2017年11月7日火曜日

被爆者自身による魂の叫びとも言える『被爆韓国人』を読んで

はじめに
朴スボック、辛泳洙、郭貴勲著『韓国人被爆者』(朝日新聞 1975)は衝撃的な本でした。

戦時中に徴用工として広島、長崎に連れてこられた多くの韓国人は被曝しました。狭川(ハプチョン)出身者が多かったと言われています。被爆者全体は70万人といわれていますが、そのうち1割の7万人は朝鮮人でした。7万人の中で4万人が死亡しています。その死亡率の高い理由は、朝鮮人だとわかると水も食べ物ももらえず病院にも連れて行ってもらえなかったからです。日本に残った人もいますが、多くは体の異変を抱えながらようやく故郷に戻りました。ハプチョンは韓国の広島と呼ばれるほど、被曝者が多く住むところで、彼らの悲惨な証言には胸を打たれます。

著書の概要
彼らは体の異変が被爆によるものだということもわからなかったのです。終戦後は日韓の交流もなく、原爆症とは何か、そもそもあの「ピカドン」と言われた巨大な爆発は何かもわからず、傷ついた体で解放後の故郷に急いで帰国したのです。

体の自由もきかず、治療も受けられず、しかし戦前に日本の植民地支配によって土地も奪われ貧しさから日本に渡った人も多く、彼らは傷んだ体で生活の糧を求めました。しかし被爆した体では働くこともできず、妻が代りに働きに出たケースが多かったようです。そして解放から7年後、今度は朝鮮戦争です。一人で動けない被曝者を抱えて家族はどれほど苦労したことでしょう。韓国社会には原爆に関する情報もよく伝えられていなかったので、病に対する回りの人の目も厳しく、本人たちは精神的にも大変な苦労をしたことでしょう。

「韓国の被爆者は三重のくさりにつながれてきた。36年間におよんだ日本の植民地支配、かってなかった原爆の洗礼、そして韓国社会での疎外である」(「解説、問われる私たちー日本人として」より)。

そうして10年が経ち、日本からの情報も入るようになり、ようやく彼らの症状は原爆によるものだということがわかってきます。そのときには被爆者の2世が誕生しているのですが、彼らの多くもまた生まれつき病弱であったり、障害を抱えていました。親の被曝が遺伝して子供にまで影響をあたえているということは、現在でもいまだに日韓の両政府は認めていないのですが、その当時誰も被爆者2世のことなどわかるはずもありません。また貧しく傷んだ体で生きることに精一杯な親は、子供に被曝の話をせず、ただ黙って己の体の痛みに耐えてきたので、子どもたちは自分たちの症状が原爆に関係しているとは夢ゆめ知る由もなかったのです。

韓国人被爆者2世の声
被爆者2世の苦しみと闘いは、『被ばく者差別をこえて生きる ― 韓国原爆被害者2世 金亨律とともに』(青柳準一氏翻訳、三一書房)がお薦めです。韓国では被爆者2世の苦しみはまだ社会全体の問題になっていません。ようやく被爆者救済の法律もできましたが、まだそこには被爆者2世の支援、救済にまで至ってません。原爆病は遺伝するということが証明されてないと政府は言うのですが(日本も同様)、2世らは、証明より救済を求めて闘ってきたのです。

私は在韓被爆者の詳しいことはよく知りませんでした。大阪で韓国人被曝者の原爆手帳を求める裁判闘争を支援してきた市場淳子さんのお話を聞いて初めて知りました。その後、被爆者2世の証言を直接聞きました。その韓正淳(ハン・ジョンスン)さんの体験談は、誰も涙なくしては聞くことのできないものでした。しかし彼女は自らの痛み、苦しみ、貧しさの中で得た、崇高な確信と展望を語ります。そして日韓の被爆者2世の連帯を訴え、核のない社会、最近では原発のない社会を求める運動の先頭に立っています。

    在韓被爆者2世の証言
http://oklos-che.blogspot.jp/2012/02/1945747410102002700-hanjeongsun111walk9.html

先の2世の金亨律さんの本を読み、韓さんの話を聞き、何度かハプチョンも訪問した私ですが、3人の被曝者が中心になって被曝の経験、韓国への帰還、韓国での生活、その後の日本人支援者たちとの出会いを赤裸々に著した『被曝韓国人』を読んで、私の理解がいかに浅かったのかということを思い知らされました。

証言者はいずれも自分たちを日本に連れていき、被曝させた日本の軍国主義、そしてその後何の支援もしない日本政府に対して腸から絞り出すような憤怒の声をぶっつけます。事実、植民地支配で日本人として戦争に動員、徴用しておきながら、敗戦後は外国人だとしていっさい知らん顔をしてきた日本政府の対応は批判されなければなりません。

しかし治療のために密航をして原爆手帳を要求する裁判をして敗北し続けた韓国人被曝者を支え、共に闘ったのは日本の市民でした。その結果、韓国人被爆者は要求してきた日本人被爆者と同等の待遇を受けるようになり、原爆手帳を支給されるようになりました。しかしまだ海外での治療費の問題は残っているそうです。今更ながら、韓国人被爆者を支えてこられた日本人市民の方々には感謝したいという思いを強く持ちます。

その後も続く闘い
また広島、長崎で徴用工として働いていた被曝朝鮮人及びその子供たちは今も、三菱重工に対して当時の給与の全額支給を求めた闘いを続けています。

日本の裁判所もまた、強制連行されて広島で働かされていたときに被曝し、戦後帰国した韓国人には被爆者としての援護が行われていなかったが、この不当な扱いに対し、被害者らに4800万円の賠償を命じる判決を下すようになりました(2005年、広島高裁)。

しかし、被爆徴用工の名簿廃棄 手帳申請困難になったという報道もなされています。https://mainichi.jp/articles/20170808/k00/00m/040/141000c

<戦時中に長崎市の三菱重工長崎造船所に徴用されるなどし、被爆したとみられる朝鮮半島出身者約3400人分の名簿を保管していた長崎地方法務局が、名簿を廃棄していたことが分かった。元徴用工の支援団体に文書で廃棄を認めた。名簿は、元徴用工が被爆者健康手帳の交付を申請する際に被爆事実を証明する有力な証拠となるが、長崎では名簿が見つからず申請が却下されていた。支援団体は「被爆者として援護を受ける権利を国が奪った」と批判し、実態解明を求める。【樋口岳大】>

また日本のマスコミでは一切報道されませんが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にはまだ被爆者が生きているそうです。日本政府からの支援も受けることができず、共和国での治療もままならないであろう彼らの苦しみはいかほどか、どのような生活を送っているのか、早急に調査をし手当をしなければならないでしょう。

「圧力の強化」だではなく、共和国との対話は必要不可欠です。そして一日もはやい国交の樹立、賠償金の支払いが実行されることを願います。そのような過程を経て、日本人拉致問題も解決されていくのだと思います。北朝鮮への恐怖と憎しみではなく、多くの日本人が覚醒し、韓国人被爆者の救済運動をしたその気持に立ち戻り、今一度、北朝鮮との対話の必要性を自覚していただきたいと願ってやみません。

笹本征男の著書について
笹本征男著『米軍占領下の原爆調査』(新幹社 1995)は、日本政府が原爆調査に全力を上げて取り組んだ実態とその背景が記した貴重なものですが、その参考文献にこの『被曝韓国人』は挙げられており、著者がどれほど影響を受けたかわかります。私は早速購入し読みました。

故笹本征男の本は、8月6、9日の原爆投下の後、10日に日本政府は米国への抗議文をだしながら、同日にポツダム宣言を受諾しています。何故、日本政府は被爆者の治療よりも、総力をあげて原爆調査にのりだしたのか、著者はその理由として、「来るべき原子力時代」を見据えていたことを明らかにしています。日本政府はこれからの米国の核兵器による国家の安全保障の重要性を認識し、遺伝を含めた実際の原爆の影響はどのようなものなのかを詳しく知るため、ABCC(原爆障害調査委員会)に自ら進んで全面協力をして原爆調査に取り組んだのです。

占領期に原子力に関する研究はABCCによって禁じられながら、日本政府は莫大な予算をつぎ込み総力を上げて原爆調査を続けたことは、これまで明らかにされてきませんでした。むしろその事実は隠されていました。現在の日本の核政策の本元は既にこの敗戦の時に決められていたということです。

     笹本征男著『米軍占領下の原爆調査ー原爆加害国になった日本』
    (新幹社)を読んで
    http://oklos-che.blogspot.jp/2017/10/blog-post_29.html

最後に
今年の8月3日、韓国大邱で記者会見が行われ、上記の韓さん親子(ご子息は先天性小児麻痺)と被ばく者差別をこえて生きる』の著者の被爆者2世で若くして亡くなられた金亨律さんのご両親が息子の意思を継ぎ、原発投下の責任を問い謝罪と賠償金を求めて米韓政府と原爆製造メーカーのデュポン社などを相手にソウル地裁に調停申請をしました。いずれ米国での本格的な裁判になるでしょう。

私たちはそのときに備えて準備をしなければならないと考えています。そしてそのときの原告は韓国人の被爆者だけでなく、日本人被爆者も原告団に加わってほしいと願っています。アメリカの原爆投下は戦争終結のために仕方がなかったのではなく、原爆投下はいかなる理由によっても正当化されてはならないということを裁判を通して全世界に訴えたいと思います。読者の皆さんのご理解とご支援をお願いします。



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