(日本語で、「核合意を断れ」とあります)
イスタンブル総領事館からのメールの内容には:
■同団体は、日本の国会議員への手紙を手交したいと記載してあります。
■NKP(核反対プラットフォーム)と名乗る団体が、在イスタンブール日本国総領事館前において、核施設に反対する集会を開催するとの掲示板が同団体フェイスブックに掲載されております。
集会開催予定日 2014年1月22日(水)16:00~場所 日本国総領事館前(テクフェンタワー前)
私は早速、NKPについて調べてみました。トルコのNKPのグループの人々は、福島に関して、更に、広島・長崎原爆投下に関して、日本人に対して、強く憂い、同苦し、一緒に悩んでくれていたのです。更に、トルコにおけるメルシン、シノップの原発建設反対運動に立ち上がったのです。
昨年12月8日、私は日本へ帰国していました。明治大学の駿河台校舎で(原爆訴訟裁判判決)下田判決50周年のシンポジュームに参加しました。私は国連フォーラムのメンバーであり、法律研究の為に是非ともシンポジュームに大変興味がありました。
シンポジュームには多くの法律家や外務省関係者、赤十字の代表、原爆犠牲者、ピースボートの関係者も参加されていました。最後に福島からこのシンポジュームで訴えたいと、一人の想念が立ち上がりました。除染がはかどっていないこと・・。さらに福島の情報が政府によって、隠ぺいされつつあると。外務省の幹部に「霞が関にいる人は福島に来て住んでください」と訴えていたのです。私には、福島から来たその被害者の方の声は今も耳に焼きついています。そこで私は日本原発メーカー訴訟代表の崔 勝久CHOI
Seungkooさんに出会いました。
私は東北大地震被害地へ行来ました。私にできることは何かと。現地の実態を私は見ました。福島の原発建設に一番反対運動したのは当時、日本共産党の人たちであったことも新聞を通じて知りました。事故当時、NGOやNPOそして市民の有志の人びと、医者、看護婦のボランティアが真っ先に動いていました。みな無償で、家族のことも顧みず活動してくれたのです。普段は皆きれいごとを言っています。実際、事故が起きた時、誰が一番先に応援に入ってくれたか市民は知っています。
更に各地域に非難した人々、子供たちは福島から来たというだけで多くの差別を受けているのです。福島県内で学ぶ高校生と交流した時、彼らはふてくされ、言い知れぬ大人への怒りを感じました。彼らが行く場がないのです。
同じ年にトルコのワンで地震があり、私のできることは何かと自問しました。そして、イスタンブル大学情報学部新聞学科で≪トルコと日本の地震報道の違いと分析≫に関しての論文を急いで書き、2012年1月大学へ提出しました。その際、日本の地震は各国の声で、「人災」と言われています。東京電力も日本政府もこの事故は「想定外だった」と言っています。今まで、原子力発電は国民も、政治家も、企業も、絶対と信じ込んできました。
只、ごく一部の原子力研究者は「原発は絶対危険」と言っていたのです。国民も、政治家も、企業も、誰もその専門家の声に耳を傾けなかったのです。今も、その呪いから覚めない人々が世界中にたくさんいます。原爆を研究し、原爆投下に加担したDRアインシュタインが原爆の恐ろしさ、犯した罪を一生かけて原爆破棄を訴え、戦争反対を訴え続け、世界の科学者が中心になって、世界平和連邦の設立に動いたことを思い出してほしいです。
NKPの抗議の写真を送ります。(写真の日付けについて確認中)
メルスインで
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