韓国在住の岡田さんの翻訳した、「光州の勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」李國彦事務局長から、日本市民の良心を讃える感動的な文章」をみなさんにご紹介します。
韓国においては従軍「慰安婦」と「勤労挺身隊」は混同されてきたのですが、後者は主に朝鮮の国民学校の女子を政策的に日本に連れて来て強制労働させ、賃金未払いのままなっている事件のことを意味します。
参考文献:「半島女子勤労挺身隊」について
http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p041_060.pdf
韓国の憲法裁判所は韓国政府のみっつの「不作為」は憲法違反という判決をだしています。従軍「慰安婦」・在韓被爆者・強制労働賃金不払いの問題です。従って韓国政府はこの件では日本政府に働きかけ問題解決する責務があるのですが、日本政府は日韓条約によってすべて解決という態度なのですが、1965年の日韓基本条約の請求権協定の第3条に「両国の間に解釈をめぐる紛争があるときは、まず外交上の経路を通じて解決を図る」と記されていることは日本国民には知らされておらず、日本のマスコミはこの点を伝えません。
参考文献:地域の変革と国際連帯の運動によって日本をよりよい社会へ
―(その1)福島事故は脱アジアを掲げ近代化を求めてきた結果―
http://www.oklos-che.com/2013/05/blog-post_15.html
崔勝久
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光州の「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」李國彦事務局長から、日本市民の良心を讃える感動的な文章が送られてきましたので翻訳しました。
安倍首相や橋下大阪市長の暴言が相次いでおり、在特会は川崎駅頭にまで出現し在日外国人に罵声をあびせましたが、こうした日韓市民の国際連帯こそが必要だと考えております。
この文章は、名古屋三菱訴訟について書かれていますが、同じ問題をかかえ同じように20年間継続して闘ってきた不二越裁判を支援する北陸連絡会についても、同様にすばらしいことだと思います。岡田 卓己@韓国・大邱
“真実の門を叩き続けて27年…”
「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」李國彦事務局長
国籍を越えた日本の良心... 勤労挺身隊闘争「27年一筋」
謝罪要求、360kmあきらめずに東京遠征金曜示威再開
韓日の関係において、日本は加害者、私たち韓国は被害者という位置関係だけで等式化することができるだろうか。「勤労挺身隊」と日本軍「慰安婦」問題とを、あたかも同じもののように混用して認識していた韓国社会において「朝鮮女子勤労挺身隊」という、覆い隠されていた歴史的実体が世の中の表に現れるまでには、少なくない歳月が費やされた。その主人公は他でもない、名前もなく闘ってきた日本人の、[日本の]また違った面を持つ良心的な市民たちだ。延々27年余りの歳月を費やして闘争してきた「名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」(以下、名古屋訴訟支援の会:共同代表
高橋 信(たかはし まこと))がこうした人々だ。
日帝強制占領期間、何と10万人という朝鮮人を強制動員した第一級の戦犯企業・三菱との勤労挺身隊交渉がついに決裂した中で、まさにこの過程(韓国での新しい動向)があるまで、出口さえ見えない歳月を耐えて闘ってきた日本の生きている良心たちに注目する人は多くない。
高橋信共同代表が勤労挺身隊問題に飛び込んだのは、去る1986年に遡る。高等学校歴史教師であった高橋代表は、太平洋戦争当時米軍の空襲被害を調査する過程で、幼い年齢で三菱に動員され強制労働の被害にあった朝鮮の幼い少女たちがいたという事実に注目した。わずか13才~15才のとても幼い年齢の時に、どうやって遠い地・名古屋まで連れてこられたのだろうか、そして、なぜそういう事実があまり知られなかったか、というということだった。
疑問に一層火をつけたのは、1944年12月7日に発生した東南海大地震の被害で、当時光州・全羅南道出身の6人の少女が圧死する被害を受けたにもかかわらず、三菱重工業がそれまでこの事実を隠していたことにあった。当時、地震によって亡くなった日本人と台湾人たちの死亡者名簿はしっかり記録しながらも、ただ朝鮮人の幼い少女たちが犠牲になったことは書き漏らしてきたためだ。
「教師の良心として、黙っていることができませんでした。私はそうは習わなかったし、同様に生徒たちにもそのように教えてきませんでした」。
高橋代表と手を組んだのは、同僚の教師であった小出裕(こいで ゆたか)事務局長だった。光州や全羅南道に特別な縁も全くなかった。うわさをたよりに捜したあげく出会った人は、当時「太平洋戦争犠牲者光州遺族会」を率いていたイ・クムジュ会長(94)。
イ会長を通じて、すでに初老に入り込んだ被害者の一人と会ったが、「慰安婦」という誤解の中で世の中と断絶した被害者たちの心を開くにはまだ時間が必要だった。命拾いをして解放後祖国に帰ってきたが、韓国社会で彼女たちはすでに「慰安婦」という烙印を押されていたのだ。さらに、このことによって婚約破棄の苦痛まで体験しなければならなかった彼女たちだが、自らが被害者という事実さえも隠さなければならないほど社会の視線は冷たかった。おそらく生存のためにも、過去のことを隠さなければならなかった。
被害者ハルモニが勇気を出したのは、それから約10年後だ。イ・クムジュ会長と手を握って1999年3月1日、原告7人が日本政府と三菱重工業を相手に損害賠償請求訴訟を提起したのだ。格別の特徴があるとすれば、彼女たち原告皆が例外なしに光州・全羅南道出身者であったことだ。
生計さえ難しい被害者たちには、日本まで渡って裁判をする経済的余力など皆無だった。45人の日本弁護士らは、共同弁護団(「名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟弁護団」)を組織して、お金を一銭も取らず無料で裁判を支援し、「名古屋訴訟支援の会」は、原告たちが日本を訪問する度に滞在費はおろか航空費までをすべて支援してきた。
しかし、日本国内の社会的認識を変える事は、より一層難しいことだった。彼/彼女らは、この事件に対する日本市民の認識を改善するため、数回の講演会を催したり、被害者証言集会を準備するとともに、時には音楽演奏会や演劇公演などを直接開いて共感を広めていった。韓国内でもこういう活動を持続するのが容易ではない冷たい現実を勘案する時、日本というきびしい環境で彼女/彼らがこの問題のために注いだ努力と執念がどの程度だったかは想像するに難くない。
こういう努力は無駄にならず、ひとりひとり志を同じくする人々が集まり始め、会員だけで約1,100人に達することになった。彼/彼女らは、コーヒー1杯、水1杯の金も惜しくて飲めない境遇ながら裁判のために[日本と韓国を]行き来する被害者たちの訴訟を助けるためには、3千円の年会費の他にも各種行事ごとにまたポケットをはたいてお金を出すことを繰り返さなければならなかった。
日本国内での市民の努力とは異なり、韓国では[彼女たちにとって]孤独な裁判の連続だった。個人的名誉回復を越え民族的尊厳を回復するための法廷闘争だったが、この訴訟に関心を傾ける人は多くなかった。
「町内の人には、『何日かソウルの娘のところに行ってくる』と言い、逆に子どもたちには『町内の人々と江原道(カンウォンド)へ何日か紅葉狩りに行ってくる』と話しました。とても子どもたちに、私が日本に裁判に行くと話せなかったから…」。
老体に鞭打って10年余りの歳月の間、玄海灘を行き来したが、結果は度重なる敗訴であった。1965年の韓日協定を理由に、2005年の一審に続き2007年5月の控訴審まで繰り返し棄却されてしまった。「名古屋訴訟支援の会」が苦心の末にかつてない決断を下したのはこの頃だ。前例がない「東京遠征金曜行動(金曜示威)」がそれだ。東京遠征示威が始まったのは、控訴審裁判で敗訴して事件が最高裁判所に上告された直後の2007年7月からだ。名古屋から東京までは約360km。光州-ソウル間の距離(約297km)よりも遠い。名古屋訴訟支援の会が金曜日を選んだのは、三菱重工業系列会社社長団会議が毎週金曜日に開催されるためだ。彼女/彼らは金曜日に合わせて三菱重工業の謝罪と自発的解決を強調して、毎週東京三菱重工業本社の前で金曜示威を展開したのだ。
「希望の紐でも放さない」という心情だったが、司法府は再び彼/彼女たちを無視した。2008年11月11日、最高裁判所はやはり原告側の主張を退けた。延々10年(1999.3~2008.11月)に渉る法廷闘争はこのようにして終わった。
最高裁判所判決さえ、ついに敗訴で終わった状況で、できる方法を探そうと思っても方法がない切迫した状況だった。たとえここで闘争に終止符を打ったとしても面目が立ち、誰一人として恨む立場にはなかった。しかし、彼女/彼らは東京へ向けた孤独な足を決しておさめなかった。それは、最高裁判所判決にもかかわらず「金曜行動」の強行だった。
「最高裁判所の判決は、決して強制連行と強制労働を強要した三菱に道義的責任まで免責したのではない。三菱は今でも道義的責任を負わなければならない」。
名古屋から東京まで往復700kmを越える距離。新幹線料金だけで、1人当り30万ウォンに近い莫大な出血を耐えられなければならなかった。出口もなく、細い、一寸先の光さえも見えない20年余りの歳月。虚しいことは、ただこれだけではなかった。
「お前ら、韓国人か。日本人か。韓国が良ければ韓国にでも行って住め」。時には冷たいあしらいの中に嘲弄さえ混ざった非難まで甘受しなくてはいけない時間だった。
この頃、光州では新しい気運が芽生えていた。勤労挺身隊被害者ハルモニたちの不憫な事情が知らされ、特に被害者ハルモニたちの闘争を日本の良心ある人々が後押ししてきたという事実に「恥」を感じた何人かの市民を中心に、「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」が結成されたのだ。2009年3月だった。
断言すれば、すでに日本の最高裁判所判決さえ出され終わってしまった状況であり、誰が見てもこれは「してはならない」闘いだった。しかし市民の会の結成は、全く新しい状況を作り出した。
おりしも2009年、三菱自動車が光州に販売戦市場の門を開いたことが、反三菱闘争に導火線を提供する結果となった。三菱自動車光州展示場撤収1人示威闘争に続き、2009年12月、勤労挺身隊被害者ハルモニに支給された「厚生年金脱退手当て99円事件」に対する国民的怒りとして火が燃え広がりながら、三菱との闘争は全く新しい局面に入り込んだ。
「市民の会」を中心とした20人余りの日本抗議訪問団は、13万5千人余りに達する糾弾署名用紙を前面に打ち出し、東京の品川駅で三菱重工業本社まで「三歩一拜」示威を行い、三菱の決断を促したのだ。
日本では3年目に入った東京遠征金曜示威、韓国では裁判後にむしろ火がつき始めた強い反発。国内外から押し寄せてくる圧迫の中で出口を打診した三菱重工業は結局2010年7月14日、最後まで出し惜しみをした「交渉カード」を取り出さないわけにはいかなかった。東京遠征金曜示威満3年、高橋代表と小出事務局長が勤労挺身隊問題に飛び込んで延々24年目に達した時だった。
惜しくも、三菱との交渉は国民的期待にもかかわらず、2年の間16回の交渉の末、最終決裂(2012.7.6)となってしまった。言うまでもなく、三菱側の傲慢と不誠実のためだった。この間の歳月に比べれば、あまりにもしがない結果であった。交渉決裂にともなう余波もなくはなかった。延々27年に渉った反響のない闘争に、落ち込んだ一部会員たちの場合、足が一層遠のいてしまったためだ。
交渉まで決裂し、もうこれ以上選択の余地が残っていない状況でも、しかし彼/彼女らはまた、闘争の手綱をまた握りしめることにした。第2次金曜行動の決行である。2012年8月10日、再開した東京遠征金曜示威は年を越し、この5月10日で38回目を迎えた。しかし、これらの孤軍奮闘にもかかわらず、安倍総理就任以後、そうでなくても激しい日本の保守化傾向の中で、彼女/彼らの声はまだ波紋が広がっていないことも冷厳な現実である。
その間、韓国では新しい変化も始まった。2012年5月24日、大法院(日本の最高裁に相当)が、控訴審(日本の高等裁判所)の判決を覆して三菱重工業広島造船所に連行された強制徴用被害者らに対して、日本企業は賠償せよとの判決を下し、事件を控訴審裁判所に送り返したこと(現在、控訴審裁判所で係争中)である。韓国の司法府を通じて日帝戦犯企業らを相手にした新しい賠償の可能性が用意されたのだ。
これに力づけられ、2012年10月24日三菱へ動員された勤労挺身隊被害者ハルモニたちと遺族5人が三菱重工業を被告として光州地方法院(地方裁判所に相当)に訴訟を提起し、ついに来る5月24日午前10時、初公判の審理を控えている。大法院判決以後、国内で最初に提起されたこの訴訟は、今後韓日間の過去問題[解決]の重要な道しるべになる展望だ。この訴訟に対する歴史的重さを勘案し、日本の市民団体会員15人が来る23日~25日、2泊3日の日程で裁判を傍聴するため光州を訪問する予定である。
結果的に、山河がほぼ3回変わった27年歳月の闘争を通じて(韓国には「10年たてば山河も変わる」ということわざがある)、[韓国市民と日本市民が]しっかりと手を握った、それ以外にはどんなこともない。しかしその結果が今日、どんなことであっても20年を越える歳月を駆け抜けた名古屋市民たちの汗の価値まで、すべて水泡と消えることになるのかは、自問してみることだ。
馬鹿のように右往左往せずに真実だけを追って駆け抜けた彼/彼女らの足取りが今日、交渉決裂にもかかわらず、まだ清算できていない韓日間の過去問題に新しい闘争の火を光州からつけることができた動力になったと言うのは、言い過ぎだろうか。
併せて、韓国と日本の良心的市民たちが「過去」を飛び越え、国籍を超越して、人権、平和、反戦の新しい世の中に向かって共に手を取り合って闘争することが、まさしく今日の私たちに課せられた80年5月光州(5.18光州民衆抗争を指す)の精神ではないだろうか。
The historical evidence shall not perish from the earth. Nobody can modify the historical evidence nor neglect that without solid ground.
返信削除にほん帝国は合法的に朝鮮半島を同祖の国として依頼を受けて併合したという”イデオロギー”が蔓延していて、現トップが支持率が低くならないと... 三菱はもうかる武器関連の商品をどんどん手がけています。理由は半島の人民民主主義共和国の核と、弾道弾問題
返信削除その三菱重工はフランスのアレバと組んで、原発を輸出しようとしています。
削除http://www.sankeibiz.jp/business/news/130405/bsc1304050501000-n1.htm
日立・東芝の同様です。日本と韓国は西側の原発製造拠点にされています。5大核保有国は原発を自ら作らなくても核兵器を持ち続けることができるのに対し、日本や韓国は「潜在的核保有国」であり続けるためには、原発を製造し輸出しなければならないからです。
さらに、フクシマ事故でさえ、原発製造メーカーは賠償責任を免責されています。原子力損害賠償法があるからです。さらに、原発を輸出する国にたいしては「免責条項」を含む協定を結ばさせます。こんなことが許されるのでしょうか。原発メーカーの責任も追及しましょう。
岡田 卓己@韓国・大邱