2017年4月16日日曜日

東芝に原発輸出を止めさせる国際連帯運動の始まり


南アフリカからHorst Kleinschmidt氏と、パレスチナからNidalAbuZuluf氏、韓国から金容福(キム・』ヨンボク)博士をお招きして、福岡、福島、東京、峡川(ハプチョン)、釜山、広州、ソウルでのワークショップや集会、交流会をもちました。3名の方はそれぞれ、南アのアパルトヘイト、イスラエルに対抗するBDS運動、韓国民主化運動に関わり、国際的に知られた指導者です。

3月16日~26日にわたる交流で、私たちは彼らのBDS(ボイコット、投資引き上げ、制裁)運動は国際的にどのように展開されたのか、その戦略及び、思想はどのようなものであったのかをお聞きし、また私たちの反原発運動、特に東芝の原発輸出に反対するBDS運動をどのように展開すべきか、福島の実情や、韓国の各地での歴史的な闘いの足跡を見ながら、徹底的な話しあいを通して相互の理解を深め、人間的な信頼関係の中で、今後の国際連帯運動の構築を約束しあいました。彼らも長旅で疲れたでしょうが、大変意義深い時間を過ごすことができました。

10日間の日程がどのようなものであったのか、写真で簡単に説明いたします。

 (1)3人の講師の紹介
Horst Kleinschmidtさん(南アフリカより)

パレスチナのNidal AbuZufさん(パレスチナより)


金容福博士(韓国より)
(2)3月17日、東芝九州支店の「一時占拠」とビル前での抗議集会


3月16―17日の福岡でのワークショップの後、夕方の集会までの間に、東芝九州支店に質問と抗議の内容を記した文書を東芝九州支店の責任者に手渡すべく、支店に20数名の仲間と赴きました。
ところが東芝九州支店が入っているビルの1階で守衛に止められ長時間、押し問答をしていたのですが、代表の木村さんが自分たちは話し合うために来た東芝の客であるのにどうして会わせないのかと言って、全員が9階の東芝九州支局が入っている事務所に行きました。守衛から連絡が行っていたのか、受付には誰もおらず、各部屋は鍵をかけて誰も出てこず、私たちは、受付を「一時占拠」する形になりました。電話も受けず、一切の対応を拒否する東芝側に対して、私たちは彼らの部屋のドアーの隙間に文書を差し入れ、後日、同じ文書を郵送することにしました。そして一階に降り、ビルの前で横断幕をひろげ、東芝の原発輸出に反対する抗議集会を持ちました。

                        
                             
                     


                            
                                                                                
(3)3月18日、福島を訪問


東日本大震災により倒壊した福島県いわき市の常磐教会の牧師で、白水のぞみ保育園長の明石義信さんとは、3・11の1年後、韓国のすべての原発施設を訪問するツアーに参加された関係で、今回、海外の友人に現地を案内してほしいと依頼し、こころよく引き受けていただきました。
教会の礼拝堂は地域の人たちの集会場所として開放され、また教会内の敷地には、飲食物の放射線を計量するラボを作り、地域住民の要請に応える体制をつくってました。地元の明石さんだからわかるという地域を案内していただいたのですが、持参した計量器は、すぐに異常な音を出し計量できる最高値に達する地域も訪れました。いくら政府が安全だと言っても、これでは故郷を離れた人たちがすぐに地元に戻れない状況であることは私たちにもわかりました。

原発施設のすぐ裏手での放射線測量で測定できない異常な高さであることがわかりました。
             
この撮影の直後、パトカーが来たので、ここは立ち入ってはいけない場所で尋問を受けるので、
すぐに出た方がいいということで私たちは逃げるように出発しました。
                    
右側の手前が明石牧師です。礼拝堂は全国からの寄付金で新築され、テーブルの先が礼拝堂で、手前の一角に放射能を測定するラボがありました。礼拝堂は地域の人たちのニーズに応じて開放され、いつでも使えるように設計されていました。
この後、明石牧師が園長をされている保育園を訪れましたが、砂場の砂は京都から持ってきたものだそうです。もともと炭鉱の地であったそうですが、この福島というのは、石炭、東京への出稼ぎ(人力)、そして電気と、いつも大都市が求めるものを供給する地であった歴史的な背景を感じました。これが国内植民地主義と説明されるものなのでしょう。

そして自分たちが作り上げた地域が一夜にして放射能にまみれ、そこを離れざるをえなくなった人が今でも7万人もおり、政府は(一部の危険地域を除いて)安全だからと帰郷を勧めているのですが、出先の住宅支援も打ち切られ、家族がばらばらで住むことが多く、彼らは帰るに帰れない複雑な気持ちでいるとのことでした。福島は山林に覆われ、そこに付着した放射能は根本的に取り除くことはできず、政府はどうして安全だと言いはるのでしょうか。事故以降、ゴーストタウンになった一角を見て回り、子供のことを考えるとここでは住めないだろうなという強い思いになりました。
    
(4)3月19日、銀座、新橋で東芝の原発輸出に抗議する街頭デモ 
福島で1泊して私たちは銀座に直行しました。この写真はJR有楽町駅前で、目の前がビックカメラの店舗があります。ここで横断幕を広げ、東芝の原発輸出に反対するチラシを配り、パレスチナ、南ア、韓国からの3人もそれぞれ英語でスピーチをしたので、多くの外国人は立ち止まっていました。
日本語の通訳はピースボートから来てくれたオーストラリアの友人がしてくれました。
私たちはこの後、有楽町の反対側に移り、そこでチラシを撒いた跡、銀座4丁目の交差点を超え、大通りを新橋に向かい、JR駅前の列車が置かれている広場で、東芝の原発輸出反対の集会を持ちました。

                     
                     
                    
                    
               
(5)3月19日、水道橋の韓国YMCAでの集会   
日本での最後の集会になり、Nidalさん、HorstさんのスピーチはこれまでのBDS運動の背景とご自身の闘いの経験を語られる素晴らしいものでした。しかし、福岡でもそうでしたが、東京でも日本語と英語の同時通訳をしてくださった、ピースボートの二人のオーストラリアで日本語を学ばれたという通訳のおかげで集会が盛り上がったと言っても過言ではありません。講師の意を瞬時にくみ取り、正確な通訳であるだけでなく、微妙な表現もよく理解されるように訳してくださり、参加者には講師の発言内容が正確に伝わったと思います。
発題者はNidalさんとHorstさんの他に、日立闘争で韓国の民主化闘争との連帯の経験を語る朴鐘碩さんと、寓話作家の田島伸二さんが日本社会の加害者性についてご自身の体験を踏まえた感動的な話をしてくださいました。集会終了後、韓国YMCAのご配慮で、その場で手作りの料理が供され、参加者一同楽しい時間を持つことができました。韓国YMCAの皆さんにも心からの感謝を申し上げます。 
19歳の時に日立の就職差別を訴え完全勝利の後日立で勤め、2年前に定年退職するまで、日立の会長や経営陣に原発輸出を止めることを訴え続けていた朴鐘碩(パク・チョンソク)さん。

寓話作家の田島伸二さんは、ご自身のアジアでの経験を話され、涙される場面もありました。
韓国をはじめ、全世界で田島さんの絵本は翻訳されております。
                     
Nidalさんはイスラエルの植民地主義政策を批判し抗議するためにBDS運動がいかに重要で効果的なのかということをスライドを通して説明されました。自分たちパレスチナの人間が住んでいた地域がいかに徹底的に侵略され、「壁」の外には出れなくされ、差別されているのかということを訴えながら、その闘いは憎しみからではなく、正義の実現のためであり、愛に基づく行為であることを感動深く話されました。

下の写真はHorstさんです。右側の写真はマンデラご夫妻で、その隣がご本人だそうです。旅券なしで海外逃亡生活を余儀なくされ、監獄に入れられた経験をお持ちです(講師の3人ともすべてそうでした!)。彼は柔和な表情で優しく語りかけるのですが、ご自身は日常生活においても徹底的に差別と闘うという信念と行動力の持主でした。
                
Horstさんはマンデラご夫妻が二人とも監獄生活を送ることになったとき、マンデラ夫妻のお嬢さんの法的な保護者になったそうです。面識もなく、黒人の娘が白人社会の青年から法的保護を受けるということに心配はなかったですか、と後日、ご本人に尋ねられたそうですが、「青年よ、私はいろんな経験をしてきたから」(心配はしなかったよ)という答えられたそうです。


(6)3月22~23日 韓国YWCA、KNCC(韓国キリスト教協議会)訪問、ワークショップ
ソウルの明洞という繁華街にある韓国YWCA(以下、YW)は全土で活動し、韓国で最も積極的に反原発運動に取り込んでいる地元密着の団体です。会議に参加されたYWのスタッフは積極的で海外との交流を進める英語力も交渉力あると思いました。同様に全国組織であるYMCA(以下、YM)の責任者も参加されました。それは、NidalさんがパレスチナンのYMとYWの両方の責任ある位置にいらして、海外から訪問するYMやYWのメンバーを受け入れてこられたので、そのことに対するお礼を兼ねたもののようでした。

                   
しかし韓国のワークショップを翌日持ち、YMとYWの責任者も参加されたのですが、東芝に対するBDS国際連帯運動についてはまだまだ話し合わなければならないという印象を持ちました。それは日本も同じですが、韓国での反原発運動として、原発輸出を許さないという運動のコンセンサスに至るにはまだまだ時間が必要だと思われるからです。東芝に対するBDS運動は原発輸出を不可避とする原発体制に対する闘いの象徴という理解に至るには、議論が必要なようです。しかし韓国の場合、財閥と権力との癒着批判が市民キャンドル革命の集会でも出始めているので、韓国内での脱原発宣言が出され、原発輸出も許すべきではないという議論が出ることを願うばかりです。
                    
私たちの日韓/韓日反核平和連帯は、韓国内での脱原発宣言に向けて、この間議論してきた原発体制、特に世界の原発関係国がアメリカ政府によって制定させられた原子力損害賠償法によって、原発メーカーは原発事故時の責任を免責されているという事実についての学習会などを積極的に進める必要がありそうです。この実態は原発に反対する活動家の間でも知られていません。
原発体制がいかなるものかの認識なくしては、国際連帯運動が必要であるということがなかなか理解されないように思われます。被害者認識は容易にもつことができても、加害者認識をもつことが困難だというのは、日本の戦争責任問題や原発輸出に関しても同じで、韓国社会においてこの点の徹底した議論が必要であるようです。原発を輸出することは、その国の民衆を何十年、何百年以上にわたって苦しめることになるのです。

また8月に予定されている、韓国の広島と言われる峡川(ハプチョン)の被ばく者と共催する国際フォーラムについて、アメリカ政府の広島・長崎での原爆投下の責任を問う裁判を進める歴史的な意義について、積極的にYMやYWなど反原発を掲げるだ運動体との交流、学習会を持つ必要があり、それは韓国だけでなく、日本をはじめ世界の市民が考えるべき歴史的な課題だと思われます。

              
KNCC(韓国キリスト教協議会)も訪問しましたが、パレスチナとの交流に関心はあっても、日韓の教会が協働するとか、反原発運動を連帯して国際的に展開するという議論には至りませんでした。

(7)3月22日、韓国東芝本社訪問、抗議行動
韓国東芝本社は江南地区の地下鉄入口すぐそばのビルに入居しており、私たちは韓国の仲間とその地下鉄の入口のところで横断幕を広げ、通行人に東芝の原発輸出に反対するチラシを撒きました。

                
韓国東芝が入居しているビルの前で
九州東芝支社と同じく、韓国東芝も私たちとの面談を拒絶したため、私たちは質問書と抗議文を韓国東芝の玄関口のところに置いてきました。後日、郵送で韓国東芝社長に送ることになっています。

        韓国東芝の玄関口の処で撮った写真です。社員は一切、姿を現しません。

(8)3月23―24日、峡川(ハプチョン)、釜山、広州を訪問する
峡川(ハプチョン)は韓国の広島と言われ、広島・長崎で被ばくした韓国人の最も多く居住するところです。私たちは赤十字の施設に住む被ばく者を訪問しました。80歳を過ぎた高齢のハルモニ(おばあさん)、ハラボジ(おじいさん)たちですが、近くには被ばく者2世、3世の新しい施設も作られました。被ばく者2世、3世は、精神的、経済的、肉体的に多くの苦しみを経験してきた人たちなのですが、日本政府も、韓国政府も彼らの病状と原爆との因果関係を認めていないのです。韓国ではそのための法改正の闘いが始まっています。

広島、長崎での被ばく者は70万人で、そのうち韓国人は7万人で、4万人が死亡しています。それほ韓国人の死亡率が高いのは、被爆し現地で水や食べ物を請う朝鮮人は(言葉ですぐにわかったのでしょう)、病院にも連れていかれず放置されたからであると言われています。そもそもどうしてそのほどの韓国人被爆者がいたのか、これは日本の朝鮮人連行、植民地支配の問題がからみます。そしてアメリカの原爆投下の人道的な責任が問われるべきで、被ばく者のなかからアメリカ政府を提訴する準備が進められています。しかし、残念ながら、韓国で峡川(ハプチョン)に住む被ばく者の実態はほとんど知られていません。私たちは彼らの提訴を全面的に支持すべきと考えていますが、全世界的な支持、連帯の運動が必要です。
被ばく者の慰霊の前で
                  
                  
峡川(ハプチョン)で8月の再会を約束して私たち一行は、釜山に行き、そこでYMCAの集会に参加しました。午前中は古里原発を見学し、妻の甲状腺がんの発症は古里原発の責任と提訴し勝利したイジンソプさんの事務所を訪れました。息子で1ケ月一緒にアメリカをまわった天性精神障害のキュンドも元気そうでした。誰も想像もしていなかった勝利判決によって、千名を超える人たちが続いて提訴したそうです。イジンソプさんは現在、控訴審ですが、世界で初めて、原発の運用によるがん発症と認めたこの歴史的な判決は貴重なもので、これからもイジンソプさんの闘いに注目し、支援していく必要があります。孤独な闘いをしてきたイジンソプさんご自身は福島での講演を願っているのですが、なかなかその機会に恵まれません。是非、実現したいものです。読者のご協力を仰ぎます。


右端がイジンソプさん、キュンドは後ろで立っています。

翌朝、私たちは金博士の研修センターがある知異山(チリサン)で1泊して、1980年の民衆蜂起があり多くの市民が虐殺された広州市を訪れました。広州のYMCAで理事長をされていた教会の長老の慰霊祭に参加するためです。知異山(チリサン)は日清戦争のときの東学の農民の蜂起があった山岳地帯です。韓国の解放後の市民運動は現在の市民キャンドル革命に至るまで、3・1独立運動の歴史の流れのなかで自分たちの運動を位置付けます。


                    
                   
                        
                             
(9)3月25日、韓国最後の夜、ソウルの市民キャンドル集会参加
私たちの最終日は、光化門の市民キャンドル集会に参加し、韓国式の焼き肉を食べることを約束していました。日本大使館前の「少女像」の前で記念写真を撮ったのですが、その横のテントには青年たちが5、6名待機していました。釜山でも同じような状態のようです。しかし残念ながら、日本のマスコミは韓国政府の約束違反という面だけを報道し、一般の市民がどのような気持ちなのか伝えていません。戦前の植民地支配に対する韓国市民の思いがどのようなものであるのか、一方、日本は戦後、「平和と民主主義」の社会が実現したということで、植民地支配の実態を根底的に反省するということがなされてこなかったのです。この歴的認識の違いが大きいように思われます。
  
                 
                     

(10)最後に   
私は韓国の市民キャンドル革命の連続講座を企画し、それが韓国の近現代史の流れの中で理解されなくてはならないということを頭で理解していましたが、今回、峡川(ハプチョン)や、広州を訪れ、改めて整然と集会をする数十万人の集会を目の前にして、涙しました。一緒に参加したパレスチナのNidalも南アのHorestも同様に深い感動を覚えたようでした。

私たちは10日間の旅で、国際連帯運動の重要性と必要性を共有化し、差別とは自分自身の全人格をかけて闘うということをしっかりと理解し合っていました。それは今後、原発輸出を続けるという東芝に対するBDS運動を始めるということや、その東芝へ融資をすると公言する銀行団への社会倫理を問う闘いとなっていくでしょう。

Horestによれば、南アは一度は核兵器を破棄し、原発を撤廃したにもかかわらず、アパルトヘイトの闘いが勝利に終わった今、ロシアから原発輸出をするという話が進められており、それは原発輸入反対の運動にとどまらず、新たな差別のない社会建設への出発にしなければならないという考えに、光化門での市民キャンドル革命集会を見て傾いて行ったようでした。

パレスチナのNidalはこれかれも命を懸けて対イスラエルへの様々なBDS国際連帯運動をすすめていくでしょう。しかし彼は今回初めて、原発体制と植民地主義体制との関係を考えるようになったようです。峡川(ハプチョン)の被ばく者の実態を知り、原発体制の国家として原発輸出をしようとする韓国や、日本の原発運営のソフト管理はイスラエル企業のモノが使用されているという話が浮上してきたからです。私たちもしっかりと調査をして、原発運営のソフトがイスラエルによって開発されているのかどうかを調べる必要があります。読者のご協力をお願いします。

最後にこれはもっとも簡単でかつむつしいことなのですが、国民国家が当たり前の状況の中で、国民国家を絶対視せず、人としての生き方を求めるとき、はじめて、国際連帯の必要性と重要性がみえてくるのではないでしょうか。                       
                            
                 

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