2016年11月26日土曜日

日立経営陣への最後の手紙ー朴鐘碩

1970年に国籍を理由にして就職差別をした日立製作所を横浜地裁に訴え、4年間の法廷内外の国際連帯運動によって勝利した朴鐘碩は、その後日立に入社し嘱託勤務を含めると46年間日立で働き、今年の11月末に日立を去ることになります。ながい間、本当にごくろうさまでした。

朴が職場で挨拶をした文書を私のブログで公開し、FBやツイターで通知したところ、千名を超える人が読み、多くの反応がありました。いくつかご紹介します。

感銘を受けました!よくぞ頑張ってこられたと思います。
大学生の時に、日立の就職差別として知りました。どこかに支援のパンフレットもあると思います。氏の闘いを通して多くを学ぶことができました。ありがとうございます。
この方、確か、私の小学生の時の、少年朝日年鑑に載っていた記憶が・・。
差別と抑圧の中で46年もの長い間職責を全うされたことに敬意を表します。たいへん、お疲れ様でした。

私が一番感銘を受けた感想文です。他人はよく人を見抜いていますね。
こんなに真っ直ぐな生き方をされておられる方がおられるのだ。
私は彼が10代のときからの付き合いですが、本当にこの言葉に尽きるように思います。

教科書等で知られる日立闘争は、多くの支援する人と共に闘って日立の民族差別に裁判で勝利し日立に入社したという、「美談」で終わっています。しかし彼の日立闘争はそれでは終わらなかったのです。
彼のいう、第二の日立闘争は、社内のものを言うことができない閉鎖的な社風に対する挑戦でした。組合は経営陣は一体であり、その組合員長にも彼は立候補をし続け、多い時には物言わぬ社員の30%以上の支持を受けました。その利益第一主義で社員が自由にものが言わせない風土が、対外的な差別を生み出し、社員の人間性を疎外し、画期的な開発を阻害する要因になっていると彼は主張したのです。開かれた会社になるべきだと言い続けてたのです。

朴の第三の日立闘争は、原発を製造し輸出し続ける日立に対する抗議です。彼は日立、東芝、GEという世界最大級の原発メーカーを相手に世界で初めての、原発メーカー訴訟に関わり、世界39ケ国4000名の原告からなる「訴訟の会」の事務局長として活動しています。日韓反核平和連帯にもかかわり、今後、原発をなくす国際連帯運動の先頭に立っていくことでしょう。

私は46年前に彼と出会い、日立闘争から川崎での地域活動、そして反原発運動を共に闘っていることに感謝するのみです。朴君、お疲れさまでした。そしてどうもありがとう。これかもよろしく。             崔 勝久

           日立経営陣への最後の手紙
        日立製作所を離れるにあたって―
                            朴鐘碩(パク・チョンソク)
2016117


()日立製作所 取締役会長 中西宏明様
取締役社長 東原敏昭様
日立製作所労働組合委員長  坂本達哉様


  私は、19歳の時(1970)、国籍を理由に就職差別した日立製作所を横浜地裁に訴えました。4年近い裁判闘争で民族差別の実態を訴え、日立の経営陣を糾弾し、国境を越えた運動によって完全勝訴し、22歳で日立に入社しました。
在日朝鮮人への差別・偏見に立ち向かい、常識を覆した日立闘争は「これでようやく終わった」と思いました。この日立(就職差別裁判)闘争(「民族差別・亜紀書房」1974)は、大学の講義に利用され、公立高校の教科書、自治体の人権資料にも掲載されています。
 19749月、私は日立に入社し、原発事故が起きた201111月定年退職しました。その後、嘱託として5年間勤務し裁判期間含めると46年になります。今年11月末で日立から去ります。

裁判までして入社した私が何を考え、どのような生き方をしたのか、また日立の経営陣は、私が入社時に取り交わした確認書(9)に基づいて、差別をなくすために真摯に具体的な施策を経営に反映したのか、などを後輩たちに書き残したいと思い、私は、以下の本を共著で出版しました。
1.「日本における多文化共生とは何か-在日の経験から-2008年 新曜社
   続「日立闘争」-職場組織のなかで 
2.「戦後史再考 」2014年 平凡社
日立就職差別闘争後の歩み

参考までに上記2冊の基になった原稿は、勤続25年を記念に会社と組合に提出し、東亜日報・朝日新聞の共同主催の「戦後50年日韓交流への提言」として応募した論文です。日立から「この論文を取り戻すように要求」され、胃が痛くなりましたが、何日も話し合いを続けた結果、会社は要求を撤回しました。その後、事業所は、セレモニ-で実施していた国旗掲揚・国歌斉唱を中止する英断を下し、勤続25年の記事が朝日新聞(96127)に掲載されました。

勝利判決後、昨年亡くなった中平健吉弁護士に付き添っていただき、横浜・戸塚にあったソフトウエア工場に出社した日を覚えています。また今日までの職場での様々な体験・出来事が蘇ります。机の中を整理すると3冊の本が出てきました。
1.「ひたちの心 」小宮義和 昭和57(1982)
2.「日立精神-その伝承と実行のために 」日立製作所人事教育部 昭和59(1984)
3.HITACHIの心」日立製作所 2007
日立創業者小平浪平翁の経営「理念」「日立精神」「日立発展の道」が書かれています。これらの著書は、日立闘争後、私が入社した1974年以降に発刊されています。

 小宮義和元取締役は、「ひたちの心」「あとがき」で「日立は、明治43(1910)11月、当時久原鉱業所日立鉱山の工作課長小平浪平翁(当時36)が電気機械や鉱山機械などを国産化しようと決心されたことに始まる」と書いています。朝鮮半島が日本の植民地となったのが1910年です。
「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植1971年未来社)は、「「日立鉱山史」、「日本鉱業株式会社50年史」によると、「日立鉱山は、久原鉱業の後身の日本鉱業株式会社の経営で、多くの鉱山や精錬所をもち、1945年以前には朝鮮の甲山、楽山、検徳や鎮南浦にまで進出していた」と記載されており、「日立発展の道」は、植民地支配と深い繋がりがあります。  
16世紀以後の欧米人の世界植民地化で、アジア・アフリカの民族は大いに苦しんだ。その圧迫を撥ね返そうとした日本の国粋主義が敗戦に悲惨を被った」(ひたちの心)と記されていますが、日本が朝鮮半島を植民地にしたことについては触れていません。

植民地朝鮮を背景に創業から100年以上となる日立の年間売上高は10兆円を超えています。31,500人の所員と千社近い関連会社を含めた総従業員数は約33万人で、家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。

入社当時、私は、全く未知なコンピュ-タソフトウエア部門に配属され、プログラム開発に従事し、仕事を覚えるのに必死でした。当時IBMが世界のコンピュ-タ市場を独占し、技術の先端でした。それに追随する日立の経営方針に従った数人のエリ-トエンジニは、1982IBM産業スパイ事件を起こし、最終的には和解したものの職場はその後始末と対策に追われ、余計な業務が増えて大変な騒ぎとなりました。この事件は、小平社長の創業精神である「外国の支配から独立して、自主の技術でお国の役に立とう」(ひたちの心)に背いています。

 20113月、福島原発事故が起こりましたが、日立は、東芝、三菱と並ぶ原発メーカーです。日本にある原発54基の内20基以上を造っています。事故を起こした原子炉は、GE、日立、東芝が造りました。
駒井健一郎第3代社長は、「原子力にしても、我々はタービンをGEの技術で造った以上、長い目で将来を見た場合、原子力もGEの方が良いと考えました。」「GE一本に絞って良かったんじゃないかと思います。昭和61(1986)6月」(HITACHIの心)と講話していますが、これも「自主の技術でお国の役に立とう」に反しています。

 日立就職差別裁判の勝利から5年後の1979年、東京に本社を置く経団連に加盟する多くの企業は、「差別図書である『部落地名総監』の購入、採用にあたっての差別選考等の反省を契機として、それぞれの企業が差別体質の払拭に取り組む」東京人権啓発企業連絡会(人企連)を発足しました。124(20157)が加盟しています。
 原発事故で世界の人々を核の恐怖に導き、人権を侵害した東京電力、原発メーカーである日立・東芝・三菱の関連企業も加盟しています。人企連の役員は、反差別国際運動(IMADR)日本委員会、部落解放研究所、東日本部落解放研究所等の「人権」運動団体の会長、副会長、理事などに就任し、また賛助会員、法人会員になって、「あらゆる差別の撤廃にむけて取り組」んでいます。これは労働者に沈黙を強いる企業経営者、組合、運動体の「共生」体制です。
 こうした人企連に加盟する企業経営者の一部が1996年創設された、「従軍慰安婦」の問題はじめ韓日の歴史を歪曲する「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同していることを知り、私は「東京人権啓発企業連絡会を糾弾する」抗議文を提出しました。

中西宏明会長は、2013621日株主総会で次のように述べています。
 「原発に取り組んでいることを恥ずべきことだとは、片時も思ったことはない」「原発事業は恥ずべきことではなく、むしろ誇ること」「イギリス、リトアニア、ベトナム、インドなどで進めていきたい。GEとはワンチームだ」と原発事故の原因も解らず、事故収束の目途もないまま、平気で原発の輸出を強調し、犠牲となった福島の住民はじめ世界の人々への謝罪の言葉は一切ありません。
日立の経営陣は、植民地支配の歴史から生まれた民族差別を謝罪しましたが、故金井務会長は、広島と長崎で多くの日本人、強制連行された朝鮮人が被曝した事実、原爆の恐怖、戦争責任ついて全く触れませんでした。
植民地支配と侵略によって朝鮮、中国、アジアの被爆者は、決して償われることなく、無視・放置されてきました。被爆者は約70万人、朝鮮人死亡者約4万人という統計があります。(韓国政府所属調査委員会2015

1929年生まれ、東大工学部出身、「原子力の開発に従事した」金井会長は、「経営理念・原子力」(平成9128日 於防衛大学校)で次のように語っています。
16歳の頃、「戦争中にいた江田島は広島のすぐ南にあり、原子爆弾が投下されたときもきのこ雲がよく見えました。それから2週間ほどして、郷里の京都に帰るときに広島の街を通り、惨状を目の当たりにしたわけです。私は入社してから原子力の開発に従事したわけですが、そういう経験が、私の将来を決めることになった」「1953年、私が入社した頃ですが、原子力の民間利用、平和利用が解禁され、その2年後に原子力の開発が始まりました。原子力が日本の脆弱なエネルギ-問題を解決してくれるのではないか、エネルギ-問題も将来は明るくなったと、当時私どもは喜んだものです。その後、日立の研究所で原子力の開発に携わり、工場勤務も経験しました。」「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」と防衛大学校生を前に講演しています。
「原子爆弾が投下されたときもきのこ雲がよく見えました。」と語った金井会長は、犠牲となった、罪もない日本人、朝鮮人についてなぜ触れなかったのでしょうか。なぜ、核兵器の恐怖、戦争責任について話さなかったのでしょうか。「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」という言葉は、国策であった植民地支配、侵略戦争に加担したことにも繋がっています。
小平創業社長、共に歩んだ経営陣の「外国の支配から独立して、自主の技術でお国の役に立とう」、「お国にために尽くしたい」「お国のために大事な仕事である」という「愛国思想や創業精神」が現在もそのまま引き継がれています。

労働力不足を補うため広島に多くの朝鮮人が強制連行されましたが、エリート海軍指揮官を養成する海軍兵学校江田島は、日清・日露戦争で軍港として知られており、原爆投下の目標であったと言われています。
民族差別は、日本の植民地支配から生まれ、戦後、朝鮮半島は、核を保有する覇権国によって分断されています。私は、今年84日~8日の「韓日脱核平和巡禮」、ソウルでの討論、陜川非核平和前夜祭、大邱非核平和文化祭に参加しました。強制連行された朝鮮人が広島、長崎で犠牲となり、原爆が投下された86日の慰霊式典、民間からの寄付で建てられた被爆2世の「平和の家」開院式に参席しました。
広島・長崎で被曝した朝鮮人(青年)は、「水をくれ!」「助けてくれ!」「握り飯をくれ!」「アイゴ(哀号)!オモニ(お母さん)!アボジ(お父さん)!」と朝鮮語で亡くなる直前まで必死に救援を求めましたが、「この野郎、朝鮮人じゃないか」「朝鮮人の分はないぜ」と冷酷に放置され、救助されなかったことが犠牲者を更に増やしたのです。(参考文献:「軍艦島」韓水山 作品社2009)

敗戦後、治療も受けず帰国した朝鮮人、その子供、孫たちに被爆による症状が出ていますが、その被害状況は、一部しか明らかにされておらず、全体を把握することは困難です。被爆者は治療費も払えず、困窮生活を強いられています。   
慰霊祭が開かれた、被爆1世の高齢者が生活する陜川原爆被害者福祉会館の裏の建物に罪のない、犠牲となった千名以上の人たちの名前が記されていました。広島で被爆したハルモニ(お婆さん)と話すことができました。陜川は、「広島」であり、政府の「日本は唯一の被爆国である」というのは、明らかに間違っています。
核による犠牲者は明確になっていますが、加害者の責任が一切問われていません。米国の原爆投下、日本の戦争責任が問われることなく、戦後71年が経過しましたが、「植民地」状態は、依然として続いています。
 原発と核兵器は、表裏一体であり、超大国の核による世界支配を補完するものです。戦後の原発体制は、朝鮮半島の状況がそうであるように国家・人間・民族を分断し、難民、棄民を生み出し、差別構造の上に成り立ち、弱者に犠牲を強いる非人間的なものです。
植民地支配を背景に国策に加担した創業者の理念、経営哲学を継承する日立の経営陣は、一体日立闘争から何を学んだのか、日立は、あらゆる差別をなくし、開かれた企業を目指したのか、と思うのは当然です。核発電所建設は、ウラン発掘、被曝しながら作業に関わる末端労働者、解決の糸口がない使用済核燃料処理、海洋への汚染水垂れ流しなど地元住民に犠牲を強いています。つまり戦後の原発建設は、差別と抑圧を前提にしています。
 
●労働者に沈黙を強いる「企業内植民地」を打破するために
駒井第3代社長は、「職場が明るく遠慮せずに下が意見、議論を出せる空気を作ることである。昭和605月」(HITACHIの心)と講話していますが、果たして現場の実態はどうなっているでしょうか。
 私は、「戦後史再考」に書きましたが、日立製作所の職場集会は、管理職の前で開かれ「民主主義」を装うためのポーズでしかありません。組合(幹部)は、組合員が会社・組合に批判・不満があっても上司のいる前で発言しない(できない)ことを承知しています。組合員自ら「これは選挙ではない」と話す選挙投票日、投票率を上げるために、事前に選ばれた委員が組合員名簿をチェックし、棄権する(しそうな)組合員に上司がいる前で「投票しろ!」と意図的に周囲に聞こえるように恫喝します。「私は投票しません」と勇気を表明する組合員は皆無です。組合員は、生活を考え、孤立を恐れて従うしかありません。
 日立が民族差別を起こした背景には、こうした労働者がものを言う「表現の自由」を束縛する企業文化があり、この抑圧から解放されなければならないと思い、会社と組合から厳しく監視される中、私は役員選挙に立候補しました。ほとんどの組合員が無視する中で、当初30%近く得票しましたが、1度も当選しませんでした。私に投票する組合員は「パクさん頑張れ!」と声を発することすらできません。
 日本人労働者が、ものが言えない企業・社会・組織の中で、「自らと関わりのない」(植民地で犠牲となった)外国籍労働者の差別・人権問題を提起すると多くの労働者は反発します。労働者にものを言わせない、抑圧的な職場は差別・排外を強化し不当な解雇事件を起こします。そして労働者は、経営者に原発事故の責任も追及できず、沈黙するしかありません。
 給与天引きされる組合費の使途、選挙方法、組合費から支払われる組合幹部報酬、職場の不満・疑問があっても、誰も発言しません。ものを言わ()ない組合員を悪用した組合(幹部)の横暴に我慢ならず、日立本社で開かれた労使幹部の春闘交渉現場に参加し、会社・組合を批判したこともあります(日立製作所労働組合・統制委員会への公開書簡200662)。私の言動を封じるためなのか、組合・会社は職場集会をなくしました。

 原発事故後、原発メーカーで働く労働者のひとりとして、沈黙していいのか悩み、内部から声を発することの意味、重要性を考え、日立製作所の会長・社長に抗議文・要望書を提出し、原発メーカーとしての責任、被爆避難者への謝罪、原発事業からの撤退、輸出中止、廃炉技術・自然エネルギー開発への予算化を求めました。
 また、東京駅前にある日立本社に向かって、海外からの参加者と共にリトアニアへの原発輸出に抗議しました。原発事故から3年目となった2014311日、日立資本の城下町、クリスマス・イブに「核兵器廃絶、平和都市宣言」をした(10)日立市の中心街で、青年たちと共に「反原発、輸出反対!」「日立の労働者は、目を覚ませ!」「日立の経営陣は被曝避難者・子どもたちに謝罪しろ!」などと訴え、その様子が翌日の東京新聞・茨城版に掲載されました。

 数百名が集まった職場の予算説明会において、私は「日立製作所にとって原発事故は、緊急な課題である。原発事故から3年経過したが、原発事故にどのように対応しているか。土地を奪い、家族の絆を引き裂いた被曝避難者のことを考えないのか。遺伝子を破壊する放射能、子どもたちへの影響を考えて日立の関係者も避難していると思われる。事故を起こして原因も究明せず、なぜ、原発を輸出するのか。その神経がわからない。日立の経営陣は、一体何を考えているのか。新聞報道されたが、原発メーカーである日立は、世界中の人々から責任を問われている。企業としての道義的・社会的責任をどのように考えているか」と問いました。

 原発輸出は、相手国住民を差別・抑圧し、戦前、日本がアジアを侵略したように再び日本が加害者になることが懸念されます。京都、川崎、大阪などの街頭における排外主義を煽る朝鮮人へのヘイト・スピーチ・デモ、日の丸を揚げて愛国主義を謳う人たちが増えていますが、外国籍住民、弱者を抑圧することは、ものが言えない社会へと繋がります。ものが言えないのは、企業はじめ自治体・教育現場・マスコミなどどこの現場も同じような状況だと思います。
企業社会は、日立がそうであるように経営者と組合幹部が「労使一体」という「協働(共生)」を謳い、民主主義・人間性を育てない(育たない)ように労働者を巧みに管理・支配しています。
 
小宮元取締役は、次のように書いています。
「「同じ釜の飯」を一緒に楽しんで食う習慣も生まれた。そしてこういう帰属意識が「自分は日本人だ」「自分は日立人だ」と誇らしく考える自己確認(アイデンティティ)を生んだ。アメリカ人は「いつ、どこでも星条旗がアメリカの象徴」という。日本人には「日の丸」がそれである。日立人には「日立マークと日立精神」が身分証明書(ID)となる。このパスポートさえ持っておれば世界中どこへ行っても「自分は日本人だ。日立人だ」という確信がもてる」、その一方で「最後にこういう「同じ釜の飯」の意識が、偏狭排他的にならないよう注意せねばならぬ」(ひたちの心)。日立が国民国家を支え、侵略戦争に利用した日の丸を常時掲揚するのもこうした経営理念に基づくのでしょうか。
「当時の創業者の目標は天下国家であり、いかにして日本を立派な国にするかが常に念頭にありました。」「関東大震災で東京が壊滅状態になった時、日立は幸い、さして生産力が落ちなかった」「小平さんは東京の復興に日立の工場の全能力を向け、どんな有利な条件よりもそれを優先しました。昭和555月」(HITACHIの心)と書かれていますが、関東大震災時、朝鮮人が虐殺されたことは触れていません。
「先頃私(駒井)は歴史を粗末にする民族は亡ぶという言葉を聞いたが、歴史を粗末にする企業も栄えないのではないだろうか」(日立精神)と書かれていますが、日立は、植民地支配、日立闘争などの「歴史を粗末に」していませんか。

「「外国からの支配から独立しよう」という創業社長の精神は、発展途上国の人々の上にも考えねばならぬ。馬場(粂夫)博士が言われた「他社・他人に不親切ではないか?」を繰り返し味わって、「他社・他人も日本人だと考えることが大事であろう。」」(ひたちの心)「物事を考えるには、自分本位に自分のことばかり考えず、できるだけ相手の立場になって、自分が先方の立場にいたらどう考えるかという、立場の転換をまず考えることが必要である」(HITACHIの心)とも記されていますが、当時植民地であった朝鮮()、侵略の歴史について一切触れなかったことは、「「落穂拾い」の基礎観念」の一つである「他人に不親切ではないか?」に背きます。

 戦前、日本企業の中には、労働力不足を強制連行した朝鮮人、中国人などで補い、植民地であった朝鮮、中国東北部(満州)において莫大な利益を得ました。戦後、政府は、日本国籍を剥奪し、官民一体で外国籍となった朝鮮人の、人間としての権利を全て奪い、職場から追放し、極貧状況に追い込みました。
 「たまたま昭和25(1950)年春、会社創立以来最大の長期争議中に朝鮮事変が勃発し、ドッジ公使の経済安定政策も功を奏して、ようやくインフレと不況を脱出することができた。そしてこの時も全社の協力一致で他社に先んじて営業成績を回復することができたのであった。」(ひたちの心)
 核保有国である米ソの戦場となった朝鮮半島は焦土化し、民衆は南北に翻弄し犠牲となり分断されたままです。その一方で日本経済は回復し、日立はその恩恵を受けたのです。

 国籍を理由に採用を取り消し、原発事故の謝罪もせず、労働者に沈黙を強いて原発を輸出する日立グループの経営陣、川崎市はじめ日立市など全国の自治体が「当然の法理」(国籍)で外国籍公務員に行政中枢部の職務、管理職に就くことを制限し、住民を2級市民扱いする行政の姿勢は、戦前の植民地政策の延長です。
 日立闘争が始まるまで、在日朝鮮人への就職差別は、同胞社会で当たり前でしたが、当事者からの告発、抗議、糾弾によって企業、日本社会の隠された差別・抑圧の実態が明らかになりました。
 人間としての権利を剥奪した歴史に加担した企業、自治体、それに抗議しなかった労働組合の戦争責任を不問にしたことは、日立、東芝、東電のような企業内組合からなる連合の労働運動が経営者との「労使協調・共生体制」を強化し、労働者に沈黙を強いることにも繋がりました。
 日立の経営陣は、日立就職差別闘争からこうした歴史的な背景を学び、国籍・民族を超えて労働者にとって差別のない、人間らしく働きやすい、開かれた職場・組織をつくるべきだったのです。

 原発メーカーの道義的・社会的責任、核兵器に繋がる原発の開発・製造事業から撤退することを求め、世界39ヵ国4千名(海外2,500)近い原告が、20141GE・日立・東芝3社を東京地裁に訴えました。本人訴訟団は日立に求釈明書を提出しました(20151018)が、回答がありません。私は、自分が勤める日立を何故訴えたのか、その陳述書を裁判所に提出しています(2016127)
世界を震撼させた原発事故の責任を問う審判を担当した裁判官は、十分な審理もせず強制的に審理を打ち切り、4回の口頭弁論だけで、2016713日原告敗訴を下しましたが、控訴しています。

 戦後、差別と抑圧を基盤に経済復興を優先させた原発体制を打破するために、原発事故の原因、原発メーカーの責任を徹底的に追求します。日立市は、「「広島」「長崎」のあの惨禍を繰り返さない」核兵器廃絶」を宣言しています。中西会長、東原社長に人類と自然の破滅に導く核を利用した原発事業から撤退する英断を再度求めます。
2度とこの世界で原発事故を起きないことを願い、日立を去っても核廃絶・反原発・平和を訴える世界の人々と連帯していきます。これはこの世で生きる私(たち)の責務であり、子ども、孫、次世代への責任でもあります。
日韓の市民団体は、1025日~28日福岡において、「反核平和連帯会議」を開催し、宣言文で「私たちは東芝等原発輸出メーカーの責任を追求するBDS運動を推進する。この運動は被曝労働者差別を前提にする、原発製造・輸出という非人間的行為を何ら恥じることなく行う、東芝・日立・三菱及び韓国の現代などの原発メーカーに対する、製品の不買―投資引き揚げ―制裁を国際的に進める運動」を展開することを採択しました。

 日立から採用を取り消され、私は「崖から落とされました」が、逆に、それが職場において人間らしく生きる契機となり、現在の自分が存在します。その意味で日立製作所に感謝しています。
 歴史は作られるものではなく自分で作るもの、人権は与えられるものではなく、社会の不条理に当事者自ら怒りを発し、生き方を賭けて獲得するものである、ということを私は日立就職差別裁判闘争から学びました。
最後まで読んでいただき、御礼申し上げます。
日立製作所が開かれた経営、組織になることを願い、皆様の健康とご活躍をお祈りします。今後お会いする機会があるかも知れませんが、よろしくお願いします。


 

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