2021年1月16日土曜日

発題者 木村公一 崔勝久著『個からの出発・ある在日の歩み』(風媒社)第三部に焦点を当てて ――人間のいのちを序列化する同化と排除のシステムの変革――

拙著『個からの出発 ある在日の歩みー地域社会の当事者として』(風媒社)に対して木村公一さんが書かれた論評をご紹介させていただきます。拙著を日本社会の「同化と排除のシステム」への批判と捉えての論評です。ありがとうございました。

発題者 木村公一 崔勝久著『個からの出発・ある在日の歩み』(風媒社)第三部に焦点を当てて ――人間のいのちを序列化する同化と排除のシステムの変革

はじめに わたしが崔勝久氏の名前を知ったのは、40年以上前のことになりますが、個人的な出会は、東芝、日立、三菱を訴えた「原発メーカー訴訟」がきっかけでした。わたしはその後も「日韓反核平和連帯」の活動の中で、崔勝久さんの「在日朝鮮人」と「個的実存」に基づいた生き方と考察に学んできた者のひとりです。 この度、フォーラムのパネラーとして機会をわたしに与えてくださった主催者たちに心から感謝を申し上げます。わたしは、『個からの出発・ある在日の歩み』第三部(特に217頁~253頁を中心に)に焦点を当てながら、発表させていただきます。

本書の主張の核心をわたしの言葉で表示すれば、「人間のいのちを序列化するこの国の社会装置としての同化と排除システム」への突入とその変革です。崔氏は「同化と排除のシステム」が、戦後も異なった形式をとって連続している事実を、在日の視点から鋭く見抜いていきます。その「鋭さ」とは考えることを止めない彼の生き方にあるとわたしは思っています。

1.崔氏の行動と思索の視点 崔氏の思想の本質は、金容福氏(Chancellor, Asia Pacific Center for Integral Study of Life 〔Zoesophia〕)が言うように、「思想家の思索とも、社会科学者の研究とも異なる、「ある生命主体の実際の生存闘争」(294頁)の言葉です。在日知者の実存を背負った血と汗によって書かれた思想であると言えるでしょう。その思想の舞台は、加藤千香子氏(横浜国立大学教授)の言葉を借りれば、「内包する植民地主義に無自覚のまま戦後復興を遂げ経済成長を謳歌する日本社会がつくり上げてきた他者としての『在日朝鮮人』に対する解除・差別の構造」(286頁)です。

したがって、この歴史舞台の外側の客席に座って崔氏の言説を観劇・評論することはあまり意味を持たないことになります。 さて、わたしが言う「同化と排除のシステム」がもっとも露骨に表れているのが、崔氏が問題としてきた「外国人の地方参政権の権利」(217頁~253頁)問題です。ここでは、次の三つの重要な概念に焦点を当てます。それらは⓵「日本国民」、⓶「当然の法理」、そして⓷「国民国家」です。

1)「日本国民」  崔氏は「日本国民」という概念を「憲法から外国人の人権を排除したトリック」として批判します。その際、崔氏は古関彰一(こせき しょういち)の『日本国憲法の誕生』(岩波書店)を参照します。日本国憲法10条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、この10条にしたがって制定された国籍法(1950年)によれば、「日本国民」とは日本国籍所有者であると規定されたので、憲法で保障される基本的人権は外国人には適応されないことになったのです。日本政府はGHQに対して、「日本国民」(Japanese people)とは「日本国籍所有者」であると説明してこなかったので、GHQはJapanese peopleのなかには植民地下で「日本人」であった韓国人や台湾人も含まれると理解していたようです。ところが憲法制定に携わっていた官僚がこの10条においてのみ、憲法英文をJapanese national, すなわち「日本国籍所有者」に変えてしまったのです。

 そこで、10条以外のJapanese people(日本国民)をすべて「日本国籍所有者」として解釈するという奇策な措置を弄(ろう)したのです。結論として、崔氏は「日本政府は憲法制定の最初から、植民地下にあった朝鮮人・台湾人の人権を日本人と同じように擁護すべきとは考えていなかった」のだと言うのです。このことは次の「当然の法理」の問題に行き着きます。

2)「当然の法理」  「当然の法理」とは「公権力の行使または公の意思形成への参画にたずさわる公務員になるためには日本国籍を必要とする」(226頁)という内閣法務局の見解です。それに対して崔氏は「永住権を持つ外国人が地方参政権を取得すること」(253頁)こそが当然の法理なのだと正しくも反論します。 日本の地方公務員法に国籍条項がないにもかかわらず、大企業への就職が在日外国人には閉ざされていた時代に、朴鐘碩(パク ジョンソク)さんは日立就職差別闘争で勝利しました(1970-1974)。

その結果、一般民間企業は原則として門戸を開きました。地方自治体も外国籍の永住者を受け入れ始めました。東京都の外国人職員の第一号となった鄭香均(チョン ヒャンギュン)さんが管理職試験に応募したところ、「当然の法理」として外国人は管理職試験を受けることができないとされました。崔氏はこの「当然の法理」を「戦後の日本国家においては、外国人を締め出し人権の制限をする排外主義イデオロギーの象徴とみることができます」(226頁)と認識します。「在日」という崔氏の視点は、多くの日本人の脳裏に刷り込まれた「当然の法理」の本質を浮き彫りにしてくれます。

3)「国民国家」  国民国家は、その体制を維持するには「本質的に植民地支配に向かうもので、大都市内の格差、地方格差といった国内植民地支配」(248頁)に活路を求めざるを得ない。それは必然的に個人の価値観またはアイデンティティよりも国家の価値観またはアイデンティティが先行すると、崔氏は西川長夫(にちかわ ながお)氏の議論を援用します。そこではナショナル・アイデンティティの猛威に曝される在日の歴史性や個の実存は解体の危機にされされます。

国民国家の枠組みを乗り越えるには、資本主義社会の国家であれ、社会主義国家であれ、それが国民国家のバリエーションであるならば、国民国家の枠組みを自明の前提として考えることを止めなければなりません。崔氏は、国民国家を克服する試みとしての東北アジア圏構想の観念性に対しても批判的です。なぜなら、その構想を論じる政治家や学者、運動家たちの理念に、「足下の地域社会において、国民国家の枠を超える理念と具体的な実践」(249頁)が乏しいからです。

2.「いのちの序列化」に抗して 近代日本の政治的・イデオロギー的基軸として機能してきた近代天皇制が、いかにアジアの民衆を抑圧し、彼らを貧困の中へと陥れ、さらなる隷属状態を強いたかは、今さら指摘するまでもない歴史的な事実です。この近代国家(国民国家)の権力の本質である「いのちをめぐる政治」が、日本の場合、天皇を頂点とする「いのちの序列化」というかたちで日清戦争を境に露骨に表れてくるとこになります。

その形式は靖国神社のカルト的な権威を鎧(よろい)とした天皇制国家カルトによる「同化と排除のシステム」でした。そこで序列化されたいのちは、日本の民衆のいのちだけではありません。沖縄やアイヌの人々をはじめ、朝鮮や中国の人々のいのちが、底辺に序列化され、犠牲にされても悼(いた)まれることさえない「いのち」として位置づけられていったのです。

 崔氏が指摘する、永住権をもつ外国人の地方参政権を人権の問題として理解しない日本社会の本質を、わたしは「いのちの序列化」に向かられた「同化と排除のシステム」を隠し持つ近代日本社会の在り方に見ました。そして崔氏はその実態を、日本の戦後処理の問題として植民地支配の清算と取り組むことなしに語られる「多文化共生」の欺瞞性に見るのです。

3.むすび 日本の旧体制を擁護する政治家たちは、死者までもが「合祀される資格がある者」と「無い者」に序列化するヤスクニ・カルトを参拝します。日本社会はそれを放置しています。「いのちの序列化」の基準は天皇との距離の長短、すなわち天皇への恭順さの違いでした。「いのちの序列化」は現憲法下においても、天皇による春と秋の叙勲と言う儀式のなかに生き延びています。

 このような同化と排除の底辺で抑圧された人々が求めた解放とはいったい何だったのでしょうか。それは運命としての諦念でしょうか、死後の天国でしょうか、民族解放の闘いでしょうか、階級闘争によるプロレタリア独裁でしょうか。私たちはそれらひとつひとつにそれなりの歴史的な意味と価値を認めなければなりません。けれども、抑圧された人々が模索した解放とは、宗教的なものであれ、社会的なものであれ、政治的なものであれ、人間の根源にあって解き放たれることを待っている≪いのち≫ではないでしょうか。

人々が正義・人権・平和を求めるのは、それらが≪いのち≫へと解き放たれる通路であるからです。わたしはこの解き放たれることを待つ≪いのち≫を「根源的ヒューマニティ」という言葉で呼んでいます。人間のいのちの序列化に抗がう民衆の連帯は、国境を越えて、歴史の根源的な動力になります。その民衆の力はさらなる普遍性を帯びて国民国家の枠組みを溶解していくに違いないと、わたしは信じています。Ω

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