2019年7月20日土曜日

<韓日協定、何が問題なのか?> ーその(2)

〈韓日協定の何が問題なのか?〉シリーズを始めます  金民雄

<韓日協定、何が問題なのか?> ーその(2)
(2) <韓日協定>のための会談はいつから始まったのですか?
1951年度から公式論議が始まります。
1次会談は1952年です。
1965年7次会談で協定が調印されるまで、なんと14年の間進められてきた会談でした。
韓国は1948年から日本と賠償問題を整理するための準備をします。
植民地被害、戦争被害と関連した賠償要求が核心でした。1948年は韓国が1945年解放後、米軍政の支配から逃れ政府を樹立した年であったため、このような準備が可能でした。
日本は7年の間米軍政の支配下であったので、1948年は日本政府が樹立される前だったことから韓日会談は不可能なことだったのです。
アメリカを中心とした連合軍と日本の戦後処理の為の1951年9月の"サンフラシスコ講和条約"が結ばれたことにより、ようやく日本は主権を回復することが出来たのです。
1951年韓日会談はこのように韓国と日本が政府として機能した時点から動き始めたのでした。

(2-1) “講和条約”は戦争を起こした国どうし平和的関係を築く為の会談であると知られています。
韓国も日本に対して戦争に該当する武装独立運動をしたのですが、サンフランシスコ講和条約の会議に参加しましたか?
いいえ、参加できませんでした。
アメリカは当初韓国の参加に肯定的であったのですが、イギリスはそうではなかったのです。イギリスにはいつか必ず問いただしたいところです。特に敗戦国の立場にあった日本は露骨に反対していました。
当時日本の吉田茂首相は"万が一韓国が条約の署名国になるとしたら100万の在日朝鮮人を連合国民として扱わないといけない。日本は経済的負担で困難な状況になるだけではなく、在日朝鮮人の大多数は共産主義者だ。この者たちに条約の財産上の利益を与えるのは困難なことだ。"と主張しました。
アメリカは結局日本寄りに立場を変え、1951年5月頃韓国を排除する方向に舵を切りました。日本を冷戦のアジア防御線に確定したためでした。日本の負担を減らさないといけないという方針に立ったのです。韓国人たちを犠牲の対価としてです。

(2-2) 韓国がサンフランシスコ講和条約の署名作業に参加できない結果、何が問題になったのですか?
臨時政府は1941年アジア太平洋戦争が起きると対日宣戦布告をします。
日本を相手にした交戦国の位置に立ったのです。同時に連合軍の一員になる機会が生まれたのです。それでなくても長い間独立闘争をしたことも日本との戦争当事者という国際法的位相を認められた根拠です。
このような場合、韓国は日本に対して交戦国、または戦勝国の立場で戦争賠償問題を論議して賠償要求が出来る位置に立つことが出来るのです。とても重大な事案でした。
この道が途絶えたのです。
ここからは長く苦しい韓日会談の歴史が始まるのです。

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