2009年4月19日日曜日

差別用語ではないですかーその4

伊藤さんへ


>目からうろこが落ちるというのは、知らなかったことに気がつくということで
>すよね。 目が見えないから知らない、目にうろこがかかっていて、それが
>落ちて見えるようになったイコール知ったということになると思います。
>私も本で読んだかだれかの発言でなるほどと思ったのですが。
>ということは視覚障害がなにも知らないことの例えに使われているのです。

なるほど、伊藤さんの指摘されたことはよくわかりました。聖書では使徒行伝(9:18)ではこのような使われ方をいています。「サウロの回心」という有名なくだりです。突然の天からの光で目が見えなくなったサウロが「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」というのです。

参考までにと思い、グーグルで「差別用語、目からうろこ」で検索しました。ほとんどが、知らなかったことを知ったという意味で、「差別用語」に関する話でも「目からうろこ」という言葉が使われています。そのうちのいくつかは、差別用語と認識しているものがありました。

①目からうろこが剥がれ落ちて、見えなかったものが見える。感動する。視覚障害者はうろこがはがれ落ちても見えない世界には変わりない。それって「感動できない」ということか。
②「目から鱗が落ちる」もコンタクトレンズを着用している人に対する差別、というのもありました。

うろこをコンタクトレンズととらえるのは、パウロ(サウロ)という世紀40年ごろの人のことを記したものですから、これは無理がありますね。

しかし使徒行伝を書いた医師であるルカは、瞳の白濁によって目が見えなくなっていた当時の人をよく知っており(砂漠地帯ですからそのような人は多くいたのでしょう)、その白濁部分をうろこと表現して、そのうろこが落ちて(白濁がなくなって)目が見えるようになったと表現したことに、私はルカが視覚障害者に対する差別意識があったとは思いません。文字通り、目が見えなくなったのが、見えるようになったということを言い表したかったのでしょう。

しかし伊藤さんが指摘するように、時代が下り、「目から鱗が落ちる」という言葉が、知らなかったことが突然わかるようになったとか、感動したという意味で使われだすと、確かに、「目にうろこがかかっていて」視覚障害者は「目が見えないから知らない」という、視覚障害者への差別を前提にした表現になるという指摘はあたっていると思います。

「目からうろこ」を差別用語と断定し、その用語を禁止することは賛成できませんがその言葉が視聴障害をもつ当事者がどのように感じるのか、よくわかりました。「目からうろこ」という安易な表現は今後、しないようにします。御指摘、ありがとうございました。

日立闘争のとき、当時の「在日」の高校生が「馬鹿でもチョンでも」は差別用語だとして「糾弾」闘争をしたことがありました。この「チョン」がチョーセン人(朝鮮人)であると、ある大手企業は認め謝罪をしたのですが、昨年、私は友人から「チョンボ」という言葉を書き「差別用語」と注意されたことがあります。しかし調べてみると、チョンボは麻雀用語で、「漢字では錯和、または、狆和、または沖和と表記される」(Wikipediaより)ことがわかりました。「反応が恐ろしいので自主規制をするというのは、一番非文学的と思います」(辻井喬)とありますが、無意識に使う言葉がどのように人を傷つけるのかということは、肝に銘じたいと思います。

韓国語では、日本語に訳すととてもひどい差別用語になるのですが、それが親しみをこめた表現として使われているものもあり、差別用語はすべて抹殺するのがいいのかは、もっと議論をすべきでしょうね。いずれにしても「当事者主権」を一番の要として思考し、表現の仕方も安易に慣例に従わないようにしたいと思います。


昨年、お会いした伊藤さんの仲間はみなさん、お元気ですか、よろしくお伝えください。私の「共生」批判をしっかりと理解してくれたのは、伊藤さんたちの仲間でした。そのことで私はどれほど勇気つけられたかわかりません。阿部三選阻止に向けて一緒にやりましょう。次回、お会いできるのを楽しみにしております。

それはそうと、私たちの『日本における多文化共生ー在日の経験から』の点字作業は終わったのでしょうか、全国の図書館でも読まれればいいですね。

崔 勝久

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