2019年9月24日火曜日

在日から見た日本の教会


今年の8月の信州夏期宣教講座で発題した内容を公表いたします。未定ですが、出版の話もあり、私のブログに挙げ、読者からのご意見をいただき、それを反映させたかたちで出版に活かせたらと考えました。読者のご批判やご意見をお待ちしております。  崔勝久
            
             在日から見た日本の教会

               8月19日   崔 勝久 
               於第27回信州夏季宣教講座

1)はじめに
 横浜長老教会の登家勝他先生からお誘いを受けて信州夏季宣教行講座にやってまいりました。私は1945年、日本の敗戦の年に生まれた在日韓国人2世の崔勝久(チェ・スング)です。

私は大学1年の夏休みに父に勧められて、初めて100名を超える在日の教会青年が集まる在日韓国教会青年会の修養会に参加しました。それまでの私は大学に入学するときに初めて本名のチェ・スングという名前を使いましたが、チェ・スングと呼ばれたこともありませんでした。その修養会をきっかけにして、私は故李仁夏(イ・イナ)牧師の川崎教会に通うようになり、私は自然と在日韓国教会の青年会の活動に積極的に参加するようになったのです。

 後で詳しくお話しいたしますが、日立の入社試験に合格したものの国籍が韓国であるにもかかわらず日本名を使い、本籍地欄に愛知県の自分の住所を書いた「嘘つき」だということで解雇された、当時19歳の朴鐘碩(パク・チョンソク)の「日立就職差別闘争」にかかわるようになりました。「日立闘争」は今でも日本の教科書に載っているそうです(参考資料:朴君を囲む会編『民族差別―日立就職差別糾弾』(亜紀書房、1974)。

その運動の過程で李先生と一緒に川崎の地域活動にはじめるようになりました。川崎教会は「イエスに従いこの世に」ということで無認可の保育園をはじめたのです。私事ですが、その時の3人の保母の一人が川崎教会の教会員で今の私の連れ合いです。 
私は川崎及び全国の在日の教会の青年会活動に深くかかわりながら、自分のアイデンティティを模索します。ICUを卒業してすぐに結婚し、そして日立闘争の事務局のメンバーだったのですが、1年間、韓国語を学ぶために連れ合いと一緒に韓国に留学しました。

大阪の公立高校をでましたが、私はICUに入学して寮生活をはじめたとき、寮の先輩から、「崔君、3-1運動はどう考えているの?」と尋ねられ、3-1運動がなんのことかまったくわかりませんでした。民族の歴史について学校で学んだことも、自分で本を読んだことも全くなかったのです。

しかしそれでいて私には自分が朝鮮人であるということにコンプレックスがありました。韓国人でありながら韓国語はわからず、自分は本国の韓国人とは違う「在日朝鮮人」でしかなく、在日朝鮮人とは何か、自分はどう生きればいいのか、ずっと悩んでいました。私は徹底して在日朝鮮人として生きるということに固執しました。
在日のキリスト者で「山村政明」という早稲田大学の学生が「歴史の不条理を」を訴え「ささやかな抗議」として焼身自殺したことが報道されました(1970年)。そして小松川事件の李珍宇、寸又峡での金嬉老事件についても他人事のようには思えませんでした。大学に入って間もない頃であったと記憶しています。


2)ファミリー・ヒストリー
 私は1945年12月に、日本の敗戦の年に大阪で生まれました。父は戦前、職人を雇って作った靴を売りさばき、母は小さなカレーの専門店を難波ではじめ、それが評判となり、心斎橋の一等地で店を構えるようになりました。そして母はレストランやパチンコ、ジャズライブの店を経営するようになりました。私たち家族は店舗の上に作った三階に住んでいました。道頓堀が目の前で、心斎橋と宗右衛門町が交差する角地でした。

順調であったはずの店はその所有権をめぐり、今をときめく吉本興業との裁判沙汰になり敗訴し、断行命令でそこから出ることになりました。私の中学3年のときです。私は経済的には何ひとつ不自由のない環境の中で育ちました。学校は「順調」に、区域内の府立高津高校にはいり、中学のときからやっていたバスケットボールを続けていました。私にとって唯一どうしても人前では言えず隠していたこと、それは自分が朝鮮人であるということでした。だから高校を卒業するまで、親しくなった友人にだけ実は自分は朝鮮人であると、そんなことはどうでもええよ、関係ないよ、という答えを期待しながら告白していました。

 母は私たちの一家の没落で、愛人を囲う父に見切りをつけて二人の息子を連れて行きたかったようですが、父は息子だけは絶対に手放さいと主張して裁判になり、結局、私たち二人の息子は父と一緒に住むようになりました。
母は二人の息子を置いて家を出ていきその後も喫茶店をやっていました。そして日本人男性と再婚し帰化しまったく日本人として生きてきたのですが、その日本人男性が病気で亡くなり、母もそれを追うように今年の3月(2019年)に亡くなりました。母のあのシンの強さ、したたかさが生来の性格もさることながら、実は戦前、韓国の大邱から日本に渡ってきて解放後帰国した、大家族の生活環境の中で培われたものであるということがわかったのは、生前90歳を超えた母と過ごす時間が多くなり、彼女の昔話を聞けるようになったからです。

父は1918年の午年(うまどし)生まれで存命していれば2018年で100歳になっていました。父の押しの強さ、直感の鋭さ、行動力、そして涙もろさは、生来の性格に加え、日本社会の中で朝鮮人として歩む中で形成されてきたものだろうと思います。北朝鮮の黄海道信川(シンチョン)で生まれ育ち、彼の父親の死後、母親と兄妹の5人で朝鮮人居住地の間島(満州)に行き極貧の生活をしたそうです。父はそこで腸チフスにかかり隔離されていたとき、母親が何度もそっと様子を見に来たらしく、それを幼かった父は来るなと言ったじゃないかと怒鳴っても、母親はまた覗きに来たというのです。その話を私にするたびに父は涙を流していました。おそらく祖母は感染して亡くなったのだろうと思います。

北間島での生活も母親の死によって家族は離散せざるをえなくなり、父は一度は信川の故郷に引き取られながら、11歳のとき一人で生活の糧を求めて日本に渡ってきました。満洲でもまた日本に渡ってきても、学校に行くことはなかったようです。父は朝鮮語と日本語の読み書きはできなくとも持ち前のバイタリティ(生活力)で、戦前は靴の販売をやりながら、戦後は母にカレーの専門店をさせてそれで当て、戦前から日本のボクシングフアンの間で人気のあったフィリピン選手のベビーゴステロをスカウトし「オール拳」というボクシングジムのオーナーとなり、1947年の戦後最初の日本チャンピオン決定戦で6階級のうち2名のチャンピオンを出しました(参考資料:城島充『拳の漂流 「神様」と呼ばれた男 ベビーゴステロの生涯』(2003年 講談社)。ベビーゴステロと後日日本初の世界チャンピオンになった白井義雄を連れ占領下の時代に1951年に渡米したときのことは私におぼろげながら記憶にあります。

同郷のよしみか、力道山とは相撲時代から彼の死に至るまで兄弟付き合いをしていました。戦後、占領期が終わり大衆社会の到来とともに、日本社会から疎外されていた在日は芸能界やスポーツ界で活躍しはじめていたのですが、父はそういう在日との交流をよくしていたようです。外車のオープンカーを乗り回していたのもそのころです。ただただ成功の野望を持ち続けた男の執念が実ったのでしょう。しかしついに私の家族に破局がきました。

中学3年のとき、私たち家族は大阪心斎橋の一等地から出ていくことになりました。母は引っ越し先からある日、愛人を作り好きなようにやってきた父に愛想を尽かしたのでしょう、弟を連れて一人で引っ越し先から出ていきました。
その後、裁判で弟も父が引き取ったのですが、私と父が二人で暮れしていた頃の話です。ある日、私が中学校から帰ると家には誰もおらず、隣のおばさんが、「あんたとこ、トラックいっぱい来て難波球場の近くに引っ越したみたいやで。」と言ってくれたことがありました。とりあえず難波球場の方に行ってみると、その近くの路上で父がいつものポーズで髭を剃りながら、多くの人たちに引っ越しの指示をしていました。2階建の瀟洒な家でした。

その家は、父が10年ほどの間で地下1階、地上8階のビルにして読売新聞とNHKで不法建築と大きく報道された問題の家でした。父は建築士を入れず、自分で毎日、正月もなく、釜ヶ崎から多くの労働者を雇い入れ、鉄骨やセメントを買い入れ彼らに仕事の指示をして、とにもかくにもそんなビルを建ててしまったのです。そのビルの4階にボクシングジムを入れ、テレビ中継されたこともありました。

父が作ったビルでしたが、そのビルのやり繰りは叔母夫婦がやることになり私たち兄弟と一緒に住むようになりました。父は最上階のジムで寝泊まりをしていました。そんな家庭の混乱のなかにあっても私と弟のニ人が何ら経済的に困ることなくそれまで通り生活ができたのは、叔母たちのおかげでした。叔母は母のすぐ下の妹で、日本の敗戦後、母の家族十数名が全員祖国に帰るなかでそのときおなかに私を宿していた姉の面倒を見るようにと、一緒に日本に残ったのです。しかしそのうち、家の権利の所在をめぐり、私の最も恐れていた事態である、父と叔母夫婦との争いになり、叔母夫婦は私たちのためだと言ってその家を出ていきました。それは高校生活の最後の時でした。

周りからは同胞の成功者と見られながら、吉本興行との裁判で負けて大阪の一等地から立ち退きを求められ、妻にも逃げられ、有名な女優であった愛人とも切れた父は、北朝鮮に帰ろう、カネでもめることのない所へ行こうと言い出しました。彼にとっては最も苦しい試練のときであったに違いありません。一人でさみしかったのでしょう、彼は若い、彼の境遇に同情的な日本の女性と同棲をするようになり、叔父たちが私たち兄弟のことを考え家から出るようになると、正式な結婚をし、今度は私たちと一緒に住むようになりました。若い、私と同年輩の義母は私たち兄弟によくしてくれました。しかし父は結局彼女を追い出しました。彼は別れた、逃げて日本人と結婚するようになった最初の妻、私たちの母のことが忘れられなかったのです。なるべくはよう別れてお前たちの母親に帰って来てもらうのがいちばんええのやと、ニ番目の妻や私たちに言い張っていましたが、再婚していた母は戻るはずもなかったのです。

3)在日のアイデンティティについて
 私は家を出て、大学受験を前にして何ヵ月も友人のところを転々とするようになりました。どういうきっかけでそうなったのかは覚えていませんが、私は大学の願書は、それまで一度も使ったことのない、全くききかじりで知ったチェ・スングという本名でやってくれと担任に申し出ました。ひょっとしたら中学3年のとき、外国人だから高校入試の願書をだすにあたって外国人登録済証明書をとってこいと突然言われ、職員室で泣き出した記憶があったからか、あるいはどうにでもなれと思っていたのかも知れません。私は訳もなく早稲田の政経に入って政治家になるんだと、そんなことはありうる筈もないということを知りつつ言いふらしていました。それは私自身、自分が朝鮮人であるということを受けとめられず、将来どう生きればいいのかわからない不安をかき消すための強がりだったのでしょう。大学受験は当然のように失敗しました。

私は一浪の後、現役のときには受けようとも思わなかった私立大学にさえすべりました。私は何のあてもないのにアメリカへ行こうと思いだしました。逃げ出したかったのです。英語を勉強しアメリカの大学の入学許可をとっても、経済的な状況からしても所詮行けそうにないことがはっきりしてきた年末から、私はまた受検勉強をはじめました。そうして1966年に二浪してそこが日本では最もアメリカの大学らしい雰囲気だというので東京のICU(国際基督教大学)に入りました。ICUでは私はサイ(崔)君で通っていました。登録はすべてチェであったのですが、どこか本物の朝鮮人からは逃げ出したかったのでしょう、私はサイの方がみんな呼びやすいだろうと言いながら、自分のことをサイと言っていたのです。

その後川崎市の在日大韓基督教川崎教会に通いはじめたとき、オモニ(母の韓国語)とは何のことかと聞いて回りの者を驚かせたことがありました。私の生活はすべて朝鮮人であることを隠し、そこから逃れることによってなりたっていたのです。家の中には朝鮮らしさを感じさせるものは何もありませんでした。私の一流大学を目指してきた学生生活はすべて朝鮮人であることの秘匿の上で成り立っていました。
私は在日朝鮮人とはどういう存在なのか、私はどう生きればいいのかを模索し続けました。そういう私を背後で絶えず支えてくれたのが、在日大韓基督教川崎教会の李仁夏牧師をはじめ、教会員のみなさんでした。

4)日立闘争と川崎での地域活動
私はICU卒業後、同じ教会の女性と結婚し、ソウルに語学留学に行きました。どうしても韓国語をまなびたかったのです。1年の予定が、言葉ができるようになってくるとさらに面白くなり、私はソウル大学大学院歴史学科に入りました。
しかし半年後、李仁夏牧師や韓国から来日して民主化闘争の日韓連帯を進める有能なオルガナイザーから新たに在日大韓基督教会として在日韓国人問題研究所(RAIK)を創設するので、是非、その初代主事の仕事をしてほしいという話がありました。私は当初は躊躇しましたが、日立闘争の最終面での活動と川崎での地域活動を自由にさせてほしいという条件でその話を受けました。

今振り振り返ってみるとRAIKで主事として川崎の地域活動に従事したのはわずか2年ほどだったのですが、私は全力を尽くして川崎の地域活動に関わりました。韓国留学中に清渓川というスラム街にある教会を中心とした地域活動を見学し、地域活動がどのような考えでどのようなことをしていたのかを知り私はぜひ、川崎でもそのような地域活動をしたいと考えました。私は在日の「同胞の子供たちが人間らしく育ってくれるようにということで、まず子ども会からはじめ、地域に根をはった、即ち具体的な同胞の実態に即した運動」を構想しました(54ページ『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社))。

一緒に韓国に行くようになった妻は、ソウルの幼稚園でボランティアとして働き、韓国語の歌や踊りなどを学びました。
私の母教会の川崎教会では「イエスに従ってこの世に」という信仰理解で礼拝堂を日曜日、椅子を片付けそこで地域の子供たちを集めた無認可の保育園を始めていました。牧師夫人ともう一人の在日のベテラン保母と私の妻の3人で保育園を始めました。李牧師は最初は韓国人がはじめる保育園に地域の父母たちが子供を送ってくれるか心配されたようです。しかし3人の保母の献身的な働きで地域の父母の信頼を得て、数年で保育園は社会福祉法人青丘社の公認桜本保育園になりました(197310月)。私はRAIKからの派遣という形で、その青丘社の韓国人主事として働くようになりました。

保育園児のほぼ半分は在日で、園の方針として在日はみんな本名を使うことに決めました。本名を名乗りはじめた私たちは強くそのことを求めました。1世中心の教会員たちは普段日本名を名乗り、私たち2世のように強く韓国人としてのアイデンティティにこだわるということはなかったのです。保育園では子供に本名を名乗らせるということ対して最初は父母の間ではかなりの動揺がありました。しかし彼らはもともと在日の多住地域で育った人たちであったし、民族学校を出た人も多く、最終的には子供を本名で通わせることを受け入れました。それで保育園を辞めた人は一人か二人であったと思います。

桜本保育園は障碍者保育にも力を入れ障害ある園児を受け入れました。そして何よりも私たちが関心をもったのは在日の子弟の教育で、私たちがそうであったように自分たちが韓国人であることを隠すようになってほしくなかったのです。そのうち在日の子供たちは全員本名を名乗るというようになり、在日同胞だけの民族クラスを作るようになりました。しかし保母であった妻の強い意志もあり、子供一人ひとりをしっかり見守るという保育観のもと、民族クラスは止めクラスは日本の園児と混合になりました。しかしそのなかでも韓国の歌や踊りや挨拶の言葉は韓国語を教え、園児はみんな日本の子供たちも「アンニョン」と言い合っていました。

教会も新しく建て替え、保育室は礼拝堂とは別に設置されたので、保育園のために礼拝堂の椅子を毎日曜日片付けることはなくなりました。クリスマス祝会では日本の子供たちも一緒になって韓国語の歌や踊りを披露してくれ、それを見た私たちはどれほど感動したかわかりません。今でもそのときに光景を思い出すと涙が出るほどです。
当初日本名を使っていた保母さんも本命を名乗り、在日の子供はみんな本名、それも日本式の読み方でない、韓国式の読み方による名前を使い、子供たちはみんな日本の子供も自然にそのことを受けとめていました。そしてそれは紆余曲折を経て園の方針となりました。

しかし保育園を卒園して公立の小学校に入るようになるとその多くは日本名を使うようになっていました。私たちは卒園児のオモニ(母親)たちと一緒になって学校の先生や教育委員会に働きかけ、在日が自らを隠さないで、あるがままの韓国人として学校生活を送ることの重要性を説き続けました。
また小学校の低学年を対象にした「ロバの会」という学童保育をはじめるようになり、卒園した園児も来るようになりました。次は、小学校の高学年および中学生の兄さんや姉さんたちを対象にした学習塾を作り、彼らに朝鮮の歴史を知り本名を名乗ることを働きかけました。夏季キャンプで中学生全員が雲隠れする「事件」もありましたが、桜本学園も地域で一定の評判を得るようになりました。

私たちは川崎の地域を離れるようになりましたが、それらの活動が後日の公設民営化の青丘社ふれあい館・こども館設立の基礎になったと思います。また私たちは在日の保育園関係者のお母さんたちを対象に「オモニの会」を作り、歌や踊り、それに歴史の話をするような機会をつくり、オモニたちは独自で自分たちが書いたものを集めた資料集を発行するようになりました。

私は公認保育園になった桜本保育園とともに、「ロバの会」や中学生たちに勉強を教える場を桜本学園としてその運営に全力をあげて関わりました。すべてゼロからの出発です。日本人の学生ボランティアも多く集まりましたし、桜本学園を地域での「差別と闘う砦」として位置づけ、そこに在日の青年たちは地域活動として毎週集まり、自分の生い立ちや自分の生き方について話し合いました。私たちはその在日の集まりを「在日同胞の人権を守る会」として、日立闘争の勝利の後は、日立闘争に関わった人たちを中心に「民族差別と闘う連絡協議会」(「民闘連」)という全国的な組織化に力を注ぎました。私たちはそれを「民族運動としての地域活動」として展開し始めたのです。

私は「民族差別とは生活実態」であるとして構造化された制度差別を問題にしながらも、それを問題にする主体を重要視しました。「民族運動として地域活動」の提唱の本質は、民族主義への回帰ではなく、『地域への肉薄』であり、『生活実態の直視』であり、地域の在日朝鮮人への関心は、地域に住むすべての住民への関心へと深められ、地域社会そのものの変革を求めようとする意思表示であったのです」(61ページ、『日本における多文化共生とは何か』)。

5)国籍条項撤廃運動
日立闘争の勝利集会を川崎教会でもったとき、それに参加した在日の父母から意外で切実な質問がでました。児童手当や市営住宅の入居は法律で日本人に限られているが、それは同じ税金を払う在日に対する差別ではないか、といういうのです。私は正直、驚きました。それを聞き、私は日常の構造化された差別を当たり前のこととしてとらえるようになっていた自分の感性を深く恥じました。そうだ、それが差別ではないか、法律で日本人に限るとなっていても、法律より生きている人間の権利が優先されるべきだということに気づいたのです。

私たちは早速、川崎市長に公開質問状をだしました。さいわい、当時の川崎市長は私たち在日の申し入れを理解してくれ、国籍条項撤廃を約束してくれました。それが全国に広がり、後日、日本人に限定されていた児童手当は、年金制度や市営住宅の入居条件とともに法律が変更され日本人住民同様、在日もそれらの公的な手当てを受けとるようになりました。そう、当事者が声をだせば現実は変えることができるということを私たちは在日だけでなく、日本人のボランティアも地域の住民も感じ始めました。

また私のRAIKの同僚と川崎信用金庫(川信)の制度融資を申し込むことを話し合い彼が申請したところ、職場としてはRAIKは在日大韓基督教会総会が設立した組織なのでどこから調べられても問題のないはずなのですが、案の定、川信は制度融資を申請した同僚に戸籍謄本を要求してきました。戸籍謄本を要求するということは、日立が入社試験に合格した朴鐘碩に戸籍謄本を要求したのと同じで、外国人は採用しないという宣言です。まさに国籍による差別であり、制度化・構造化されているがゆえに日常生活ではその差別性は可視化されないのです。

教会や地域のお母さんとともに私たちは金曜の午後、川信に行き、どうして外国人は制度融資を受けられないのか、話し合いました。彼らはそれは戸籍謄本を提出しないからだと言い張り、そのこと自体が差別だということに気づきませんでした。銀行内で座り込んで話し合いを続ける私たちに、川信は最終的には理事が出てきて、それは差別であったと認め謝罪をしました。地域住民で勝ち取った見事な勝利でした。

同じように、地域の在日のある母親(オモニ)がジャックスというクレジットカードで買い物をしようとしたところ、外国人だということで断られるケースがありました。そのオモニは悔しくて泣いて差別を訴えました。これも川崎信用金庫と同じで、制度融資やカードによる支払いにはかならず背後に保険がかけられていて、その保険会社が制度として戸籍謄本を要求していたことがわかりました。しかしそのクレジット会社も責任者が飛んできて、謝罪をし、国籍は問わないことを約束しました。

このように私は青丘社の韓国人主事として地域に住みながら、桜本保育園、桜本学園、オモニの会、在日同胞の人権を守る会全体を運用するのに差別を許さず、泣き寝入りせず、たとえ法律で外国人が排除されていてもその変更を求めることが正義、正しいことだということを主張し、青丘社全体の運営委員会の必要性を訴え、私自身が初代の運営委員長に選ばれました。

6)岳父の死
しかしある日、鉄くず回収の小さな会社を経営していた岳父の突然の死を知り、私は義母に、その鉄くず会社は私がRAIKと青丘社の主事を辞めて引き継ぎたいと申し入れました。大学を出て韓国の大学院で学び在日の生活、特に鉄くず(スクラップ)の回収業の実態も知らない私が百戦錬磨の従業員や鉄くずをだす会社の人たちと一緒にやれるはずもないと思った彼女は強く反対しました。しかし義理の弟はまだ高校生で、実際に鉄くず業の仕事はストップするわけにもいかず、しかたなく義母も私が会社の社長として働くことを承諾しました。私は早速、手形と小切手とはどのようなものかを記した本を買い、すぐに現場に立ちました。

鉄くず回収業というのは戦後、定職がない在日がそのような危険でいろんな意味で「汚れ仕事」に携わっていた業種であり、実際、朝は4-5時にはトラックに乗ってスクラップの現場に行き回収してきて、自宅横にあった台貫で11トン車に積んできたスクラップの積載重量を測りるのです。直径1メートルはある強力な磁石でトラックに積んできた鉄くず(スクラップ)をヤードといって鉄くず置き場にいったん下ろして次に磁石でその鉄くずをシャーリングという鉄くずを裁断する機械の傍に持ってきて、数センチの厚みのある鉄くずを裁断するのです。その裁断した鉄くずを今度は11トンか4トン半のトラックに積み、鉄くずの問屋に持っていきます。私は大型の免許はなかったので、4トン半トラックに乗っていたのですが、同胞のベテラン従業員は11トントラックを使い、なんと40トンも積載するのです。私も4トン半で10-15トンは積みました。

もちろん、それは違法です。しかしスクラップ回収業者は、そもそも鉄くずを高値で落とす(談合で買い取る)のでそのような違法行為をしなければ利益がでない仕組みであることがだんだん私にもわかるようになってきました。
仕入れは資格を取った同業者が事前に集まり造船場や川崎の水道局から出される鉄くずを見て、重量を推測してそれをいくらで落とすのか、いわば談合で入札して今回はどの業者が買い取るのかを決めるのです。そこで業者がみんな知らん顔をして入札現場で談合で決めた金額より安い金額を書き入れ、一番高い値段を出した者がスクラップを買い取ります。その差額を業者が山分けするのです。しかし事前にどの業者が買い取るのかは前夜の談合で決められているので、造船場や水道局の指値(さしね)を推測してそれより高ければどこが入札して買い取ろうと担当者は関係なく、知らん顔をして粛々とどのスクラップ会社が買い取るか決定します。

スクラップ回収業者の半分くらいは在日でしたが、当然のようにみんな日本名を名乗り、お互いは会社名でXXさんと呼び合っていました。しかし私は本名の崔(サイ)で通しました。本当に、こればかりは経験しないとわからない奇異な社会でした。
私は4トン半トラックに乗るときは慣れるまでは必ず助手に義理の弟を横に座わってもらい早朝、スクラップの回収現場に行きました。そうでなくとも、普段、あまり車に乗らず運転の上手でないわたしですから、妻も義母も私たちが出かけるときは心配でたまらなかったようです。このスクラップの仕事は数年続け、いろんな経験をさせてもらいました。
4トン半のトラックに鉄くずをこぶし大に裁断しそれをトラックに積み、10トン以上の重量にして問屋に運ぶのですから、警察に見つかれば即免停で、商売はできなくなるというリスクを毎日背負っての仕事でした。

ある日、重量オーバーのままいつものように高速道路に乗り問屋に行く途中、高速からの降り口でいくら立ち上がってブレークを踏んでもいつもよりスピードが落ちないときがありました。しかたなく、高速道路の降り口から一般道路に降りるところで私は側面の壁にトラックをぶっつけてスピードを緩めようとしました。しかしそれでもトラックは止まることなく、前のタクシーにぶっつかり、タクシーはその前の自家用車にぶっつけました。するとその乗用車から赤子を抱いた女性と頑強な男性が現れ、赤子が嘔吐したというのです。私は覚悟を決めたのですが、そのまま警察を呼ばれると営業停止は必然ですので、私はダメもとで、どうしてもこのスクラップを定刻に納めなければいけないと言いながら、外国人在留カードを出して、これを渡すから私をこのまま問屋に行かせてほしい、必ず戻ってくるからと話しました。タクシーの運転士はとんでもない、そんなことは許されないと怒鳴っていましたが、なんと前の車の赤子の父親のような頑強な男性は、よしわかった、すぐ戻って来いと言ってくれたのです。私は深く礼をしてすぐにスクラップを問屋に納品しに行き、折り返して現場に戻ったところ、警官がそこにやってきました。タクシーの運転手が呼んだのでしょう。

警官は私に、お前、重量オーバーだったろう、と威嚇するように言ってましたが、トラックを空っぽにして戻ってきた私は平気な顔をして、いや、とんでもない、そんなことはありませんよと平然と話し、結局はタクシー運転手には名刺を渡し保険で処置することを決め、その赤子の父親からは明日、電話をしてここに来いと行く場所を指定されました。なんとそこは川崎教会から近いところで私はよく知っている場所でした。

私は翌日、覚悟を決めその指定された家に行きました。何人もの怖そうな(と私が感じた)若衆も同席したところで、赤子の問題や、車の修理代をどうするかという話になりました。しかし話をしているうちに、その男性はみんなの話を打ち切り百万円で手を打とうと言い出したのです。私はおもわず、わかりました、と答え、なんとか解決できました。その場にいた赤子を抱いた女性と同席者がみんないなくなると、その男性は福岡から来たと言い出し、どうもその女性は愛人のようで、実は自分も韓国人だと言うではありませんか。そして話を聞いてみると彼の身内も福岡の韓国教会の会員だというのです。

私の福岡教会の友人の話をしたらなんと、彼を知っていると言ってました。私は百万円の支払方法を決め、その場をほうほうの体で去りました。こんなこともあるんですね。それで一件落着です。私はその九州から来たという男性にホントに感謝の気持ちで、ありがとうございましたと礼を言い、自宅に戻りました。

私はICUで英語を話せるようになり、韓国語も留学で言いたいことは不自由しない程度はできましたから、スクラップの回収業を辞め、なんとかその語学力を活かすことを考えました。しかしそれが具体的なビジネスになるには、紆余曲折しなければなりませんでした。
私は韓国教会の友人から誘われ、限りなくマルチ商法に近い布団販売にも関わりました。健康マットと羽根布団をセットにして1組売ると私に手数料が支払われます。しかし私は彼から離れ、マルチ商法でなく、在庫もさせないで、ただ布団一組を買ってもらい、だれか紹介してくれれば私が直接そこに行き布団を販売できれば手数料を支払うというやり方でその全体をコンピューターで管理していくシステムを作り上げました。四国、九州、関西、北海道と周り、2年で岳父の後を継いだ会社の借金はすべて返済し、信用保証協会の借り入れもすべてなくすことができるようになりました。

このようにして川崎の地域活動から離れ、文字通り、生活のために私は社会の中でいろいろな経験をしてきました。あるとき、朝日新聞でCさんという在日女性が東京都知事を相手に管理職の試験を受けさせないのは、憲法で保障する職業選択の自由を奪うものだとする裁判をはじめたことを知りました。Cさんは在日ではじめて試験で合格して東京都の職員になった外国人公務員第一号だということでした。そしてそのCさんが川崎の地域活動で川崎教会を訪ねてきた、教会近くの病院の看護婦だった鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんであることを知りました。すぐに彼女に連絡をとり、自宅に仲間に声をかけ集まってもらい彼女にその裁判のことを詳しく話してもらいました。

そのとき川崎市では既に外国人の門戸の開放が報じられていましたから、私は彼女の東京都を相手にした裁判で何か役にたつことがあるのでは考え川崎市の人事課を訪ねました。そうして話を聞いてみると川崎市でも外国人は公務員になっても管理職にはなれず、また「公権力を行使」する職務には就けないということを知りました、東京都と同じだったのです。そしてそれはすべて1953年の独立にあたって日本政府が明らかにした「当然の法理」という見解によるものであることがわかりました。

7)当然の法理鄭香均さんが問うた「当然の法理」の実態と問題点
「当然の法理」について
 看護婦として川崎の南部で勤めていたことがある鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんが東京都の職員になったというのもまた、「日立闘争」の流れの中でのことです。私自身が大学生のときは在日朝鮮人が大企業に就職するというのはありえないことでした。それが朴鐘碩の「日立闘争」の勝利判決以来、国籍を理由に解雇してはいけない、差別は許されないという運動が全国的なものになりました(民族差別と闘う連絡協議会[民闘連])(1974年)。そして弁護士の国籍条項も(金敬得 1977年)、地方公務員の国籍条項も撤廃される動きがはじまる中で、鄭さんは東京都の募集に応募して外国籍公務員第一号の職員になりました(1988年)。

鄭さんは外国人として募集試験を受け東京都の外国人保健婦第一号になったのですが、しかしその後、同僚の推薦で課長になる試験を受けようとしたところ、外国籍の人は課長の試験は受けられませんよといわれて申請用紙をもらえなかったのです。それがきっかけではじまったのが鄭香均さんの裁判です(東京都任用差別訴訟 1994年)。それは職業選択の自由、法の下の平等および人種差別の禁止に反するという訴えです。鄭さんが課長試験を受けられないという根拠になったのは、日本政府の外国籍公務員の人事(任用)に関する見解で「当然の法理」とされているものでした。しかし、東京都の募集要項の中では国籍条項のことは何も記されていませんでした。募集要項の中に管理職の受験者は日本人に限るという記述は何もなかったのです。
 
「当然の法理」は1953年、日本の独立直後の日本籍を喪失した外国籍公務員(台湾人、朝鮮人)の処遇に対する内閣法制局の見解です。公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とするこれが今日に至るまで全ての地方自治体が外国人を公務員として採用する際の基準になっています。国家と地方自治体との関係は1999年の地方分権一括法で対等になっているはずですが、法律でも条例でもない政府見解がどうして地方自治体に対してここまで実質的な影響力(拘束力)をもつのか、その法的根拠は何か、いまだ解明されていません。

1953年の「当然の法理」は、独立にあたり新たな国づくりに取りかかった日本国政府が外国籍公務員として残った台湾人、朝鮮人の位置づけを明らかにした見解ですが、私はその根底には排外主義的なナショナリズムがみられ、個の人権よりも国家を優先する植民地主義史観の残滓を払拭しきれないでいると捉えています。日本国は日本人のものであり、外国人が公務員になることを禁止はしないまでも、管理職に就いたり(「公の意思形成」)、公権力を行使する職務に就くことは許されない(「公権力の行使」)、そういうものは日本人しかやってはいけないことに決まっている、言うまでもない、これが「当然の法理」です。

内閣法制局の「当然の法理」という見解によって、旧植民地下で「日本人」公務員であった台湾人、朝鮮人は日本の独立後、改めて日本国籍をとるか(帰化)、そうでなく外国籍公務員として残っても、管理職に就けず、働ける職務も限られるということになりました。この措置の背景として、日本国はそもそも植民地主義政策で朝鮮を合併支配し日本国籍を強要してきたことに対する責任と謝罪の上で植民地支配の清算を明確にし、日本に残った台湾人、朝鮮人にどのような施策をするべきなのかという、旧宗主国としての責任を明示してこなかったという歴史があります。

日本の敗戦後サンフランシスコ講和条約までは、日本に残った台湾人、朝鮮人は一律、「当分の間」日本国籍を持つ者とされながら外国人登録を強いられ、第三国人と位置づけられていました。日本政府は日本に残った朝鮮人を迷惑な存在とみなしできるだけ日本から追っ払いたいという思惑から、10万人の在日の北朝鮮への帰還事業を成功させたのです(1959-198年)(参照:テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダスー「帰国事業」の影をたどる』)。

私は旧宗主国の日本は、植民地支配下で日本に残った台湾人、朝鮮人には無条件にどの国籍を選ぶのかの選択の自由を認めるべきであったと考えます。しかし実際は日本の独立にあたって、旧植民地下の台湾人、朝鮮人に対して彼らの意見や希望を聞き国籍選択の自由を与えることはありませんでした。そして無条件に日本国籍を剥奪しました。

② 「当然の法理」を取り上げる思想的な意味について
 私たちがどうして公務員の人事(任用)に関する「当然の法理」にこだわるのか、この点を明確にしておく必要があるでしょう。それは「当然の法理」は「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とする」という政府見解ですが、どうして外国人は公務員になれるのに、「公権力の行使」「公の意思形成への参画」にたずさわる公務員は日本国籍者、日本人公務員に限るのか、外国籍公務員ではなぜだめなのかを明確にする法律そのものがないのです。鄭香均さんの裁判で争われたのも、まさにあいまいな「当然の法理」という政府見解による規制の正当性に関することでした。

 鄭香均さんの東京都任用差別訴訟では、最高裁は「国民主権の原理」という概念を持ち出し、そのうえで、「日本の統治作用」として「公権力の行使」と「公の意思形成への参画」にたずさわる公務員は「日本国籍を必要とする」という「当然の法理」の原則を明確にし、鄭さんの管理職受験を拒んだ東京都は違法ではないとしました。しかし判決は「日本の統治作用」に及ばない範囲での外国籍公務員の存在と管理職登用を認めたうえで、外国籍公務員が就ける職務内容と管理職の範囲は各地方自治体が判断・決定することとして、最高裁自身の判断を避けました。

国民主権の原理に基づき原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり、我が国以外の国家に帰属し、その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは、本来我が国の法体系の想定するところではない」。

つまりここで強調されているのは、「当然の法理」は「国民主権の原理」に基づくということであり、個人はあくまでも国民国家に属する存在であり、個人は「国民主権の原理」に従属する存在であるという認識です。ですから外国籍公務員は、労働基準法第3条「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身を理由にして、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱いをしてはならない。」と明記しているにもかかわらず、国籍を理由にして日本人公務員と異なった待遇を受けることは差別でない、ということになるのです。

国民国家の正当性の強調が新たな差別をもたらしています。国民国家の存在、国籍は否定のしようがない現実であっても、だからといってその国民国家の「統治作用」をする職務にたずさわる公務員は日本国籍者でなければならないというのは外国人公務員に対する差別です。何故ならそれは単なる政府見解によるものであり、公務員は日本人に限ると規定する明確な法律はないからです。

「当然の法理」は公務員の人事(任用)に関する政府見解であり、個人の基本的人権よりも国民国家の正当性を前提にしています。私たちは「当然の法理」は国民国家をすべての前提にし、それは排外主義的なナショナリズムに結びつく可能性を秘めていると考えます。したがって、香均さんの今回の闘いは「当然の法理」という公務員の差別制度に対する闘いでありながら、実は公務員の人事(任用)制度の問題を通して、一般の企業や団体、地域社会、家族、個人においても、戦前の日本の国民国家を第一義的にした植民地政策の反省、清算をしたうえで、どのような個人の基本的人権を最優先する新たな日本社会を作り上げていこうとするのかを問う質を持っているのです。

グローバリズムによって資本は国境を越えていますが、それは国民国家の確固たる地位と力(軍事力)に支えられています。そして国籍や民族を理由にした差別の根幹には国民国家を前提にしたナショナリズムがあります。だから私たちは「当然の法理」が全国の自治体の外国人施策の根幹とされることで、一般の日本人市民の無意識の領域に存在する排外主義的なナショナル・アイデンティティを増長していくことにならないように注意を喚起するのです。

8)在日から見た日本の教会
最後に私に与えられた今日の夏期講座のタイトルに戻りましょう。私はここまで在日とは何か、在日としていかに生きるのかというのは私自身のアイデンティティを模索することであったというお話をさせていただきました。私たち日本に住む外国籍の外国人にとって日本社会の「当然の法理」という政府見解は外国人の職業選択の範囲の問題に止まることなく、根本的には、国民国家というものは個人の人権より上位であるという価値観をもつ日本社会の中でどのように生きるのかという、自身の生の問題になるのです。

私たち在日にとって国籍とは何か、絶対的なものであるのかということは避けて通ることのできない大きな問題でした。さかのぼってみると、1910年の韓国併合とそれ以降の植民地支配によって韓国人はすべからず自分の意志とは関係なく日本人(日本国籍保有者)にならされ、戦後の日本敗戦によって日本の国籍を保持した身分であるにもかかわらず在日は選挙権を剥奪され、そして日本の独立に際しては自分の意思にかかわりなく日本国籍を剥奪されました。そこには自分の運命に関することがらであっても自らの意思を明らかにして機会はなかったのです。

しかし私たち在日は日本社会の片隅に住み息をひそめて生きていく存在ではもはやありません。人としての基本的な人権を求めますし、自分たちが住む地域社会をよりいい社会にしていく権利・義務が私たちにはあります。同時に、日本をアジアで孤立された社会として放置するのではなく、朝鮮半島を含めた東北アジアの平和構築に貢献する社会にする権利・義務もまた私たちにはあるのです。

日本の教会は戦前の植民地支配の歴史にあって、また戦後の平和と民主主義の社会を創るにあたって、植民地支配の清算を徹底すべきであるという主張を声を大にして日本社会に訴えてこられたのでしょうか。日本基督教団は1967年になって議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」で「戦争に同調」した罪を告白し「明日にむかっての決意」を表明しました。しかしそこではアジアを蹂躙した植民地支配のことは触れられていません。

日本の教会は日本の内外におけるすべての人の基本的人権の重要性を強調すべきです。「当然の法理」は戦後日本の在り方を示すものです。全国すべての地方自治体において外国人住民の差別を正当化し制度化する根拠になっている「当然の法理」の問題性を日本のキリスト者、日本の全教会が自身の信仰の問題として受けとめてくださることを願い祈ります。

最後に今日この夏期講座が終わり皆さんが地元にお戻りになったら、近くの市役所なり区役所に行かれ、教会の外国人信徒の就職のことでお聞きしたいということで、彼らは地方公務員の試験を受け日本人と同じように就職できるのか、そしていったん就職したら職務や昇進にあたって日本人と同じように遇されるのか、それとも「当然の法理」によって日本人とは違う試練があるのか、その試練は個人の努力で超えられるものなのか、是非窓口で直接聞いて聞いていただきたいと思います。日本社会の「当然の法理」という差別を正当化、制度化している実態がおわかりになるでしょう。それをきっかけにして教会内での話し合いがなされ、そこから主の導きで新たな一歩を踏み出すことができることを願い祈ります。

                    2019年8月19
                    崔 勝久
                    日韓/韓日反核平和連帯事務局長

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