OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2020年10月10日土曜日
小出裕章さんの「その朝」ー文芸誌「早稲田文学」「2016年春号」
もう50年ほど前の話ですが、日立闘争に私がかかわっていた当時、新左翼の党派の人たちは立場を超えて日立闘争に関わってくれました。そのとき、宋斗会の闘いのことを知りました。お会いしたことはなかったのですが、小出裕章さんの文書に宋斗会のことが触れられていたので、ご本人の承諾を得て、ここに小出さんの「その朝」を挙げさせていただきます。
文芸誌「早稲田文学」「2016年春号」、堀江敏幸氏責任編集企画「足の組み替え」
その朝
小出 裕章
その朝、次郎はいつもどおり目を覚ました。僕の隣には太郎、その隣に次郎、そして連れ合いが2枚の蒲団に身体を並べて寝ていた。抱っこしろと泣く次郎を連れ合いが抱き、いつものようにおっぱいをやろうとした時、次郎の泣き声がやんだ。何が起きたか分からないまま、僕は次郎を抱き、動かなくなった次郎の頬を叩き、心臓の鼓動を聴いた。初めは聴けていたように思った鼓動が、聴けなくなり、次郎は動かないままだった。救急車を呼んで病院に運び、当直の若い医師が次郎の救命処置に当たった。あの機械は何と呼ぶのだろう。次郎の命の証が刻々とスクリーン上に上下して流れて行く。医師の救命処置の間にも、その証が次第に弱々しくなっていき、上下をやめて一本の線となった。医師が「ご臨終です」と述べ、僕はただ茫然として次郎を見つめ、連れ合いは次郎に取り縋った。死因は「急性心不全」としか言いようがないと医師が言い、僕たちはタクシーを呼んで次郎を家に連れ帰った。その日は太郎の2歳の誕生日だった。僕たちは隣町にある馴染の店にケーキを買いに行き、まだ生きているかのような次郎の横で、太郎の誕生日を祝った。
次郎は、先天的な障害を背負って生まれた。その日、感染を防ぐためにプラスチック製の小さな保育器の中に入れられていた次郎に僕は対面し、消毒液に漬けた腕を保育器の中に差し入れて、次郎の小さな小さな手を握って、僕たちの許に来てくれた次郎に挨拶した。翌日、手術、さらに全身の血液の交換が必要になるなど、次郎の苦闘は続いた。それでも病院の小さなベッドで、次郎は大きくなっていった。3か月余の苦闘の後、次郎はやっと退院し、僕たちの家にやってきた。秋も深まって来た頃だった。次郎が来てくれてから、次第に寒くなってきたし、風邪をひかせてはいけないと思い、次郎を外には連れ出さなかった。暖かくなったら外に行こうなと次郎に話しながら、窓から外の景色を見ていた。狭い宿舎で4人がじゃれ合うように過ごした。次郎は次第に大きく、元気になり、にこにことよく笑うようになった。僕は時間の許す限り太郎と遊びながら次郎を抱いていたし、食事をする時には、次郎を座らせた赤ん坊用の揺り椅子を足で揺らしながら食事をした。次郎は、座らせていた揺り椅子から畳に滑り落ちていたこともよくあった。そんな時は、どんぐりのような真ん丸な目を驚いたように開いていた。僕は次郎を抱きあげて頬擦りした。太郎、次郎と立て続けに小さな人たちを迎えた生活は大変だった。でも、楽しく充実した時だった。だが、次郎は突然、僕たちを残して一人で旅立った。わずか半年の命だった。
死はいつも生の隣にあって、向こうからやってくる。僕の親父は12年前、83歳で亡くなった。大酒飲みだったし、ヘビー・スモーカーだった。肺がんを患い、軽い脳梗塞を経験して一時は体も不自由だった。そして、歳を取ってきたことを自覚し、好きだった車の運転もやめ、前日夜は「おやすみ」とお袋に声をかけて自分のベッドに行ったのだそうだ。翌朝、お袋が起きた時に、トイレの前で倒れていたそうだ。早朝連絡を受けた僕は、飛行機で親父のもとに飛んで行ったが、親父は担ぎ込まれた病院ですでに死んでいた。病院のベッドで死ぬことを嫌っていた親父は、見事に自宅で突然、あの世に旅立った。死に目に会うことはできなかったが、実に「子孝行」の親父だった
お袋は今年93歳になった。親父に先立たれた後も、89歳まで元気で一人で暮らしていたが、4年ほど前に脳梗塞で倒れ、現在は療養施設にいる。療養施設の個室のベッドで窓からの景色を見ながら暮らす毎日。僕が見舞いに行くと、別れ際に手を握ったまま離さず、「もう帰っちゃうの、いやだな」と呟く。「なかなかお迎えが来てくれない」と嘆くお袋の死はいつどのようにやってくるのだろう。
僕の周辺には、事故を装って権力によって殺された疑いが拭い去れない人が五人いる。また、自死を装って殺されたのかもしれない人が二人いる。自死は、死のうちで特別である。自分の意志で死を選べるのは、多数の生物種の内おそらく人間だけだろうし、自死を選ぶ人間は多くない。僕は、確実に自死した親族を一人、親しい友人を一人知っている。親族の自死は、連れ合いに先立たれ、絶望の中で選んだ、いや選ばざるを得なかった死であった。その死は、日本で毎年3万人にも上る自死者に繋がる。困窮した生活の中で、死を選ぶしかない状態に追い込まれた末に選ばされる死である。また、今現在次々と起きている福島第一原子力発電所事故被害者の自死にも繋がる。人は皆だれも、普段の生活を何気なく送っている。朝、目覚め、朝食を摂り、仕事に行ったり、学校に行ったりする。昼食も食べるだろうし、夜になれば、家族や恋人、親しい人と夕食を摂り、だんらんの時間などもあって、夜、寝る。その暮らしが、特に遮られることなく、平穏に続いて行くことが、多くの人にとっての幸せである。福島第一原子力発電所事故はその平穏な生活をある日突然に断ち切った。家も仕事も学校も地域の繋がりも、友達もすべてが奪われて、人々は流浪化した。その数は一人ではない。十人でもない。百人でもない。千人でも、万人でもなく、十万人を超える人々が、突然、思いもしなかった苦難に陥れられた。その苦難はおそらく経験しなければ、分からない。多くの日本人は他人事として通り過ぎて行く。絶望の底で自死する人がいまだに後を絶たないし、これからも続くだろう。
確実に自死を選んだ僕の親しい友人は1915年生まれ、生まれた場所は朝鮮半島の慶尚北道であった。朝鮮は1910年に日本によって併合されており、彼は大日本帝国の臣民として生まれ、名前は木村岩雄。日本人として育ち、戦争にも日本人として参戦した。しかし、日本が戦争に負け、1952年にサンフランシスコ講和条約が結ばれた時に、「お前は日本人ではない」として日本国籍を剥奪された。日本人として生まれ、日本語しか話すことができない彼は、常時携帯を義務付けられた外国人登録証を焼き捨てて、日本国に抵抗、投獄された。僕の親父同様にヘビー・スモーカーだった彼もまた肺がんを患い、死期が迫ってからは病院のベッドに拘束されていた。彼の死の前々日、僕は彼が好きだったイチジクを持って彼を病院に訪ねた。その日が彼の誕生日だと僕は思っていたが、彼は「いやまだ誕生日は来ていない」と、付き添いの人に確認した。そして、彼自身が決めていた六月八日、八七歳の誕生日に自分で延命用酸素チューブを引き抜いて、彼は死んでいった。「宋斗会」が朝鮮人としての彼の名前であった。
2015年11月13日の金曜日、フランスで事件が起きた。サッカー場や、コンサートホール、いくつかのレストランで同時に、爆発や銃撃が起きた。130名のいわゆる「一般市民」が殺され、日本政府もマスコミも含め、すべての人たちが、この事件を「テロ」として断罪し、「国際社会」はテロと断固として戦うと高らかに宣言した。現在の世界には、一方に、享楽的な生活を当たり前のものとし、さらに享楽的世界を求める「一般市民」がいる。その世界には、まるでTVゲームでもするかのように、地球の裏側を爆撃し、ピンポイントで人を殺せる人たちがいる。一方には、何気ない生活すら許されない人々がいるし、ある日突然爆撃で殺されたり、じわじわと戦争に飲みこまれていく人たちもいる。フランスでの爆発はいわゆる爆弾を体に巻き付けての自爆だった。銃撃した人もまた警察との銃撃戦の中で殺害された。その後もフランス国内での捜索で、犯行グループが警察の捜索を受け、女性が体に巻き付けた爆弾を爆発させて自爆したり、銃撃戦になって殺された。自爆をした人にも、家族はいただろう。子どももいたかもしれないし、恋人だっていたかもしれない。現在の世界をカネと武力で支配する「先進国」の横暴によって、すでにたくさんの人が殺されてきた。「テロリスト」と呼ばれた人たちの親、兄弟、子ども、友人、恋人だって殺されていたかもしれない。いや、おそらく殺されていたであろう。自爆の時、彼あるいは彼女は何を思いながら、スイッチを押したのだろう。
今、地球上には七〇億の人間が生きているのだという。人間以外の生き物を含めれば、いったいどれだけの命が存在しているのだろう。いま、この瞬間にも、新たな命が生まれ、そして命が消えて行く。生は死以上に自分で決められない。自分の生まれる場所も、時代も、親すら選べない。次郎のように先天的な障害を持って生まれてくる命もある。生まれた場所が戦場で、無残に殺されていく命もある。飢餓の只中で生まれ、美味しいものどころか、生きるために必要な水も食べものもないまま消えて行く命もある。電気をない世界で生まれる人、風呂など死ぬまで入ることができない世界に産み落とされる人もまたたくさんいる。またせっかく生まれたのに親に棄てられる赤ん坊もいる。
命とは、個人の選択を全く離れた、まことに不条理、不公平なものだ。でも、それが命というものであり、ただ受け入れるしかない。そして、すべての命は、他の命と違った唯一無二、かけがえのないその命である。そうであれば、せめて命の価値はすべて等しいことを心に刻む必要がある。僕も、今生きている僕の命が他の誰でもないかけがえのない僕だけの命であることを自覚し、僕らしく生きようと思う。そして僕は、僕以外のすべての命も輝いて生きて欲しいと希う。殺していい命も、殺されていい命も一つとして存在しない。
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