2016年12月24日土曜日

クリスマスの挨拶を送りますー木村公一

今日のクリスマスイブは妻の通う、ホームレスの人たちが多く集まる教会に行きました。ほとんどがホームレスの人たちです。毎年、聖句が読まれ、区切りごとに牧師がその個所の意味を伝え、そして讃美歌を歌います。
しかし私はその中にあって、同じ時間、ソウルの寒い広場に集まる何十万という人たちが声を合わせるパク・クネ下野のシュプレヒコールと、この夜、下野(Haya)クリスマスと謳われる集会のことに思いを寄せていました。Hayaクリスマス集会には、この寒いなか65万人が集まったそうです。

今日は、日韓/韓日反核平和連帯の日本代表の木村公一牧師に、クリスマスのメッセージをお願いしました。宗教色を出すなという人がいるかもしれません。欧米ではサンタも出ずクリスマスも祝わないのに、という人もいらっしゃるかもしれません。しかし、私たちはキリスト教のクリスマスを祝おうというのではありません。この矛盾に満ちた、希望が見えないところで立ち上がり、何とかこの社会がよくなることを願いながら闘おうとする仲間に対する、慰労と激励と、くじけずにこれからも闘いを続けようという言葉をこの日におくりたいかったのです。この世の権力者は絶対的な存在ではない、歴史は動くという言葉を伝えたかったのです。御理解ください。

             クリスマスの挨拶を送ります。
20161224日
加藤周一は1985419日の「夕陽妄語」(朝日新聞・夕刊)で、ヘブライ人の物語である聖書の「出エジプト記 (Exodus)」の歴史が、指導者個人の決断にはじまること、しかもそのはじまりに「神との契約」の成就を目的とする、「約束の地」という目標があらかじめ含まれていること、その過程で起こるすべての事件は一回限りであって、始めと終わりの有限の時間の中で、一定の方向へ進む非可逆的なプロセスであるということが、ヘブライ人の歴史観の根底にあると述べています。この認識はよく知られたものですが、わたしが注目するのは、その歴史観との対比で、歴史的時間をもたず、始めも終わりもなく、指導者は個人的決断もせず、責任もとらず、そして革命なしに行く川の流れに身を任せる日本と対比している部分です。

日韓反核平和連帯の運動も、その小さな始まりの時点で、すでに究極の目標である「約束の地」(原発廃棄・核兵器廃絶)が含まれています。それゆえに、私たちの中のある人々は、この運動を核支配体制から不可逆的な「脱出Exodus」のプロセスをたどる≪巡礼≫に譬えたのです。この運動は、日本社会を侵食する精神的気質、すなわち、歴史的始めも終わりもなく、指導者は責任をとらず、大衆は歴史の忘却へと誘導されて根源的な変革を嫌うエートス(精神的気質)からの脱出をも意味しています。

原発廃棄・核兵器廃絶という≪目標≫はあくまでも≪目的≫を達成するための「道しるべ」です。そもそも原発廃棄・核兵器廃絶という願望はどこからうまれてくるのでしょうか。その願望の原動力になっているのが≪目的≫であると思います。それはひとりひとり多様性があってしかるべきです。

私たちは運動の過程で、目標という「道しるべ」が目的にすり替わっていないか、時にラディカルなチェックをする必要があります。新しい年も、互いの理解と助け合いを通して、私たちの運動共同体がさらなる前進を遂げることを期待してやみません。

福岡にて 

日韓反核平和連帯・共同代表 木村公一

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