2018年12月29日土曜日

「多文化共生」とは何かー批判的検証

「多文化共生」とは何か
<「民族差別」とは何か、対話と協働を求める立場からの考察―1999年「花崎・徐論争」の検証を通して―>より
http://oklos-che.blogspot.com/2018/12/blog-post_27.html

1970年7月7日の華青闘の告発によって、日本の新左翼は自らを「加害者」「抑圧者」であることを告白するのですが、その直後に始まった日立就職差別闘争では、日本人と「在日」の「共同」闘争によって運動は勝利に終わります。しかしそこで謳われた「共同」や、「在日」が地域活動を始めることによって最終的に行政と一緒になってスローガン化する、「多文化共生」とは何であったのでしょうか。

先に記述したように、私は日本の外国人政策を「内部植民地」主義であると捉え、「多文化共生」はそれを推進するイデオロギーと見るのですが、それはナショナル・アイデンティティを基に、歪められた歴史意識を払拭することなく助長し、日本社会の内部矛盾を「民族差別」に転嫁するものだと考えるからです。

横浜国大の加藤千香子教授が興味深い論文を発表しています。「1970年代の「民族差別」をめぐる運動―「日立闘争」を中心に」というテーマで、加藤は70年前半、「在日朝鮮人問題」の「象徴」であった「日立闘争」を分析して、当該の朴鐘碩の民族アイデンティティの変容と、闘争に関わった日本人の「自己変革」及び、闘争後の在日韓国教会が中心となった川崎での地域活動が、市教委への働きかけ、指紋押捺拒否、ふれあい館の建設、「門戸の開放」、外国人市民代表者会議の設立などによって、「多文化共生」のシンボルになった「現在をマイノリティの権利や「共生」の達成点」と捉える、固定的な評価を<脱構築>しています。加藤は、「現在を新自由主義の時代ととらえてその困難に向き合おうとするならば、これまでの前提や結論自体を問い直すことが不可欠」ではないかと問うのです。

彼女の分析は、70年代の「共同」が「在日」に「連帯と差別解消を要求する権利意識の高揚をもたら」す一方、日本人の「内向化や逃避」を生んだが、「90年代以降の「共生」は、マジョリティである日本人側が「権利を求めるマイノリティに対して一定の場所と文化の承認を与えようとするもの」であり、「「民族差別」解消の課題は、「多文化共生」のかけ声に変わっているかに見られる」というものです。

「多文化共生」はナショナリズムを前提にしたもので、日本のナショナル・アイデンティティを肯定的に捉えるものであるということを看過すべきではないでしょう。「多文化共生」は歪められた歴史観を払拭するものでなく、君が代・日の丸に象徴されるナショナリズムの強調と併存しているのです。

「多文化共生社会の実現」を市の施策の中で謳い、政令都市では外国人施策においてもっとも進んでいると言われている川崎の「多文化共生」の実態を批判的に検証することで、「内部植民地」主義とは何かということが明らかにされるでしょう。しかし多くの識者は、多様化を進める「多文化共生」を理念的にいいものだとただ漠然と想い、川崎の実態を知ろうとしてこなかったのではないでしょうか。また「多文化共生」を一般論として観念的に批判しても、実際の地域社会における実態を知ることがないので、「内部植民地」を内破する実践に迫ることはできないと思われます。

盛り上がった指紋押捺拒否闘争は外国人(永住権者と一般外国人)の分断を許し、ふれあい館の建設は市の民営化路線の嚆矢であり、「門戸の開放」は「当然の法理」の絶対化と「公権力の行使」を理由に外国籍公務員を差別する制度化であり、外国人市民代表者会議の設立は外国人の二級市民化(市長の、いざというときに戦争に行かない外国人は「準会員」という発言の上で運営され、一切の決定権をもたず、それを上野千鶴子は「ガス抜き」と表現)であるという一面は多くの人に知らされておらず、これらの一連の動きは川崎を「多文化共生」の都市として有名にしました。

「多文化共生」は多様化を強調しつつ相互の民族性の違いを尊重するという建前ですが、実際は、「共生」の名の下で、社会の「統合」「統治」をもたらすイデオロギーの働きをしていると私は考えます。「多文化共生」のスローガンの下で、既存社会の変革でなく既存社会への埋没、社会の「統合」「統治」の方向に行くのではないかと私は見ています。闘いはこれからです。

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