2009年7月6日月曜日

「共に座る」仲間が与えられんことをー滝澤牧師

日本基督教団 川崎教会の滝澤牧師のメールを
御本人の承諾を得て公開させていただきます。
5日の礼拝の中で語られたメッセージを、岩崎さんたちの
ブックガイドで記された私たちの本へのコメントを受け止め、
送って下さいました。

今後さらに「共に座る」仲間が与えられんことを祈るばかりです。

崔 勝久

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昨日(5日)の川崎教会の礼拝説教の中で、
主題の補足として取り上げたのは詩篇133編でした。

「見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。」

必要なことは、「一緒に座る」というただひとつのことだ、と。
必ずしも仲良しではない、よく知っているとは限らない
あるいは、知っているつもりで実は知らないこともある。
でも、一緒に座る場所がある。それが恵みであり喜びなのだ、と。

語りたかったことは「隣」という無限の可能性でした。
ただ、教会というコンテクストの中では気をつけないと「信者」という「ペグ・コミュニティ」に留まらせてしまう危険をもっていると感じていました。

まさに、この対談で岩崎さんが語られている通りです。

この「恵み、喜び」は決してペグ・コミュニティに留まるものではないのです。
「隣」という無限の可能性の中に、私たちの「神の国」はある。
しかも、それが現実のわたしたちの営みの中に戸口を開いている。

> 戦後の左派はかなりの部分、逆境になればなるほどペグ・コミュニティにとりついてしまうものだから、結局は党派的になって、自分たちだけが純粋になって安心してしまうということが繰り返されてきた。

これは「教会」と置き換えても当てはまります。
事実として。
でも、だからこそそれが突破口になる可能性も持っている。

わが意を得たり! です。

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