっています。しかしそれでも国家の検定を通ったものです。

全国で初めて採用されたところからしても、その特異性をよしとする教育委員会委員を市長が意図的に選んだのでなければ、現場からの声が重視されていたら、ありえなかった結論です。特異性をよしとするというのは、「日本人であることを誇りに思う」「これまでの教科書は自虐的過ぎた」という観点から、「つくる会」系教科書が時代に適っていると共鳴するであろう人を、市長が委員として選び、議会も同じ考えで承諾したということなのでしょう。

阿部市長のときには川崎の教育委員会で自由社の教科書を採択しないと決定しました。しかし次の市長が、自由社の歴史観が正しい、これからの<日本人像>にふさわしいと考える識者、経営者などを時間をかけて委員として選ぶという明確な方針をもつのでない限り、自由社が採択されるということはありえないということになります。

ここで、教育の「中立性」がもろくも破れます。市長の教育委員会委員をいかなる価値観、やり方で選ぶかによって、政治性が発揮され、教育委員会の政治的「中立性」がまったく保障されないという事態に、即ち、「横浜方式」が苦もなく川崎で、そして他の地方自治体で実現されるのです。

日本人の誇り、っていうのは、過去の歴史を直視し、「歴史的なものの見方」(加藤陽子、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』)をするんでは、だめなんですか? ここが私にはわかりません。みなさんは、いかがですか。

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