2013年12月16日月曜日

原発メーカー訴訟の本質を解き明かすー法理論と運動の面から

  (No Nukes Asia Forum Japanのご好意で125号から以下の文書の転載をさせていただきます)
   原発メーカー訴訟・原告募集中!

原発メーカー訴訟の会

「原発メーカー訴訟の会」では、20141月末に、福島第一原発の原子炉メーカー3社(日立・東芝・GE)を相手取った訴訟を、東京地裁で起こす計画です。
 2011311日に発生した福島第一原発の巨大事故は、かつて我々が経験したことがない規模で放射線被害を拡大させ、世界中の人々を震撼させました。そして現在、東京電力に対し数多くの損害賠償請求訴訟が提起されています。
 しかし、自動車の排気ガスによる喘息被害に対して、運転手や所有者以上にメーカーが賠償責任を問われるように、原発事故被害については、電力会社だけではなく、原子炉メーカーも当然に責任を追及されるべきです。
 ところが、メーカーはこれまでほとんど非難の対象とさえされていません。その原因は、原子力損害賠償法が電力会社のみに責任を集中させる制度を採用しているためです。
しかも、原子炉メーカーは、これをいいことに、今では海外への輸出によってさらなる利益拡大を図っています。
 責任集中制度は、まさに原子力産業保護を優先する不合理な構造を作り出しているのです。ここには、いかなる正義も存在しません。
 私たちは、このような極めて不合理な原子力産業保護構造の修正を迫るために、本訴訟を提起することとしました。

原告になって下さい!同封の委任状を原発メーカー訴訟の会に郵送して下さい
原告参加費は2000円(年間)です。同封の振替用紙をご利用ください



(この裁判がきっかけとなり、原発輸入国の人々が原発メーカーの責任を問うことになれば、原発輸出はとまり、原発時代は終わっていきます)




原子力損害賠償法は憲法違反

                    島昭宏(原発メーカー訴訟弁護団長)


 責任集中制度
 原発が事故を起こした場合の責任主体としては、国、原発メーカー、そして電力会社が考えられる。これは、連帯債務であり、被害者はこの三者のいずれにも損害賠償請求ができる。
 ところが、原発事故に関しては、原子力損害賠償法(原賠法)という法律があって、そこには、電力会社が過失の有無にかかわらず責任を負うこと(31項)及び電力会社以外の免責(41項)、PL法(製造者の責任を定めた法律)の排除(同項3項)が規定されている。
これらは、1条に掲げられる「原子力事業の健全な発達」という目的を具体化した条文であり、実は世界中に広く行き渡っている「責任集中制度」という仕組みである。そして、これこそが、世界の原発体制を強固に保護する仕組みなのである。
 なぜなら、被害者は電力会社に対してのみ損害賠償請求をすることができるが、その賠償額が電力会社の保険契約等による損害賠償措置額1200億円を超える場合、国が援助をすることとされている(161項)。しかし、電力会社及び国から支払われる賠償金は、言うまでもなく国民が負担する電気料金及び税金がその原資である。つまり、国民による負担が、電力会社や政府を通して、被害者に支払われるだけであり、原発メーカーは、ここにはまったく関与することなく。安心して自らの経済活動に専念することができるのである。
 まさに「原子力事業の健全な発達」という目的達成のための見事な仕組みというほかない。我々が電力会社のみを責任追及の対象とすることは、まさに原発体制が予定するところであり、その枠組みの中でいくら大騒ぎしたところで、彼等は何らの痛痒も感じないのである。
 しかし、現実の被害の規模や深刻さ、これから100年以上続くであろう問題解決への道のり、そして、これらに対する賠償の状況、東京電力や国の不誠実な対応等についていちいち言及するまでもなく、原発メーカーが非難の対象とされることさえなく、海外への輸出による利益拡大を図ろうとしている現状に、一切の正義が存在しないことは明らかであろう。
この極めて不合理な状況を生み出している原因が責任集中制度にある以上、これに挑むべく原発メーカー訴訟を提起することは、社会の要請である。

2 原発メーカー訴訟の法理論
 本訴訟においては、責任集中制度が違憲であることを前提に、PL法及び民法709条に基づく損害賠償請求をする。
 原告は世界中の人々であり、請求額は精神的慰謝料1100円という一部請求。争点はあくまでも原発メーカーの責任の有無である。
 責任集中制度によって侵害される人権は、まず、不法行為によって損害が発生しているのに賠償請求をできないことから、憲法291項が保障する財産権である。次に、あらゆる製造者は、製造物の欠陥から生じる事故による損害を賠償する責任を負うにも関わらず、最も危険な製造物である原発についてのみ免責されるのは不合理な差別であるといえることから、14条の平等原則違反がある。さらに、訴訟を提起しても免責規定を理由に、製造物の欠陥ないし製造者の過失についての実質的審理がなされないとすれば、32条の裁判を受ける権利が侵害されているといえる。
 しかし、これらの人権侵害のみを主張しても、問題の本質は表現されない。そこで我々は、13条の幸福追求権及び25条の健康で文化的な最低限度の生活を保障される権利から導かれる「原子力の恐怖から免れて生きる権利」=「ノー・ニュークス権」の侵害を主張することとした。
いかなる場合でも製造者としての責任を免れるとすれば、原発メーカーは安全性よりも経済性を優先するインセンティブを与えられていることになる。何より、被害者の保護よりも原子力事業の発達に重きを置く責任集中制度は、ノー・ニュークス権を侵害しているといえる。
 さらに、違憲主張とは別に、原賠法5条に基づく請求も考えられる。同条は、電力会社は故意の第三者に対して求償できるという規定であり、民法423条によって、この求償権を代位して請求するのである。
この請求は、まさに原賠法に基づく請求であるため、直接的に原発メーカーの故意について審理を求めることになる。この場合の故意とは、敢えて事故を起こしたということではなく、事故が起こる可能性を認識しながら、それを認容する心理状態をいう。1970年代から欠陥が指摘されていたマークⅠ型の格納容器を製造したメーカーが、事故の発生を認識していなかったと言えるであろうか。
 以上が、本訴訟における大まかな法理論である。          
 裁判所に対し、良心に従った公正な審理を求める強いメッセージを伝えるために、是非多くの方々に原告となっていただきたい。




原発メーカー訴訟は原発体制との闘い

崔勝久(原発メーカー訴訟の会・NNAA事務局長)



はじめに
311福島事故の前から原発問題にとりくみ、アジアの交流を行なってこられたNNAFのみなさんに心からの敬意を表します。
私は311福島事故により、人は国籍や民族にかかわりなく、大きな災害に遭って一緒に死ぬんだということをあらためて強く感じました。それまで在日の運動にながくかかわってきた私はそれ以来、国籍や民族を超えて協働して社会の変革をすることを唱えはじめました。
私は、モンゴル、韓国、台湾を何度も訪問するようになり、何か具体的な行動をアジア全体で起こそうという話から、No Nukes Asia ActionsNNAA)の立ち上げにかかわることになりました。
その活動の中で、福島事故を起こした原発メーカーはどうして社会制裁を受けないのか、どうして彼らは311以降、何の謝罪もなく継続して原発輸出を続けているのか、そこには私たちが気づかなかった全世界的な仕組みがあるのではないのかという疑問を持つようになりました。そして行き着いたのが原発メーカー訴訟です。

  原発メーカー訴訟とは何か
原発メーカー訴訟は、電力会社への責任集中と、「原子力事業の健全な発達」を目的として原発メーカーの免責を謳う「原子力損害賠償法」の違憲性を主張し、原発メーカーにも事故の責任があることを明らかにするものです。原発メーカーには被害者に対する賠償責任があるということも自ずから出てくるでしょう。
原賠法は、日本だけでなく、韓国、台湾をはじめ原発を持つ国にはどこにでもあり、これまでそのことをどの国においても疑うことはなかったのです。
原告は、日本国内だけでなく全世界から1万人(目標)が、精神的損害を理由に100円を請求してメーカーの責任を明らかにすることを求めます。裁判で争われるのはあくまでもメーカーの責任の有無だけです。
原賠法によって原発メーカーの保護・拡大を謀り、核による世界支配を続ける原発体制に対する挑戦状をたたきつけることになるのです。

「原子力の平和利用」は原発体制を補完するもの
日本の原発体制はアメリカの核政策の一環としてはじめられたものです。「原子力の平和利用」という名の下で、アメリカを中心とした列強が作りあげた、核を独占し列強以外には核兵器を作らせない、持たせないとするNPT(核不拡散条約)こそ、列強の核による世界支配政策です。
「原子力の平和利用」は、核兵器を作らせないという条件でアメリカが日本に原発建設を認め、完全に核の支配下に置いてきたのです。
安全神話と情報の秘匿で守られてきた原発は、今や311事故によって54基あったうちほぼすべて運転できない状態になりました。しかし安倍政権は再稼働を公言し、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す再処理計画を継続すると宣言します。国際的な共同管理という名目で海外に使用済み核燃料を処分する案は今も残っています。それは、モンゴルだと私は思います。

  原発体制は戦後の植民地主義
私は、故西川長夫さんが喝破したように、原発体制とは、戦後の、植民地なき植民地主義であると確信するようになりました。それは日本一国で完結するものでなく、アメリカを中心とする世界列強とアジアなどとの関係からみれば、まさに列強の植民地主義なのであり、日本は戦前から一貫して国家の成長拡大を求める植民地主義であったと捉えることが、現実社会をもっとも正確に把握することになると私は考えます。
日本は、敗戦に際しても、公害、薬害においても、その責任者の責任を徹底的に問うことをしませんでした。戦争責任も曖昧なまま済まされてきました。福島事故にして然りです。被害者の立場で徹底して加害者の追及をしてこなかったことが、実は自分たちの加害者の立場を忘却し、加害者である現実を直視しようとしないということと重なります。
原発輸出国になるということは福島のような事態を外国でも起こす可能性があることであり、日本社会に住み、その事態を傍観している者は、私のような外国籍の者を含めて、加害者の立場に立つということです。
日本は二度と加害者の立場になってはいけないのです。日本の企業が輸出した原発が事故を起こしても、法的には「メーカーに責任はない」ということになっていますが、しかし本当にそれで済むでしょうか。
原発メーカー訴訟は、メーカーを保護することで原発の拡散を謀る原発体制の構造に切り込む闘争です。反核、反差別、反植民地主義の立場に立つことが、その闘いを全世界に拡げることになるでしょう。


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