2008年8月12日火曜日

「民族保育」の実践と問題を読みました

滝澤 貢さんから送られてきた、「民族保育」の実践と感想を
ブログに掲載させていただきます。

『日本における多文化共生とは何かー在日の立場から』に収録
されている曺慶姫氏の「「民族保育」の実践と問題」は、具体的な
保育の現場で模索されてきた、桜本保育園の核となる「民族保育」
についての批判です。

「民族保育」は「多文化共生保育」と名前を変えても、その質は
同じものです。滝澤さんの定義では「属性」を求めるものです。
それは被抑圧者にとってナショナル・アイデンティティとは何なのか、
という問題とつながります。支配のナショナリズムはだめだが、
抵抗のナショナリズムは絶対的に評価すべきものなのかという問題です。

これまで川崎では、「共生」ということと、「民族保育」というのは
無条件に評価され、「民族保育」(=「多文化共生保育」)は「共生」
の目玉でもありました。しかしこれは結局のところ、人にはナショナル・
アイデンティティが最も重要なものであるという考え方に基づくものであり、
日本のナショナリズムの攻勢に加担するものであると思います。

「民族保育」の実践と問題、を読み、」また滝澤さんのご意見に
対してみなさんのご意見をお寄せください。

崔 勝久

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「民族保育」の実践と問題、を読みました。 

キリスト教保育を標榜する幼稚園の名目園長というわたしの立場から、
この論文を読んだ感想を述べます。 

わたしたちの社会が格差社会である現実の中で、それが問題だと
言われることはあっても、問題の根はどこにあるのかが問われる
ことは少ないように思います。ある時突然──たとえば「小泉改革」
によって──格差社会が訪れたのではなく、わたしたちの、あるいは
この国の歩みの中に今日を迎える必然があったということでしょう。 

幼稚園という現場からふり返るならば、社会が求めた「幼稚園」は
正にさまざまでしたが、気になったのは子どもの属性を磨くことを
売り物にすることの横行でした。

早期・英才教育とは、属性を磨くことでしかないのですが、どれだけ
磨くことができるかは正に「自己責任」だったわけです。つまり、
教育における自己責任とは、「教育(その内実は属性磨き)に
どれだけカネをつぎ込むことができるか」というその一点である
ようにわたしには思えるのです。 

属性がどれだけ磨かれたとしても、本性が育たなければ無意味です。
本性とは一人の子どもの中にある生きる力がどう発揮され、
さまざまなことが起こりえる長い人生を意義あるものとして生き抜く
ことができるかにかかる本質的な部分でしょう。教育の平等とは、
制度的な保証という意味で用いられる言葉ですが、むしろ人間の
本性を伸ばすという意味においては誰も、どんな立場の者も同じ
であるという意味があるのではないかとさえ思えてきます。 

そういうように考えてみると、たとえば「民族保育」という概念は、
属性に関わるものであるのか本性に関わるものであるのかと
いう視点で見る時に、前者であるといって差し支えないでしょう。
そして、そうではなく後者を、本性に関わるものを求めて苦闘した
その足跡が、チョウさんの苦闘であったのではないかと思いました。 

98.5%が日本人であるわたしの幼稚園で、その保育目標に
「日本人教育」「日本人保育」を掲げたらどうなるか。笑い話です。
「日本人保育などという前に、子ども一人ひとりの現実に関心を
持ってください」と言われてしまうことでしょう。しかし桜本保育園が
「民族保育」という言葉を掲げなければならないという現実がある
としたら、それを掲げさせていることの責任はわたしにもあるのです。 

そのことに責任を感じ、その現実をなんとかしようと思う時に、
わたしのとるべき道はいくつかに分かれるでしょう。一つは責任ある
者としてお詫びの心を持つこと。一つは責任ある者として民族差別と
共に闘うこと。しかしわたしがするべきことはこのいずれでもないよう
な気がします。

そうではなく、わたしもまたわたしの現場で「普遍性」を求めて産みの
苦しみを続けてゆくこと(121ページ)にあるのではないか。わたしたち
の暮らすこの社会の軋轢は、日本人であるがゆえに免罪されるもの
ではないからです。

わたしたちもまた人間としての普遍性を獲得することにおいてのみ、
この社会の軋轢をはねのけることが出来るのだと信じるからです。
以上、感想終わり。

滝澤 貢

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