2016年4月2日土曜日

渡辺信夫著『信仰にもとづく抵抗権』を読んで

『信仰にもとづく抵抗権』(渡辺信夫著、いのちのことば社 2016)を読みました。「戦争法案」を通し、憲法を改悪しようとするまさに今の安倍政権に対する抵抗権について、93歳の「信仰の先達」から学ぼうと出版された本です。



著作の中のメッセージ
渡辺先生のメッセージは明確です。学徒出陣で海軍にいた経験をもつ渡辺先生は、敗戦の責任を自分に引き寄せ考え(「殺人目的の組織を構成していた連帯責任を免れることはできない」)、カルヴァンを学び、それを教会のあり方の問題として深めていきます。そしてあくまでもキリスト者の立場から、現在の危機的状況の中で、キリスト者としての抵抗のあり方を考え、余命をそれに捧げる覚悟であると宣言し、キリスト者に呼びかけた本だと読みました(「信仰者たちの間で集中的な共同研鑽が深められなければならない」)。もちろん、キリスト者でない人たちとの連帯は前提にするものの、渡辺先生はあくまでもキリスト者のあり方を求めます。

渡辺先生は、第二次世界大戦での敗北を「第一の敗北」とし、現在の3・11で明らかにされた状況を「第二の敗戦」と捉えます。そして第一も今の第二の敗戦も、政府や為政者の責任にとどめず、「だまされた、自分で自分をだまし、その欺瞞に乗った」己自身の責任を徹底的に問うのです、

現政権は日本を戦争のできる国に戻そうとしている。原発再稼働と平和放棄の再武装はこの政府の方針として結びついた政策である。「原罪」を見据え、神学的に考察しなければとらえきれない国家悪が露骨に現れ出ているのである」。

敗戦で人生のやり直しを始めた私は、一応のことは果たせたつもりでいたが、じつは立て直しに失敗したのだということを、現政権の行動によって知った。ここでもう一度、日本の出直しと、自分の人生の出直しを覚悟しなければならない。私にはもう時間は残されていないが、もう一度走り始め、命の残るかぎり走り続けなければならないことになった」。

ここからが信仰の戦いだ
「ここからが信仰の戦いだ」ということで最後はこのように締めくくられています。第一の敗戦の時と同じく、為政者に責任にとどまらず、あくまでも己の責任を問うのです。
特定の人物に罪を追わせて、自分が擬人の立場に立っていると思うならば、われわれも破滅する。・・・小さな器を巨大な悪魔的な人物の座に担ぎ上げた者の責任がある。その悪魔性の成長を阻止しなかった者、批判はしていたが、本気でそししなかった者の責任がある。その罪を悔いる者は、過ちを繰り返さないための抵抗をもりあげていく」。

まさに「第一の敗戦」の真っ只中で勝てない戦争を進めてきた日本国、軍隊の実態を知り、それを己の生き方、教会のあり方の問題として受け止め、誠実に自分自身ができることをやってきたという自負のもと、「第二の敗戦」を経験して改めて見えだした国家悪に対して余生をその戦いに尽くすという宣言だと私は受け止めました。

FBでは渡辺先生は実際にそれを実践すべく、「小型な多様な集会を小まめに重ねて行」くことを提案し、「この国の、この時代の中で、信仰者が如何に信じ、如何に考え、如何なる姿勢を取って歩み始めるか、という緊急のことなので、同じ志の人々に集まって頂いて学びと確認をともにすることです。」と書かれています。第一回目の集会は、4月9日、日本キリスト教会東京告白教会(Tel.03-3300-6529)でもたれるそうです。

私が感じた疑問
この本を読み終え、私は渡辺先生の人となりにあらためて尊敬の気持ちを覚えながら、1点、疑問に思う箇所がありました。

第一の敗戦の時、日本は植民地化と侵略戦争の非を認めて謝罪し、不戦を誓った」(96頁)。
渡辺先生の認識では、ところが今になって、(安倍政権は)この第二の敗戦において、「ここに原罪を認めて深く内省し、国の姿勢を改めるようになったのではなく、むしろこの機会に日本を戦争のできる国に戻し、非武装を国是とした第二次大戦後の日本の方向を覆す企てが現れでた」と捉えるのです。

しかし日本は敗戦後、本当に「植民地化と侵略戦争の非を認めて謝罪」したのでしょうか。この70年、平和と民主主義の国だったのに、安倍政権になって突然、不穏な時代になりはじめたのでしょうか。

私は「原発体制と多文化共生」『戦後史再考』(平凡社、2014)の拙論で、渡辺先生とはことなる認識を記しました。それは日本の植民地支配の下で日本に居住するようになった「在日」の立場から日本社会をとらえたものです。

安倍政権の体質は「戦後」の平和と民主主義の中から突然変異的に現れたものか、明治の建国からの連続的な、国民国家の成長を求める国のあり方から必然的に出てきたものととらえるのか、最終的には、私の渡辺先生の認識に対する疑問はこの問題に行きつくと思います。もちろん、どっちであれ、今の安倍政権のあり方に対して「抵抗」していくべきだということでは違いはありません。


渡辺先生との出会い
じつは、私が福島事故を起こした原発メーカーの責任を問うべく「原発メーカー訴訟の会」を作るとき、会長になってくださる方がいらっしゃらず、最後にあきらめかけたころに登家牧師の紹介を受けてお目にかかったのが渡辺先生なのです。渡辺先生は、お会いしたときには覚悟を決めておられたようで、私の申し入れを快諾してくださいました。そして現在に至っています。


ところが3月23日の東京地裁の口頭弁論において、あろうことか裁判長は弁論終結を言い出し、大法廷での怒声の中、7月13日の判決を宣言したのです(この声は全く聞こえませんでした)。
原告の主張と被告原発メーカー3社からの反論がなされ、それで結審をして判決を言い渡すのが普通ですが、裁判所は十分な審議がなされていないのに、弁論終結を言い出しました。これは、もうこれ以上の審議がなくとも裁判所としては判決を言い渡すことができるという判断にたったことを意味します。7月の判決はこれで、もう敗訴が決定したと私は判断しました。

  メーカー訴訟の敗訴は決定的、私たちの課題を考える
  http://oklos-che.blogspot.jp/2016/03/blog-post_28.html

その日の記者会見の場で、渡辺先生は、国会と同じような形で裁判長の弁論終結が宣言されたことを批判され、ご自身のこれからのついて、まさにこの本の結論の部分を話されました。「日本の出直しと、自分の人生の出直しを覚悟しなければならない。私にはもう時間は残されていないが、もう一度走り始め」るということを話されたのです。

弁護団が書いた原発メーカー訴訟の訴状を読まれ、そこに神学がないと喝破された渡辺先生です。神学がないとは、訴状の中で原発体制に反対をしているが、そこには原発体制に抗っていく深い思想がみられないということであったのでしょう。一審で負ければ今の弁護団のもとで控訴することは考えないとまで断言されました。しかし7月の判決を前にして、弁論終結が宣言された今、渡辺先生がメーカー訴訟をどのようにしようと考えられているのか、私たちにはわかりません。

「抵抗権」を著作の中で明確にされた渡辺先生のことです。私たちは渡辺先生の深い洞察の中からどのような結論がだされるのか、その結論を真摯に受け止めたいと思います。

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