2017年1月6日金曜日

ろうそく集会参加を目的に渡韓ー近藤富男さんの投稿

ろうそく集会参加を目的に渡韓
 11月末頃からどうしても一度は現場に行って、エネルギーというか、勢いというか、そういうものを直接感じたく思い、123日の土曜日を一度は考えたのだが、都合で実現できなかった。10日も17日も無理。どうせならば大晦日の31日に、と考えて決めた。飛行機のチケットのすこしでも安いところをねらって1227に渡韓、11日に帰国。

1227
 朝650分の阪急バスで出発、11時のチェジュ航空で金浦空港へ。まずは宿泊予定のゲストハウスへ行く。地下鉄鐘路5街駅までゲストハウスの主人が迎えてくれる。荷物を置いて、外出。書店に行くつもりで出たが、すぐに気が変わって換金のために明洞を目指す。途中、最近あるメーリングリストで、南山のふもと、ソウルユースホステルに入っていく道の付近に林権助にまつわる何かが見つかったという記事を見たことを思い出し、確認しようとそちらに向かった。ソウルユースホステルは昨年20168月に三度ほど通ったことがあり、入っていく道はすぐに見つかった。坂道を左に回り込んでいくと、すぐ、「日本軍‘慰安婦’記憶の地」と刻んだ石碑が見え、つづいて「大地の目」「統監官邸跡」「世界の臍」とつづく。「大地の目」には「私たちが最も恐れるのは私たちのこの痛苦の歴史が忘れられていくことです。」と記され、247名の慰安婦被害者ハルモニの名前が刻んである。

「統監官邸跡」の碑の横には「林権助君像」と刻まれた石版が逆さまに立てられてある。説明板には「逆に立てた銅像(林権助 はやしごんすけ、186019391900年に駐韓日本公使として赴任)は、高宗皇帝及び大臣達を脅迫し、乙巳条約(19051117日,徳寿宮・重明殿)を強要するなど、併呑の足がかりを作った人物として知られている。当時の大日本帝国は、その功績によって林に男爵位を与え、大韓帝国が国恥(1910年,庚戌年の822日、総理大臣であった李完用と韓国統監の寺内正毅が署名、29日発表)を受けた場所である韓国統監官邸に銅像を建てた。銅像の名は、男爵林権助君像であった。光復70周年を迎え、散らばった銅像の残骸を集めて逆さに立てて恥辱の戒めとする。」とあった。
 ちなみに、林権助についてWikiには次のようにある。

明治33年(1900年)に権助は駐韓公使に任命される。ここにおいて彼は対韓・対露強硬外交を推進してその後の日韓併合への足がかりを作ったことで知られている。すなわち、日露戦争中には韓国政府に迫って日韓議定書を調印させ、続く第一次日韓協約・第二次日韓協約はともに彼の主導の下に締結された。これによって韓国は日本の保護下に置かれることになったのである。そして、明治43年(1910年)に日韓併合が実現されると、彼は桂太郎・小村寿太郎とともに併合の「三人男」と評価され、その翌明治44年(1911年)にはその功績によって男爵に叙せられたのである。

 その後さらに歩いて明洞へ行き、換金してゲストハウスに戻った。

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 午後2時半に地下鉄光化門駅で、2年前に韓国語を教えていただいた学園の先生と待ち合わせをしていた。それまでの時間、10時半からの昌徳宮後園と、1240分からの昌徳宮の建物についての日本語ガイドツアーに参加、計約2時間。ずいぶん前に一度来たことのあるところだったが、やはり何も覚えていない。

 後園の池は凍っていた。3日ほど前に降ったという雪も日陰では解けずに残っている。地面に残った足跡のくぼみに雪が入って意外な美しい模様を描いている。カササギの巣もいくつか見える。かつては宮殿内でも養蚕を行っていて、当時の桑の木が今も生き残っているという。高さ12m、胸高直径228cm、樹齢約400年ということだ。こんな大きな桑の木は見たことがない。葉が枯れてしまった枝の先に朝日を浴びて美しい赤色に輝く実を付けた木も何本かある。説明を聞きながらの15人ぐらいの団体行動なので話し声もとぎれずにぎやかであったが、一人で散策すれば気も静まっていかにも心穏やかになるであろうと思われた。

 建物の方のツアーでは、屋根の上にのっている魔除けの説明があったが、ツアーが終わった後で反芻していて不思議なことに気がついた。説明によると、一番前にいて帽子をかぶっているように見えるのが三蔵法師、次が孫悟空、そして沙悟浄、猪八戒と続く。そのあとのものはよく聞き取れなかった。この建物は朝鮮王朝時代の建物のはずだ。朝鮮王朝時代には儒教が勧められ、仏教は排斥されたと聞いている。なのになぜ仏教の経典をインドまで取りに行った、仏教徒の三蔵法師が魔除けになるのだろうか。現在の青瓦台のモデルとなったという青い瓦の建物があり、議会に当たる用途に使われていたとか。また、この宮殿は最後の王が実際に使ったものということで、一部天井から電灯が下がっているところもあったり、玄関に車寄せがあったり、他の宮殿には見られないところが多い。ツアーの最後の部分は李方子の住居だったところで無彩色の落ち着いた雰囲気の建物であった。
 昌徳宮を出て歩いて光化門まで行く。日本では年末の慌ただしいときだというのに、韓国は全く普段と同じ生活が続いている。光化門前あたりには韓服(チマチョゴリ)を着た若い女性のグループや、パジチョゴリ(男性の韓服)を着た男性と同じく韓服を着た女性のカップルが大勢いる。見ると、近くには韓服のレンタルをしている店が幾つもあった。

 地下鉄光化門駅2番出入り口で韓国語の先生と出会う。参鶏湯専門店である土俗店という有名な店で食事。昨年春に結婚したということはFacebookで知っていたのでまずは結婚のお祝いを言う。昌徳宮から光化門まで歩く間、花屋を探したのだが見つからず、何のお祝いの品もなしの言葉だけになってしまった。これと言って記憶に残るような話はなく、とりとめのないことばかりではあったが、とにかくすべて韓国語で話す。先生は実は日本語も英語も堪能な、語学の才能ある方なのだが、2年前の、学園に通っていたときにはそのことを全く感じさせず、すべて韓国語で授業をされた。先生が日本語も堪能だということは、帰国後、Facebook知った。韓国語の教え方も上手で、原則をしっかりもっている方だ。食後、サムチョンドンのほうに歩いて、あるカフェで珈琲とケーキ。鏡に囲まれた狭さを感じさせないカフェだった。途中、朴槿恵大統領の弾劾に反対するグループが大音量で音楽を流しながら何かやっていたが、雰囲気が日本の右翼とそっくりだった。仁寺洞を下ってタプコル公園の前で再会を約して別れ、貴金属通りを歩いて宗廟前を通り過ぎる。一昨年つれあいと宗廟に来たときは工事中でシートに覆われていたところが公園になっていた。

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 朝、6時起床。シャワーを浴びて7時、清渓山に向けて出発。昨夜の内に降雪があり、ゲストハウスの前でも35の積雪があった。日本よりは日の出の遅い韓国であるが、既に人の足跡は幾つもついている。滑らないように気をつけながら歩く。コンビニに寄って飲み物と朝食のパンと非常用のチョコレートと飴を買う。今回の渡韓の目的の一つはソウル近郊のどこかの山頂から初日の出を見ること。高くもなく、一番登りやすいかと考えてこの山に決めて来た。地下鉄を乗り継いで、清渓山入口駅で降りる。

駅舎から出て右へ緩やかな上り坂の道を数分歩くと右にカーブして高速道路の下をくぐる。登山用品店やレストラン、カフェなどいくつかの店が並んでいる。その横を通り抜けて進むと案内図と登山口を示す横断幕。案内の地図を見て大体の道のりを記憶する。頂上まで登る道は幾通りもあるが、左の方の道は直登に近い感じで、坂が急そうに思えた。右の方の道を取って歩く。横断幕の下の道には既に登った人のみならず下った人の足跡も見えた。普段から鍛えていない体を励ましながらゆっくりと歩く。朝食も取らずに歩いたので力が出てこない。30分くらい登ったところにあずまやがあって休憩できる。パンを食べポカリスエットを飲んで、再度歩き出すと、さっきまでよりは少し力が出てきたみたいだ。ここも右に道を取って登ると、すぐに尾根筋に出る。坂がなだらかになり歩くのがさらに楽になる。が、下りになるところもあって、下るな、下るな、と念じながら歩いた。

すると一転、急な上りの階段が現われる。長い。長い階段を、焦らずゆっくり登る。後から来た人に何人か抜かれるが、これはやむを得ない。我慢してゆっくり登る。山の肩に当たるところにつくと、ここに最後の案内図があって、後、600メートル15分とある。もうひとがんばりだ。頂上には石碑があって、「清渓山メボン582.5m」と刻み込んであった。足跡は多いが、それでも雪はまったく汚れた様子はなく朝日に白く輝いていた。見下ろすソウルの街はうっすらとかすんで広がる。左手に南山タワーが見え、右にずっと目を移してゆくと山陰になるわずか手前のところに異様に高い、巨大な四つ目錐を思わせる建物が見えた。南山タワーの先端よりさらに高く見えた。これについてはその時まったく知らなかったが、後で聞くと、周辺にいろいろな問題を起こしながら建設され、この春営業を開始するロッテワールドタワーというビルであった。

 帰途、地下鉄の駅一つ戻ったところにある「尹奉吉記念館」に立ち寄った。良才市民の森駅で下車、5番出口を出るとすぐに目に入る近さにある。もう20年くらいも前になるだろうか、何人かのグループで金沢にある「尹奉吉暗葬の地」を訪ねたことがあり、ここに記念館があると知ったときから一度行ってみようと思っていた。尹奉吉が若いころこどもたちの教育に携わっていたことを知った。安重根も同じだが、初めは人々を啓蒙することで国の独立を保とうとしたのであろう。二人ともただの「テロリスト」ではない。最も衝撃だったのは展示してあった、銃殺された直後の写真を見たことだ。低い十字架状のものに座ってもたれかかるように縛られ、目隠しをされたまま息絶えた写真である。館内をひとまわりして外に出、新雪を踏んで銅像の写真を撮った。

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 2016年の夏、同じゲストハウスに泊まったとき、ある漆工芸家の女性を中心とした若い芸術家グループを紹介してもらっていた。この女性が利川の、陶芸家の友人をともに訪ねようということで、大阪から来ていたある組合関係の人とゲストハウスの主人カップルと私の5人で、11時ごろ出発。利川と言えば、「利川米飯定食」が有名である。12時過ぎに利川について「青木」という店で陶芸家と合流、「利川米飯定食」を皆で食べたが、全くの美味であった。その後、近くの販売店と彼の仕事場を訪問、作業をしている仲間の様子を見学し、ぐい飲みに使えそうな一品を購入。洒落たカフェで珈琲を飲み、5人でソウルへ戻る。ソウルでは、車が混んでなかなか進まない中、運転手の苦労に感謝しながら女性の漆工芸家とそのお父さんの工房に足を運んだ。もう暗くなっていた。が、工房に一歩入ると本当に輝くばかりの作品。注文を受けて作成し、あとは納品するばかりという茶道具タンスは、塗られた深紅の漆に浮かび上がる螺鈿細工が輝く。描かれている藤の花びらの小ささ、蔓の細さ、花びらや蝶の羽に使われている貝の色合い、嘆息が漏れる。他にも多くの作品を見せていただいたがそのどれもが心奪われる名品ばかり。お父さんのオ・ウァンテクさんは「韓国芸術文化団体総連合会」の「名人認証牌」を得ている。

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 初日の出を清渓山で見ようと思っていたが、先日登ってみてまあ結構しんどかったので、近くの少し高いところでもいいかと、東大門につづく城閣道に下見に出かけた。ここは宿舎にしているゲストハウスから歩いて20分~30分で行ける。宗廟と昌慶宮の間の道を東大門に向かって数分歩くと城閣道へまっすぐ上る階段がある。まず目に飛びこんできたのは「静かに!」という、立てた人差し指を口に当てた例のポーズを描いた壁。そして次々とそれに関した表示が続く。天使の羽を描いた壁もある。階段を上っていくと、自宅の壁全面に「人間らしく生きたい。静かにしてください。再生事業反対。居住地が観光地だなんてどういうことだ。住民たちも安らかに休みたい。安らかに休む権利。生存権保障。だれのための保存なのか。」などと書いた家もある。そうかと思えば、壁一面に何回も「死ぬ前に私は○○したい。」とあって、○○のところに訪問者が思い思いにしたいことを書くといった壁もあった。この上の城閣道を訪れる観光客が増えてきて、業を煮やした住民たちが声を上げた形だ。城閣道まで上がってみると確かに、復元された城閣が長く続き、小洒落たカフェがあったり小さいけれどレストランがあったりと観光地化していることがわかる。ここから眺めるソウルの景色も清渓山から程ではないが結構良い。明日の朝はここに決めようと思っていると厚い雲の向こうから太陽が昇ってきた。

 ゲストハウスに戻り、主人の案内で東大門に市場の近くにあるという醤油漬けにしたワタリガニ、韓国風辛味噌に付けたワタリガニの食べ放題の店に向かう。バス停を一つ乗り過ごしたというのでこれ幸いと風物市場というフリーマーケットゾーン観光に行くことにする。一つの建物の中にありとあらゆる古物商が集まっている。アコーデオン、カメラ、ラジオ、テレビ、コーヒーミル、電話、壷、仏像、各種彫刻、朴正煕元大統領のポスター、蓄音機、レコード、バイオリン、チェロ、伽耶琴、各種真鍮具、どこのものやら分からないものも含めてお面・・・・。けれども、実はこの建物の外の路上の方がもっとすごい。数㎞にわたって延々と続く中古の道具、衣類、靴・・・。衣類を路上に山と積んで、どれでも一点500円というまさに「掘り出し」ものを売っている店もある。その気で来れば時間が経つのを忘れることもできるだろう。ワタリガニは1600円で食べ放題だった。その上、生のマッコリも飲み放題。野菜やトーストまで食べ放題。あまりにカニを食べ過ぎ、マッコリを飲み過ぎたせいでろうそく集会後下痢。

 夕方6時過ぎから光化門前広場を目指して出発。鐘閣あたりまでバスで行き、そこから歩く。反対方向に歩く人もいるが、同じ方向に向かう人の方がやはり多い。世宗大路に来るとそこはもう人があふれてすこしでも気を抜こうものなら一緒に行った人とはぐれてしまう。棒の先に付けた「朴槿恵退陣」のポスターを目印に見失わないように歩いた。世宗大路に入ってすぐの所はセウォル号犠牲者を悼む仮設の建物だ2年生の修学旅行で亡くなった高校生の、1年生の時の遠足か何かの集合写真。当然ながら皆笑顔、楽しい雰囲気にあふれている。これを見るだけでも胸に迫るものがあったが、次の部屋にはってあったのは犠牲になった生徒の個人写真。涙があふれてきてここには1分もいられなかった。

大体、この形式の部屋にいるのは以前から苦手だ。ひめゆりの被害者の顔写真がはってある部屋、西大門刑務所の処刑で亡くなった人の個人カードをはってある部屋、どちらの部屋でも、目と目が合うと涙をこらえることができない。早々に出て、反対方向に歩く人と体をぶつけ合いながら先に向かって歩く。おでん、焼き鳥、ウインナー、などなどの屋台もあちこちに出ている。熟年の夫婦らしいカップルも、若い恋人同士らしいカップルもいる。親子連れ、家族連れ、こどもを肩車した父親。巨大な舞台がしつらえられ、そこでは司会者にしたがって次々と意見を述べる人々。通りかかったときちょうどソウル市教育庁の長官か誰かが国定教科書に反対する意見を述べていた。そのうち、舞台上では人気歌手による歌が始まる。市民たちはここに集まっては意見を述べたり聞いたり、屋台の食べ物を食べたり、歌や演奏を聴いて楽しんだり。とにかく雰囲気が柔らかい。かつて日本では政治のことを政(まつりごと)と言ったそうだが、これこそ「まつりごと」、ろうそく集会は市民のまつりと言うこともできそうだ。

空腹を覚えた市民はしばらくこの場から席を外して近くの食堂へ。食事がすんだらまたここへ。そして、いつの間にか市内の各要所、たとえば憲法裁判所方面に流れる人がいる。青瓦台方面に流れる人がいる。それぞれの場所で警察官と対峙し、集会をもって、終わったらまた光化門前広場に戻る。これが夜中まで続き、この日は特に大晦日ということで普信閣で除夜の鐘が鳴らされた。私たちは憲法裁判所前の集会が終わった後、警察官の垣根を通り過ぎてゲストハウスに戻った。途中、これから会場へ向かうサムルノリの一行に出会った。まだまだ集会は続くらしい。

 今回のソウル滞在中に会う人ごとに質問されたことがある。日本では韓国の市民の運動をどう見ているのか、という質問だ。下手な韓国語で私は次のように答えた。「今の日本のマスコミはまったくひどい状況で、深く真実を追求して伝えるという本来の仕事ができていない。マスコミの伝えている内容は、韓国は混乱している、韓国の歴代大統領はいつも退任後スキャンダルにまみれて退場していくがまたも…、韓国社会・韓国の民主主義は成長していない、日本より40年ぐらい遅れている、等々。もちろん正面からしっかり見ようとしている人もいるが、やはりマスコミの圧倒的な力の前では如何せん、大きな力にはなり得ていない。ただ、私自身は、4.19学生革命以来の韓国の民主化を求める運動を引き継ぐ、そして、これまでになしえていなかった事に気づいた市民たちのおそらく根源的な民主化を求める運動だと思っているので、現在の韓国市民の運動は私にとって『希望』である。民主主義という意味では韓国はこれまでの市民運動で得た成果をもとに考えれば日本の一歩も二歩も前を行っているが、今回の運動が成功すればもうそれは、三歩四歩はおろか遥か前に行ってしまうだろう。」と。

韓国の民衆は白頭山に架かる虹も白鹿も登場させることなく自らの力で大きな犠牲を払いながら民主化を勝ち取ってきた。この経験は大きい。彼らにはあって、日本の我らにはないもの、それは民衆の力で勝ち得た民主化の経験。さらに、70年代の「新左翼」の悲惨な末路が多くの日本人の記憶に残されている。今、日本でできることは、韓国のろうそく集会に集う市民に連帯して日本は日本で自分のできることを探して一つずつ進めていくことか。

 昨年末、真珠湾で安倍首相は「謝罪」に触れることなく、「和解」を称揚したが、これは、アメリカに対しても原爆投下について謝罪は求めないという考えの表明である。アジアの各国に対しては、いつまでぐずぐず言っているんだ、日米は互いに許し合ったぞ。おまえらも「寛容の心」で「和解」を導け、と言っているのに等しい。これは、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者も、東学の犠牲者も、3.1独立運動の犠牲者も、南京の犠牲者も、重慶の犠牲者も・・・、すべて放って置くということだ。最近、私は「田舎には 原発、街には IR」と、今に至って精算できていない、する気もない露骨な日本の政治家の「植民地主義」について川柳を作った。沖縄の米軍基地問題も同じ構造がある。「植民地主義」を精算することと、アメリカとの関係を見直すことは同じ位相にある課題ではないか。「植民地主義」を精算する=「国民国家主義」をのりこえる、その後にこそ次の時代が訪れる。

 先の質問に答えた後、意見を述べた。原発についてである。今、韓国の市民の運動が求めていることがらの中に原発廃止が入っていないようだが、入れるべきだ。フクシマを見れば原発がいかに危険なものかわかるだろう。最近起こった地震で実際に韓国の原発の危険性に不安を覚えている人が増えてきたのではないか。次の大統領になろうという候補者に原発廃止を唱えている人はいるのか。いないのなら市民の運動の中に、市民が求める項目の一つとして原発廃止を入れよう。

 けれど、この私の意見に対しては初め、今、市民が求めている課題はあまりに大きく、多い。崔順実ゲートはきっかけに過ぎない。セウォル号の問題、国定教科書の問題、サードの問題、格差の問題、慰安婦合意の問題等々。朴槿恵退陣は象徴的スローガンになってはいるが、朴槿恵が退陣すればそれですむ問題ではなく、韓国社会に積りに積もった悪弊を総ざらいして改めねばならない。その中で反原発は比較的小さく考えられ、そこまでたどり着くのは困難だ、というような答え。
 私はつづける。日本の状況を見れば、原発をつづけている限り大資本からも財閥からもアメリカからも逃れられないということが見えてくる。これでは韓国の人たちが今求めている問題解決も根本的なところで不可能となるのではないか。ここまで話して、確かにそういう部分はあると思うので一度考えてみると、一応の答を得る。

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 ネットでソウルの日の出が745分頃と確かめて、朝650頃出発。きのうの道を歩いて城閣道へ。715分頃着いてみると既に約100人ぐらいの人が集まっている。人々のすき間に場所を決めてカメラを用意して待つ。その内どんどん人が増えてきて、最大の時は300人ぐらいはいたと思う。若者のグループも多い。冗談を言い合って笑う。スマホで写真を撮って共有し合う。にぎやかに時間は過ぎていったが、雲間は広がりそうで広がらない。8時半頃まで粘ったがとうとう雲は切れず、この頃には地元の人もほとんど帰りはじめる。諦めてゲストハウスに戻り、荷物を整理した。

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