原発の再稼働・輸出に抗する-反核、反差別、反格差の立場から ~原発体制に抗する反植民地主義の闘いを地域社会から!~ 朴 鐘碩 2013年8月5日 日比谷文化図書館 原発メ-カ・日立製作所で働いているパク・チョンソクです。 DVDを見ていただきましたが、訴訟経緯を簡単に説明します。きっかけになったのは、日立との交渉が決裂した帰りだと思いますが、横浜駅西口でべトナム戦争に反対していた、全く知らない学生に出会い、私の方から声をかけたことです。慶応大学の学生でした。「日立から国籍を理由解雇された」事情を説明すると驚いた様子でした。 彼らは弁護士を探しました。最初に引き受けたK弁護士は、「新判例をつくる」意気込みでしたが、弁護団会議で労働契約から民族差別・戦争責任問題となって「日本人としてこの裁判にどう関わるのか」と生き方が問われることになり、彼は辞めました。 その後、K弁護士の隣の事務所にいた石塚久弁護士がこの事件を受けることになりました。 さらに弁護士になったばかりの、当時20代の秋田瑞枝氏、仙谷由人元官房長官が加わりました。東京高裁の判事であった中平健吉氏は、辞職し弁護団長となりました。 私が日立製作所を訴えたのは、40年以上前、高校卒業して間もない19歳の時の1970年です。4年近い裁判闘争で(民族)差別の不当性を訴え1974年に完全勝訴し、私は日立に入社しました。 3・11福島原発事故から8ヶ月後の2011年11月末、私は日立製作所を定年退職しましたが、現在、日立の企業城下町である横浜・戸塚で嘱託として働いています。 この「『日本における多文化共生とは何か』・続「日立闘争」職場組織のなかで」働く労働者の実態を書きましたが、原発体制・事故とエンジニア・労働者との関係を考えたいと思います。 ご存知のように日立製作所は東芝、三菱に並ぶ原発メ-カです。日本にある50基以上ある半分近い原発を電力会社に納入しています。その一つが事故を起こした東京電力の福島原発です。 事故から2年以上経過しましたが、事故現場は多くの労働者が被曝しながら廃炉・収束工事に従事しています。今後どれだけの労働者が被曝するか、未知数です。被曝労働、高い放射線量、20万人近い避難者への賠償、汚染水垂れ流し、使用済核燃料処理など難問が山積みとなっています。放射能被害は国境を越え、人間を選別しません。 原発メ-カである日立製作所は、日立鉱山を発端にして、諸悪の根源となった、朝鮮半島が日本の植民地となった、1910年に創業しています。 エネルギ-確保の水力発電設備建設で当時から東京電力(電燈)とは深い関係にありました。 資源のない戦前の日本のエネルギ-確保は、炭鉱、ダム建設、送電網、資材輸送の鉄道敷設などインフラ整備が最重要課題だした。最も危険な土木工事現場には、「枕木一本に朝鮮人一人」(「朝鮮人強制連行の記録」朴慶植1971年・未来社)に匹敵する、強制連行した朝鮮人、中国人の労働力が必要でした。 多くの企業は、強制連行した朝鮮人・中国人労働者を使って労働力不足を補い利益を上げましたが、企業の社史にその事実を記していません。 日本の大企業の多くは、国策に便乗し植民地となった朝鮮半島、満州で莫大な利益を上げ、その一方で国策によって新天地を求めた、多くの日本人が犠牲となりました。7月22日、川崎で韓国から来られた被曝2世である二人の女性から核によって非人間化された、生々しい、衝撃的な生活証言を聞きました。明日は、68年前、広島に原爆が投下された日です。 広島・長崎では、強制連行された朝鮮人も核の犠牲になっています。「従軍慰安婦」問題含めその補償・戦争責任は今も未解決のままです。 戦後、朝鮮半島は、核を保有する覇権国・米とソ連(ロシア)の犠牲となり分断されたままです。朝鮮戦争、ベトナム戦争で日本の経済は復興しましたが、朝鮮人の人権は剥奪されました。国民国家から棄てられ、翻弄され、無権利状態となりました。厳しい差別・抑圧の中で、それでも一世である朝鮮人は、逞しく生きてきました。私の両親は9人の子どもを育てました。 私は、朝鮮戦争が勃発した1951年、愛知県で末っ子として生まれました。当時、朝鮮人が差別され企業に就職できないことは、朝鮮人社会で常識的な価値観でした。日本の植民地支配を告発し糾弾した日立就職差別闘争が起こるまでには、植民地から60年、戦後25年という時間、歴史が必要でした。民族組織からは、植民地主義につながる「同化裁判」と批判される中での闘いでした。 毎日、事故現場、放射能汚染水の海への流出報道が流れていますが、事故の責任が問われているのは、安全神話で住民を騙し、犠牲を押し付けた政府、利潤と効率を求め国策に便乗した東京電力だけではありません。今年11月に提訴する予定ですが、人類・自然と共生できない原子炉を製造したメ-カの社会的・道義的責任が問われなければなりません。 私が勤務する日立製作所は、事故原因を明らかにせず、被曝避難者への謝罪もなく「より安全な原子力を世界に」求めています。最も危険な原発(核)を開発・製造し、リトアニアに輸出しようとしていますが、これは何としても阻止しなければなりません。三菱・東芝もインド、べトナム、中東、東欧に輸出する計画です。 朝日新聞に「プロメテウスの罠」が連載されています。事故現場は、日立の関連会社含めて千名以上のエンジニア、労働者が被曝しながら収束工事に携わっているようですが、現場の状況、被曝労働者の実態は不明です。(核)爆発した原子炉の状況は誰もわかりません。搬入した日立・東芝のエンジニアも手段がなく困惑しているのではないかと思います。しかしメ-カは、廃炉の見通しがないのに、この工事で莫大な利益を得ています。 工事は、利権が絡んでいます。東京電力はじめ原発プラントを納入した日立、東芝をはじめ10次に近い関連、下請け会社が連なっています。高濃度の現場で従事する最も弱い立場の末端労働者が被曝します。それでも東電、日立、東芝、その正規労働者は安泰です。これこそ植民地的経営です。参考までに日立の原子力事業は、売上高では同社全体の2%に満たない割合だそうです。 カナダ生まれのジャーナリスト、ナオミ・クラインは、「ショック・ドクトリン」で、こうした多国籍企業を「惨事便乗型資本主義複合体」と批判しています。 日立のCMは、「Inspire the Next」「 技術の日立は、地球のために」と環境保護・人権を謳っていますが、世界中に放射能を拡散しています。 今年3月亡くなった、東大工学部出身、金井努元日立製作所会長は、日本原電取締役を経験しています。この「経営理念・原子力」の中で次のように語っています。 「戦争中にいた江田島は広島のすぐ南にあり、原子爆弾が投下されたときもきのこ雲がよく見えました。それから2週間ほどして、郷里の京都に帰るときに広島の街を通り、惨状を目の当たりにしたわけです。私は入社してから原子力の開発に従事したわけですが、そういう経験が、私の将来を決めることになった」 「1953年、私が入社した頃ですが、原子力の民間利用、平和利用が解禁され、その2年後に原子力の開発が始まりました。原子力が日本の脆弱なエネルギ-問題を解決してくれるのではないか、エネルギ-問題も将来は明るくなったと、当時私どもは喜んだものです。その後、日立の研究所で原子力の開発に携わり、工場勤務も経験しました。」 「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」と1997年1月、防衛大学校生を前に講演しています。 この「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」という言葉が、原発輸出に繋がっています。原発メ-カであるトップ、国民国家を支える日の丸を正面玄関に常時掲揚する経団連・経営陣の本音です。 40年前、本社糾弾闘争で日立製作所は、民族差別、植民地支配を謝罪しましたが、中西宏明現社長は、6月の株主総会で次のように述べています。 「原発に取り組んでいることを恥ずべきことだとは、片時も思ったことはない」 「原発事業は恥ずべきことではなく、むしろ誇ること」 「イギリス、リトアニア、ベトナム、インドなどで進めていきたい。GEとはワンチームだ」と語っています。 事故から2年以上経つのに、犠牲となった福島の住民への謝罪は一切ありませんでした。 広島の惨状を見た金井元社長は、当時広島に住んでいた人たち、強制連行した朝鮮人が被曝した事実、戦争、原爆の恐怖、戦争責任ついて全く触れていません。 この本(「日本における多文化共生とは何か」)で書きましたが、日立の労働者は、資本の論理に従い、黙って上司から課せられたノルマを遂行するだけです。「原発事故」について語ることはタブ-となって、誰もが口を閉ざします。個を失い、自由にものが言えないということです。 ColonyにDemocracyはありません。企業社会にも民主主義が存在しませんが、組合役員選挙が実施されます。組合活動に関心もない、所信表明もない、ものを言わない組合員が立候補しているというよりも、させられています。 職場と候補者名だけが掲示され、候補者は、経営者に原発事故の責任を問いません。つまり原発メ-カの労働者は沈黙を強いられているということです。 労使一体で労働者にものを言わせない日立製作所の閉鎖的な経営体質と原発事故は、労働者への差別・抑圧と深くつながっています。 私は日立製作所を代表して言うのではありませんが、申し訳ないですが事故の収束の目途はないと思います。これから何十年も世界中に放射能を撒き散らし続ける日立の経営者・組合幹部は、土地・財産を失い、犠牲を強要された家族、避難住民のことを考えないのか、と職場でPCに向かって黙って働いているエンジニアたちの姿を見ながら思います。 福島・茨城には日立とその関連企業がありますが、放射能の被害を受けやすい子供の健康を気遣って避難した労働者もいると思います。自らが被害者になって、ものが言えなくても「家族の生活を守る会社が大切」と割り切り、沈黙しているのでしょうか。 1910年に創業し、100年で培った日立の最先端テクノロジ-は、2011年3月11日で「崩壊した」と思います。 話が前後しますが、私が日立に入った後、「日立闘争の朴は、会社に埋没して管理職となり、立派に働いている」「闘争までして差別の壁を破ったのだから、大人しく黙って働いた方がいい」「会社・組合を批判したら、企業は朝鮮人を再び採用しなくなる」などの声を聞いています。 職場で疑問を感じ悩んだ私は、入社5年後、胃潰瘍で一ヶ月入院しました。企業社会で人間らしく生きるためには、「間違っていてもいいからおかしいことはおかしいと言う勇気と決断が大切だ」と開き直り、職場集会で発言し、一度も当選しませんでしたが、組合役員選挙にも出ました。 日立闘争を経て原発メ-カで働く、私にできることは何か。 「続日立闘争」でおかしいことはおかしいと言い続けた私は、日立製作所の会長・社長に抗議文・要望書を提出し、原発メ-カとしての社会・倫理的責任、被曝避難者への謝罪、原発事業からの撤退、輸出中止、廃炉技術・自然エネルギ-開発への予算化を求めました。 孤立する中で反原発、輸出に抗議することは、人間性を否定する組織、国民国家を批判あるいは否定する生き方ではないかと思います。 日立は、世界中に事業を展開しています。国民国家を支える国旗・日の丸を掲揚し、その下に「HITACHI」があります。主要都市に合弁工場、営業所、関連会社があります。米国にはGEとの原発合弁企業もあります。3万人近い正規所員がいます。関連会社は、千社を超え総従業員数は約35万人と言われています。家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。 労働者は、原発製造・輸出に疑問・おかしいと感じても、業務に追われ、自分の将来を考えて沈黙します。「技術が進歩すれば差別はなくなる」と根拠のないことを言うエンジニア・労働者もいますが、これが最新技術を開発するエンジニアの姿です。 日立就職差別裁判が起こったとき、労働者の権利を擁護する日立労組幹部はじめ多く労働者は見て見ぬふりをしました。何故、彼らは沈黙したのでしょうか。多くの犠牲者を出した原発事故に対する沈黙と通じています。 勝訴して実際日立の職場に入って感じたことは、「(民族)差別と全く関係ない」現実と乖離した異様な世界に入ったと思いました。 日立闘争が始まった頃と日立製作所の経営体質は変わっていないということです。 私は、日立闘争を経て生き方に悩みながら、定年まで日立製作所に勤めましたが、そこで解ったことの一つは、「労働者にものを言わせない労働環境、組合・平和・人権運動は、差別を助長し排外主義を強化する。他者及び外国籍住民を抑圧することは自らを抑圧する」ということです。西川長夫元立命館大学教授が書かれた、この「植民地主義の時代を生きて」を読んで、私は、労働者に沈黙させる経営こそ「企業内植民地」であると改めて認識しました。国策による原発輸出と資本のグロ-バル化は、「植民地を拡大」します。 私(たち)は、植民地なき国内植民地、企業内植民地で生きています。(民族)差別を糾弾し、日本の戦争責任を求めた日立闘争は、植民地主義との闘いでした。 民族団体は、「民族」を語り、韓国語、朝鮮の歴史も知らない日本人化した、「現実も知らない生意気なことを言う」当事者である私の「民族の内実」を問い、この裁判は同化に繋がるものとして日立闘争を無視しました。 日立闘争が起きた1970年代前半の韓国は、朴正煕軍事独裁政権下にあり、祖国統一、民主化闘争が民族を前提にする組織の政治課題でした。日本国内もその支援運動が中心でした。 本国における厳しい政治状況の中で、民主化闘争に日立闘争・在日の人権問題が取り上げられ、韓国マスコミも大きく取り上げました。韓国の日立製品不買運動は、欧米にまで拡大し、民族組織は日立闘争を無視できなくなりました。 1974年6月19日、横浜地裁で日立敗訴の判決が出されてから40年近くなりますが、判決直後、当時川崎・桜本に住んでいた私のアパ-トに、ビデオにありましたが、現在の在特会に通じる民族差別をむき出しにした、いくつもの葉書の投書がありました。 日立・東芝は、エンジニア・労働者を抑圧・解雇する手段として「追い出し部屋」が新たな問題となっています。企業社会は、矛盾、課題が多くあります。労働者は孤立し、厳しい状況に置かれています。 原発事故で見られるように不祥事が起きても経営者の責任よりも労働者一人ひとりの「自己責任」が問われるような雰囲気が漂っています。私も含めてエンジニアたちは、余計なことは考えず、与えられた仕事を黙ってこなすことが自分の使命であると思っています。これは植民地的価値観です。 ものが言えない正規労働者、雇用の調整弁として、低賃金で働く非正規・派遣・外国人の労働市場は、経団連・グロ-バル企業にとって「広大な植民地」と言えます。 事故の反省もなく平気で原発を輸出する日立の経営、抗議の声も出せない労働者、排外主義などの問題は全て根が深く繋がっています。韓日併合の1910年に始まった、労働者に沈黙を強いる日立の植民地的経営は、戦後、人間性・安全性よりも効率と利潤追求を優先させた原発体制を確立しました。原発輸出は、被曝者の証言にもありましたが、相手国の住民への差別・人権弾圧で非人間的な犠牲を強いることになります。原発体制が植民地主義に繋がっていることは明らかです。 企業社会は、何でも言える「言論の自由」が保障されていませんから、原発事故はじめ企業の不祥事・談合・偽装のような犯罪があっても、経営者を公に批判する労働者は殆どいません。経営哲学を気楽に批判できるような、開かれた風土、風通しの良い企業文化は企業社会に存在しません。 敗戦から70年近くなりますが、労働者が抑圧的な状況に置かれ、ものが言えない、上意下達の企業社会は、民主主義が育ちません。労使幹部が育てないようにしています。戦後の労働組合・反戦・平和運動から、何故戦争責任が問われなかったのか、一つの要因でもあります。日立製作所に限らず、企業・自治体・教育現場・マスコミなどどこの世界・組織も同じような状況ではないでしょうか。 差別、抑圧を隠蔽し、個を潰す上からの「共生」イデオロギ-は、企業社会だけでなく、地域社会にもあります。 川崎市は、多くの外国籍住民が居住しています。公務員になるための国籍条項撤廃、選挙権のない外国籍住民の声を市政に反映する名目で設置された外国人市民代表者会議、地域の住民と共に生きる「ふれあい館」建設など、「共生」を賛美する人にとって、「川崎は人権・共生」の街として知られるようになりました。 しかし、阿部孝夫現川崎市長は、「日本国民と、国籍を持たない外国人とでは、その権利義務において区別があるのはむしろ当然のこと」「会員と準会員とは違う」と、戦争に行かない「外国人は準会員」と発言し、未だに謝罪していません。 阿部市長は、戦争を起こすつもりでしょうか。「戦争に行く日本人」に再び犠牲を押し付けるのでしょうか。私は、護憲運動「九条の会」の人たちに、阿部川崎市長の問題を訴えましたが、彼らは無反応でした。 法律でもない、単なる国・政府の見解にすぎない「当然の法理」(国籍)を理由に、採用した外国籍公務員に許認可の職務、管理職への道を閉ざした、この「外国籍職員の任用に関する運用規程」というマニュアルを作り、日本に差別制度を確立しました。 100ペ-ジ以上亘って、外国籍職員に制限する理由と職務が記されています。これは労働基準法に違反し、明らかに労働者の権利を侵害しています。ところがこのマニュアルのサブタイトルは、「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっています。 外国籍の青年は、災害時に人命救助する消防士、正式教員にもなれません。 このような「運用規程」は作らなかったものの、被災した東北の自治体、米軍基地撤去を求める沖縄など全国の自治体は、この川崎方式を採用しています。皆さんが住んでいる自治体を調べてみてください。 このような自治体市長を選んだのは誰か、川崎市に「運用規程」で差別制度を作らせたのは誰か、この差別制度に沈黙しているのは誰か、と反原発運動と関わりながら、私はいつも疑問を感じています。 外国籍住民を2級市民扱いする差別制度に沈黙することは、当事者主権を失う植民地主義です。反原発、反核、反差別、反格差、「反植民地化は、個々人の生き方、自分がどう生きるか一生の問題」ですが、上から与えられた人間性を否定する価値観を打破して、開かれた地域・企業社会をつくるために、私あるいは「私たちは現在の植民地主義と闘わなければならない」と思います。ではいつ闘うのか。「今でしょ!」 私は、「日立闘争」の第3ステ-ジに入ったのかも知れません。 ご清聴ありがとうございます。 |
No.337 - 2013/08/08(Thu) 23:04:04
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