2007年10月19日金曜日

親愛なる後輩のEさんへー朴一著『<在日>という生き方を』読んで

親愛なる後輩のEさんへ

朴一著『<在日>という生き方』(講談社)をペラペラ読んでみました。
なるほど、まとめるとこういう風になるのかと思いましたね。

まあ、8年前の本ですから、今から見ると、足りない部分がありますが、
<在日>の流れはそのとおりかもしれません。
(しかし彼はどうして在日コリアンと記すのでしょうね、私はまずこの表記の
仕方が好きでありません。)

民団や総連という既存の組織に依存せず、市民(個人)の中から、日本人
との共闘という形態をとりながら始まった初めての運動として日立闘争を
取り上げています。

「日立闘争から公民権運動へ」「第三の道」(帰国、帰化、定住)という
タイトルからどのような位置付けかはわかります。日立闘争以降、「民族
運動としての地域活動」という動きがあったことには触れられていません。
八尾の動向の記述はあるので、分析用に集めた資料が十分でなかった
のか、地域活動の視点が著者にはなかったということでしょうか。

また、入管法の改悪でニューカマーに対する指紋押捺が始まるという事態
を許してしまった「在日」の動きを、私は重視していますが、外国人の分断
統治を図る日本政府の戦略(注1)を考えたとき、「在日」の生き方は、
「在日」だけで完結できません。この視点の萌芽さえ9年前の著者には
ないですね。

昔、韓国の活動家が日本に来て、韓国教会の青年と私が会ったとき、その
青年が「地域活動がどうして民族運動になるのか」と反問してきたことを
思いだします。同じように、川崎でも、姜博のような日立闘争以降の世代が、
悩み、反発していました。その後、主事になった李相皓のときに川崎では、
指紋押捺闘争で一挙に盛り上がり、ふれあい館設立と進むのですが、地域
活動と民族運動の位置付けが曖昧なまま残ったと私は見ています。

ふれあい館建設によって、「共生」のメッカと言われるようになってきたの
ですが、市の委託事業(現在は、指定管理者)をすることは、教育や福祉の
分野を中心に、本来市がすべき活動を、民営化の方針の下、さらに効率
よく事業を進めることになります。そのことによって、これまでのように
在日朝鮮人として展開してきた「民族運動としての地域活動」をどのように
していくのか、もっと具体的には、市の委託を受けている事業体が、川崎市
に対して自由に批判することができるのか、疑問です。

脱線しました。この事業体になった青丘社は、「在日」の運動体という立場
をどのように考えたのか、これはこれで問題を整理したいと考えています。
(このことを、あなたは私の主張する「共生」批判は、「内部批判が究極の
目的」と危惧したようですが、それは違います。)
私は日立闘争以降の民闘連の発足、ふれあい館の設立、地方自治体との
共同作業(⇔「在日」を二級市民として捉える)をどのようにとらえればいい
のか、考えているのです。今、それらの日立闘争以降の流れは全て「共生」
に収斂されています。その「共生」は全面的に肯定すべきことなのでしょう
か? 私は「内部批判」でなく、「共生」批判を通して、日立闘争及びそれ
以降の「在日」の運動を総括したいと考えているのです。

外国人住民を二級市民として位置付けることになる「共生」批判を通して
(=「共生」の脱構築)、新植民地主義を批判する視点を地域の足元で
明確にして、定住化か、本国への係りと東北アジアのあり方を求める
主体形成か、という二項対立ではない生き方が模索できると思います。

この点が徐京植たちの主張との違いになるでしょう。彼は日立闘争を
単なる差別企業への闘い・勝利とみて、「民族運動としての地域活動」
へと進んだことを理解していないように見えます。この方向はナショナ
リズムそのものの相対化、批判となるでしょう。

脱線が続きました。今回のメールの目的は、著者の見解についてです。
日立闘争、教会での私の主張、リコールに際しての金哲顕との論争、
それらをすべて紹介した上で、彼はこうまとめます。

日立闘争を支援した崔氏は「同化を助長する」という理由で会長(ママ
解任されることになった。とはいえ在日コリアンの運動体のなかで
この問題がじゅうぶんに吟味されないまま、日立就職裁判をきっかけ
就職差別・行政差別撤廃運動が各地で個別に展開されていった
ことは、 70年代の在日民族運動の方向性に大きな亀裂をもたらす
原因になった ように思われる。

日立闘争、地域活動、民闘連、教会の動きを知るあなたに直接、「共生」
をどのようにとらえるのか、見解を聞きたいという意味は、理解してくれる
でしょうか。日本で生まれ、地域で育ち、地域活動をしたうえで、海外での
生活を続けてきたあなたに、私たちの「共生」批判の目指すものがどの
ような 質を持つべきと考えるのか、継続して厳しい意見を聞かせてほしい
と願って います。お元気で。

崔 勝久

(注1)『在日外国人の住民自治ー川崎と京都から考える』のなかで、
文京洙氏は「出入国管理計画(第二次)」の内容から以下のように
「日本国民の外延の拡大」というべき方向を指摘します。
「いわば生粋の「日本人」を内包として、日本にゆかりのある者
(定住者、 日本人の配偶者、旧植民地出身者など)を「日本国民」
の外延として 組み入れ、さらにその外側にいわば使い捨て外国人
労働者を置くという、 階層的な秩序が描かれている。」

この『在日外国人・・・』はこれまでの地域での外国人施策がどのように
なされたきたのかを、京都と川崎を事例として論文と座談会形式で明らか
にしようとした労作だが、残念ながら多くの点で賛同できない部分がある。
現状認識や過去の出来事に対する明らかに誤った点が見られる。
この点は改めてあきらかにしたい。

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