メーカー訴訟で被告の立場にあるGE、日立、東芝3社の答弁書を読んでいると国家と法律、大企業との関係がどのようなものであるのか、その輪郭がよく見えてきます。原子力基本法をはじめ、原子力損害賠償法(原賠法)、原子力損害賠償・廃炉等支援機構法(支援機構法)は一体となって日本国家として原子力を活用していくという大方針をそれらの法律は支えるものなのです。
原賠法の「責任集中の原則」は憲法違反という弁護団の主張は「独自の政治的主張にすぎない」とばっさり切られています。被告弁護団らの主張は、原子力損害による被害者の救済と、企業の保護を法的に完全に作りきっているという自信と余裕を見せています。国際条約(CSC条約)まで締結している、何が憲法違反か、話にならない、そんな議論は入口の法律論で排斥すべきものと一様に口をそろえて主張します。残念ながら、答弁書を読む限り、こちらの訴状の立論の粗さが明らかです。
しかし、今の島弁護団には自己の主張を正当化することはあっても、自己のあり方を根底から検証しようとする謙虚さはなく、また同僚の弁護士たちも相互批判をしながらこちらの主張を徹底して検証する作業(原告との議論、また弁護団内部での議論)をおざなりにしています。そこには弁護士が裁判を進めるという傲慢な姿勢および、弁護士のギルド的な仲間意識が見られます。そういう壁を破るべきだという弁護士が多くいるのでしょうが、残念ながら、私たちが選任した弁護団はそうではありませんでした。ここからは原告の立場からのメーカー責任を問う法廷論理の構築が不可避なのです。
法律論で戦う裁判の場で、どのようにして彼ら被告側の主張を切り崩すのか、徹底した考察が不可避です。私たちはあきらめません。
従って被告側の答弁書には原子力基本法を絶対視することはあっても、そこに「我が国の安全保障に資すること」という文句が入った改正が行われたことには触れません。そのことに疑問をもった私は、検索をして早稲田大学の水島朝穂さんのHPに行き着きました。水島さんの見解は明快です。歴史的に原子力基本法がどのように改正されてきたのを解説し、単に「我が国の安全保障に資すること」という言葉が入れられたのではなく、それに付随する形で文面が微妙な形で変えられていました。実に貴重な発言だと思います。そしてこのことが再稼働の実施、安倍の「戦争法案」の強行などと繋がっていることが読み取れます。
原子力基本法(2012年6月25日改正)
(目的)
第一条 この法律は、原子力の研究、開発及び利用(以下「原子力利用」という。)を推進することによつて、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とする。
(基本方針)
第二条 原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。
2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。
原子力基本法が改正された 2012年6月25日 水島朝穂さんの主張のポイント
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2012/0625.html
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2012/0625.html
その1、「単に「我が国の安全保障に資する」という文言が付け加えられただけではない。「安全の確保」は、「放射線による有害な影響から人の健康及び環境を保護する」ことから、「国民の生命、健康、財産の保護」という形で、「人」から「国民」に変わり、それと「我が国の安全保障」という文言が結びつくことによって、原子力利用に国家安全保 障の視点が盛り込まれたわけである。」
その2、「核の技術を持っているという安全保障上の意味はある」という塩崎議員の発言から、「明らかに「核の技術」をいつでも核武装可能という意味での「抑止力」として捉える発想がそこにある。これは原子力基本法の立法趣旨とは明らかに異なる」との主張。
「人」が「国民」に変えられていたことに私はまったく気がついていませんでした。これは古関彰一さんが名著『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)で指摘している、アメリカが草案した憲法の中の人権に関する部分で、peopleを敢えて日本政府は「人」ではなく「国民」にして、在日外国人の人権を意図的に排除したというくだりを思い出させてくれます。
古関さんは2013年に『安全保障とは何かー国家から人間へ』(岩波書店)を書いて、国家を中心にするのではなく、世界は21世紀になって、人間の貧困や「恐怖からの自由」を中心にする考え方になってきているという解説をしています。「人間の安全保障は、国家安全保障の下での国権であった安全保障を個人中心に変化させることによって、安全保障を人権として、かつ、各国の憲法にとって国民権であった人権を本来の人権に創り替えることを可能にしている」(同著 P160)。
しかし福島事故から1年経って、日本政府は自公民の賛同を得て原子力基本法を「改悪」しました。そこには核兵器による国家安全保障を前提にして、あくまでも「平和利用の下」に原発を再稼働していくという強い意思を見ることができます。それが川内をはじめとした再稼働の動きに連動し、また「戦争法案」の動きにつながってきているのです。
私が危惧するのは、戦争責任を曖昧にしたままのSEALDs批判をした韓国人研究者に対する徹底した攻撃をかけた、ヘイトスピーチに物理的に対抗する「しばき隊」リーダーたちの動きです。若い人が安倍政権に反対する行動をとりはじめたという評価がめだちますが、日本社会が全体として「愛国的」になってきており、原子力基本法の改正にあたってもマスコミは、「人」から「国民」への書き換えを伝えず、「国民」を当然視したところに、私は不安を感じるのです。
残念ながら、私たちのメーカー訴訟の訴状の中にも、この「国民」を強調する流れがはっきりと読み取れます。日本の住民は日本国籍者だけでなく、外国人でもあるのです。
メーカーの責任を問う裁判の提起は、再稼働反対唱える運動体や原発裁判を進める弁護士たちからではなく、法律による差別をよしとしなかった私たち在日が最初に提起したという事実を改めて想起すべきだと思います。アメリカでは私の主張は大いに受けいれられましたが、残念ながら、メーカー訴訟の我が弁護団は、私の主張を「裁判を利用して民族運動をしようとしている」と捉え、私が事務局長を辞めるべきだと主張したのです。訴訟の会の混乱はここからはじまっています。
同じ原告の中からも差別的言辞が飛び交い、差別発言者と彼らの支持者は当事者の真実を訴えようとする言葉を受け止めようとしてこなかったのです。そして最終的に、彼らはその弁護団と野合しようとするのですが、その弁護団の感性が書き上げたのが訴状であり、その訴状の内容の徹底した検証が今、求められているのです。弁護団に取り入り、仲良く裁判をやっていこうということではなく、徹底した内部批判、相互批判を経てこちらの主張を法定内外で明確にして行くことが求められています。国籍を超えた、世界に通じる思想、論理を打ち立てなければならないのです。
訴訟の会の混乱は人間関係の問題でなく、社会の不義を歴史的に糺していくのか、いかに真実を求める法廷内外の運動にしていくのかという問題であったのです。そして今になり、それを具体的にどう進めるのかという方法論、考え方をめぐるものであったことが明らかにされてきました。今こそ、真の意味で訴状の学習会がなされなければなりません。それは偉い弁護士が書いたものを学びましょうというレベルでなく、被告答弁書と読み比べなから、こちらの訴状の問題点を徹底的に検証することからはじまるのです。裁判をショー化して多くの動員を求める時間とエネルギーを内部検証の時間にあてることを提唱します。
原子力基本法はその成立時から<日本語的欺瞞>を内包していた。「原子力」は直感的に、例えば鉄腕アトムなどからの連想で「atomic power」だと誤解されているが、本当の英語はnuclear energyであり、核(分裂)エネルギーである。これは「核爆弾」や「核ミサイル」を想起させないための罠だった。
返信削除一方米においては原爆投下を連想させないように、鉄腕アトムはspace boyと名前を変えられた。
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