2013年3月22日金曜日

植民地主義に抗する国際連帯を地域から(上) ――アジアと連帯して原発体制を問う――

崔 勝久(チェ・スング)
NNAA-J事務局長、原発体制を問うキリスト者ネットワーク(CNFE)共同代表)

はじめに
3・11の大震災に出会い、多くの人は地震と津波と原発事故を目撃して言葉を失うほどのショックを受けたはずです。正直に告白しなければならないのですが、私は3・11の原発事故を目撃するまでは、原発は問題だという意識がありながらもどこか他人事(ひとごと)のように思っているところがありました。地震と津波は自然災害ですが、その災害の背景には都会が地方を搾取してきた、植民地主義的な社会構造が大きな影を落としていることを見逃すことはできません。植民地主義の問題を露わにした東日本震災を「在日」としてどのように捉えるのか、原発問題を中心に考えていきます。

3・11で可視化されてきた戦後の日本の植民地主義の実態を目のあたりにして、在日として自分の住む地域から反原発を唱え、そして国際連帯によって全アジア、そして全世界の市民・民衆と共に植民地主義に抗する運動をしなければならないと思うようになった経緯と、これからの具体的な運動のプランについて記したいと思います。

私の前史
 私は日本の敗戦の年に生まれた在日二世です。大阪で育ち、自分の民族の歴史を知ることなく、高校まで日本名で学校に通いました。大学に入り寮生活をはじめたときのことです、私は同部屋の先輩と朝鮮の独立の話をしていたときに先輩の言う、「万歳事件」という単語をそのときまでまったく知らなかったのです。読んだことも聞いたこともありませんでした。

私は自分の朝鮮人であることをどのように受けとめ、そして在日朝鮮人としてどのように生きて行けばいいのか悩み続けました。大学は東京に行くようになり、友人の紹介で川崎にある在日韓国教会に通いそこでは本名で呼ばれ、民族的な雰囲気の中で私は在日としての生き方を求めるようになりました。そして出会ったのが「日立闘争」[1]です。私は韓国留学をして、自分の悩みが日本の植民地支配と、その後も続く日本社会の差別から起因する、社会の歪みを反映したものであり、戦後の韓国も在日も、その植民地支配の傷を払拭しきれない状況にあると認識するようになりました。そして本名で生きること、差別と闘うことに全力をつくし、自分の足元の地域から社会を変えていく具体的な活動をはじめようと考えるようになりました[2]

「民族運動としての地域活動」は、地域での「民族差別と闘う砦づくり」をめざすようになり、国籍条項の問題を取り上げ行政に働きかける運動として一定の成果をあげ、「川崎方式」として全国的な拡がりを持ち始めました。その後、私たちは地域活動の場を離れるようになったのですが、市民運動体は行政との関係を深め、行政も運動体も共に「多文化共生」を掲げるようになっていきました。

日本の政令都市で最も進んだ外国人施策を実行しているとされる川崎市の阿部市長は、今年で3期を終えようとしているのですが、1期目の当選にあたり、いざというときに戦争に行かない外国人は「準会員」であり、会員と「準会員」との間で差別があっても当然と公言し、「共生」を重視するということで批判をかわしながら、実際には、公務員になった外国人の課長職以上の昇進を認めず、市民に命令をする仕事に就けさせない差別制度を作りました。 
     
全国の自治体はその新しい「川崎方式」を実質的に踏襲するようになりました。その「川崎方式」は外国人の「門戸の開放」の為に市民運動と組合と行政が一緒になって作り上げた制度です。それは国際化を求められる日本の政府が、ぎりぎり体面を保ちながら差別を温存する方策であったと思います[3]

私は誰もが唱える「多文化共生」に疑問を抱き、その言質は多様性と文化を強調し社会の問題を解決するような印象を与えますが、実は、外国人の直面する人権問題や社会・政治における疎外状況を直視せず、むしろ隠蔽するものではないか、それは外国人を労働力として活用することを目論み、「多文化共生」ということで日本のナショナリズムを逆に肯定する、現代の植民地主義イデオロギーであると考えるようになりました。

私は阿部市長を公然と批判をするようになり、3期目の選挙では彼を当選させない運動を展開しました。敗れはしましたが、阿部市長へ反対票は賛成票よりはるかに多かったのです。それは必然的に、「国籍や民族を超え、協働して地域社会を変革」することを求めることでした。そのような運動をする中で出会ったのが3・11の大震災だったのです。

3・11大震災との出会い
3・11大震災とは地震、津波、原発事故の複合的な大災害です。私はこの大災害に出会った人間は、まさに民族や国籍に関わりなく誰でも死ぬということを強く意識しました。

在日もまた自分自身と家族の生命を守る為に大災害に出会っても生きて行けるように自分の住む地方自治体に対してしっかりとものを言い、働きかけていかなければならないと自覚しました。すなわち、当事者として日本の原発体制の問題に関わるということです。それは地域住民として住民主権を求めるものであり、地域そのものの在り方を根底から探るということです[4]

原発の安全神話を信じ、技術を過大評価し、経済成長を求めたのは日本人だけでなく、差別の中にあるとは言え、私たち在日も同じです。原発体制とは貧しい地方と被曝を前提にした労働者への差別によって成り立つものであり、それは「原子力の平和利用」という美名の下で、アメリカの核戦力による世界支配戦略の一環として作られたものであること、そしてそれこそまさに戦後の植民地主義であると考えるようになりました[5]

私はツィターを活用しながら、「国籍や民族を超え、協働して社会を変えよう」と情報発信をしはじめました。そうすると「クソ朝鮮人、日本から出て行け!」という反論が来るようになり、私は3度、グーグルのメールもブログも使えない状態にされました。あたかも私たち在日を異物のように感じる人たちの力は無視できないくらいに大きくなっています。彼らはどのようなやり方をしたのかわかりませんが、なんらかの形で大々的にグーグルのシステムにアプローチして、私に情報発信できないようにさせたのです。

私は韓国も日本と同じく原発を輸出しようとしていること、今でさえ世界で最高の原発の密度の濃い国でありながら、李明博前大統領は2030年までに今の倍の原発を造ること、世界の新規の原発の20%を受注するという馬鹿げた政策を発表したことを知りました。戦前は日本の植民地支配の下で被害者の立場であった韓国が、先進国の仲間入りを目指す大国になり、逆に世界に原発を輸出して相手国の民衆を苦しめる、植民地主義による加害者の立場に立つようになったのです[6]

「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」(CNFE)の船出
そのような韓国に対して昨年から国政選挙(総選挙、大統領選挙)に参加することになった在日として何ができるのかを考えました。私は、韓国のクリスチャンの学生たちが独裁政権に対する闘いを宣言し民主化を求めた「愛国闘争宣言」の中で「日立闘争」支持を宣言したこと、また韓国教会が民主化闘争の中で日本の教会の支援を受けたことを知っていたので、日本のキリスト者と一緒になって日本での脱原発の組織を作り、そのうえで韓国にも問題を投げかけ反原発の共闘を目指すべきではないかと考えるようになりました。
それが「原発体制を問うキリストネットワーク」(CNFE)です。思いもかけず、CNFEは社会的な意識の強いキリスト者が教派を超えて集まり、短期間で100名を越えるようになりました。2011年秋のことです。

日本キリスト教協議会(NCC)の中で被災地への支援をするための組織が作られ世界中の教会から支援金が集まるようになりました。しかし被災地への援助だけでなく、日本のキリスト者として海外に原発の問題を情報発信しなければならないと危機意識を募らせた関係者から私に打診があり、アジアを中心に国際連帯の運動を作ることに関わってほしいと依頼されました。そのときCNFEは代表者も規約もなかったのですが、CNFEの代表という形でNCCと契約することに合意しました。そのとき私が注目したのはモンゴルでした。

モンゴルのウラン開発から輸出、使用済み核燃料の輸入・埋蔵を一貫して取り扱うCFS(包括的燃料供給)構想が日米モンゴル間で(それに韓国が契約したUAEも参加して)話し合われていることが毎日新聞のスクープで明らかになり(201159日朝刊)、関係国政府は躍起になって否定しました。さらにモンゴルの大統領は国連の場で海外から使用済み核燃料を引き受けることはないと大見得を切りました。日本の多くの人はそれで問題は解決したと思ったようですが、いぶかしく思った私はまずソウル経由でモンゴルに行くことをNCC関係者に告げ、その費用負担を求めました。そしてまずソウルに行き教会関係者と会い、その足でウランバートルに飛びました。その一連の動きの中から私はアジアの国々との国際連帯の可能性を強く信じるようになります。

モンゴルでの出会い、現地での記者会見
ネット上で、モンゴルの人たちが原発についてどのように思っているのかを投稿された、国立民族学博物館のモンゴル研究家の小長谷有紀さんに連絡をして大阪でお会いし[7]、先の毎日新聞のスクープの件や、これまでモンゴルでどのようなボランティア活動をしてきたのかモンゴルについての熱い思いをお聞きし、彼女から「緑の党」の元党首のセレンゲさんの紹介を受けました。彼女との話から私の予想通り、CFS構想は消えたのではないという確信を得たのですが、この点を現地で確認しなければならないと思いました。

ウランバートルに着いてからは、たった一人アポをとれたセレンゲさんから多くの人の紹介を受けるようになり、7つのテレビ局を前にした記者会見までもつようになりました。また政党とは距離を置きながらもフェイスブックを介して反ウラン採掘、反原発を唱える数万人のグループの若いリーダーたちとも会い、実際にウラン採掘現場で働いたという青年からウラン採掘現場の実情を聞きました。

モンゴルの多くの人たちは日本で原発事故があったものの原発はモンゴルにとって必要なものだと思い込まされており、その恐ろしさを知らず、毎日新聞のスクープで逆に核廃棄物をモンゴルに埋める計画を知ったようでした。彼らは日本からの正確な情報が入ることを願っていましたし、またモンゴルの実情を世界中に訴えたいと考えているようでした。

私が知りたかったCFS構想については最後まで確かな証拠を見いだすことはできませんでした。しかしわかったことは、モンゴルの人たちはこれまでの歴史の中で政治家への強い不信を持ち、国連で大統領が約束してもそれはいつどのように変わるかわからないと思っているということでした。

モンゴルのウラン埋蔵量は世界の15%で、世界の列強が競うようにその開発・発掘権利を買い漁り、1600を超す地域で既に発掘がはじまっています。昨年政権交代で与党になった民主党にしても、ウランの採掘そのものには反対でなく、ウランの採掘権の売買にあたって多額のアンダーテーブルのお金が「緑の党」以外の政党と政治家に流れたと国民は見抜いていました。若い人の政党離れ、国民の政治家不信の根は深いと思いました。
モンゴル政府はその豊富な地下資源に更に付加価値を付け、ウランを輸出した国から使用済み核燃料を輸入してそれを広大な大地に埋めて外貨を獲得することを断念してはいないのです。モンゴル政府が約束したのは、ウランを輸出していない国からの廃棄物の受け入れであって、輸出した国から廃棄物を入れることは当然のこととしていました。

私たちはまず何ができるのか話し合い、原発に対する日本側の資料や映像を現地に伝え、ウラン採掘現場の国際調査チームを作ることを将来的な目標にすることを決めました。そして2011年11月11日に日韓モンゴルの共同記者会見をネットで中継し合うことになりました。「緑の党」としても全面的に協力するということを記者会見の席上で話していました。これらの予定もしていなかったことが次から次への実現されていくのを目のあたりにして、私は全ては備えられているということを実感せずに入られませんでした。

再びソウルへー日韓モンゴル3ヶ国共同記者会見の実現
ウランバートルから戻ったソウルでは、市長選で民主化闘争に深く関わってきた朴元淳(パク・ウォンジュン)市長が誕生し、環境運動や脱原発運動を唱えてきた人たちは希望を口にするようになっていました。教会関係者の中では、40年前、「日立闘争」を支援してくれた、韓国の「民衆神学」を提唱した神学者の金容福(キム・ヨンボㇰ)先生が今も御健在で、改めて反核(反原発)運動を一緒にやれることを喜びあいました。2013年の釜山で開かれる世界キリスト教協議会(WCC)の開催に向けてしっかりと準備をしあうことを約束しました。私たちはこのWCC世界会議に向けて国際連帯の具体的な運動を提案することにしました。

日韓市民の連帯を唱え地域活動に力を入れる新しいリーダーの李大洙(イ・デス)さんとの出会いは驚きでした。Think and Act, Locally and Globally という私と同じ思いをスロ‐ガンとして唱えており、これから長い、深い付き合いが始まることを予感しました[8]。韓国キリスト教協議会(KNCC)やYMCAYWCAら30団体以上が参加している「核のない世界のための韓国キリスト者連帯」[9]、アジア最大の環境団体である「環境運動連合」、「エネルギー正義行動」、「緑の党」(現、「緑の党プラス」)、「韓国の脱核エネルギー教授の会」等など脱原発を求める多くの団体のリーダーに出会い、これからの活動に希望をもちました。

そしてモンゴルで話し合ってきたように韓国側も、11・11・11の共同記者会見に参加することを決定しました。韓国NCCの総幹事の名前でメッセージを送ることも約束してくれました。

11・11・11日韓モンゴル共同記者会見以降の動き
帰国した私は早速CNFEの仲間と11月11日11時から始める日韓モンゴルの共同記者会見の準備に取り掛かりました。私の一回目の国際連帯を求める海外への訪問でこのようなことが実現されるとは誰も信じていなかったようでしたが、ぶっつけ本番でモンゴル、韓国の様子がネットで記者会見会場に流され、こちらの様子も向こうに流されました。三か国の共同宣言文を読み上げたのですが、それはこれから国際連帯によって反原発(核)の運動を拡げていくという私たちの思いと覚悟を表明したものです。私たちは国際連帯の運動を全アジアに拡げていくことが実際になされるという強い思いをもつようになりました[10]

その記者会見を終えてまもなく、CNFEのメンバーからの提案があり、2012年の横浜での「脱原発世界会議」に参加することが決定され、ふたつの具体的なシンポジュームの提案書をだしました。主催者側は私たちの提案を喜んで受け入れ、モンゴルからセレンゲさんをメインゲストの一人として招待してくれました。

私たちの提案したシンポジュームは、ひとつは「国内原発立地地区の市民運動がかかえる困難さと今後の課題」で、玄海・浜岡原発、六ヶ所村に長年関わって来られた方々をお招きしました。私たちは地方の原発立地地域の持つ問題の深刻さを学びました。もうひとつは、「アジアの原発廃絶にむけて」ということで韓国から2名の運動のリーダー、それに日本の教会の牧師としてもっとも精力的に活動されている内藤新吾さんをお招きして、お互いの置かれている状況や立場をお話しいただきました。このときの出会いで、日韓モンゴルの「緑の党」の共同宣言文が後日出されることになりました。

この日の会議で忘れられないことは、私たちのブースの前のちょっとした空間で多くの人が車座になって李大洙さんの話しを聞き、またわざわざ大阪から駆け付けてくださった在韓被爆者の問題を40年以上にわたって続けていらっしゃる、「韓国の原発被害者を支援する市民の会」事務局の市場淳子さんのお話を伺ったことでした[11]。そのときの感動を忘れることはできません。戦後の原発体制の問題は、戦前の植民地主義の清算ができていないこととつながっている、それらをひとつの問題として捉えなければならないということがよくわかりました[12]

シンポジュームで原発立地地域の問題の深刻さを知った私たちは、6月8日の函館での大間裁判に合わせて、下北半島地域スタディ・ツアーを計画しました。韓国から今後の反核運動の中心を担う人たち、スイスからは世界キリスト教協議会(WCC)の核問題の責任者、そして九州や関西、関東の人も大型バスで下北半島に向かいました。亡くなられたお母さんの意思を継ぎ、断固立ち退きに応ぜず今に至る、あさこはうすを訪問したとき、周りに大間原発の大型クレーンがそびえる中、パレスチナの壁のように作られたフェンスの先にある小笠原厚子さんの自宅の庭でお話を伺い、二本、桜を植林して持参した参加者のネームプレートの下で祈りをしたときの感動もまた忘れることはできません。参加者は全員、自分たちも自分の生きる場で反原発の闘いを押し進めることを誓ったことでしょう。

函館では参加者代表が市庁を訪問し、夜は弁護団の河合弘之弁護士を交えた食事をしたのですが、その場に小笠原厚子さんのお嬢さんも参加され、小笠原厚子さんの母あさこさんから親子3代にわたって大間原発の足元で闘い続けることを誓っておられました。翌日は函館で集会をして各地の報告、WCC責任者のジョナサンのスピーチ、その後の市内でのデモ行進と、下北半島地域スタディ・ツアーは成功裏に終わりました[13]。原発体制とは地域を搾取する植民地主義の構造をもつということを私たちはしっかりと認識しました。

(「部落解放」2013676号4 掲載、解放出版社:出版物では一部修正されています)





 脚注:
1970年、日立製作所の入社試験において氏名の欄に通名を記し、本籍地に現住所を記した在日朝鮮人2世の朴鐘碩青年(当時19歳)が、「嘘をついた」という理由で採用を取り消された。日立就職差別裁判とは、そのことを不服として日立を相手に提訴し、4年にわたる法廷内外での運動で勝利した闘い。日立入社後は企業の沈黙を強いる閉ざされた体質を批判し、定年退職後の今は非正規社員として日立の原発輸出を批判する声をあげている。
日立製作所会長と社長へ抗議文ー「日立闘争」元原告 朴鐘碩
http://www.oklos-che.com/2012/06/blog-post_1634.html
崔勝久・加藤千香子共著編『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社 2008
3「人権・共生」の街 川崎市の「当然の法理」―朴 鐘碩
http://www.oklos-che.com/2009/06/blog-post_10.html
 国際連帯と地域の民主化は同じ根ー川崎の実例は全国の先駆け
http://www.oklos-che.com/2012/08/blog-post_21.html
 武藤一羊『潜在的核保有と戦後日本』(社会評論社 2012
「3・11」を踏まえて韓国の民主化闘争とは何であったのかを考える ー反原発運動の国際連帯を求めて
http://www.oklos-che.com/2012/06/blog-post.html
モンゴルはどのようになっているのかー小長谷さんのおはなし
http://www.oklos-che.com/2011/09/blog-post_10.html
 韓国の核発電と市民運動ー李大洙(イ・デス)
韓国の「核からの独立宣言文―核のない世界は、キリスト者の使命です!」
10  NNAAのHP:http://ermite.just-size.net/nnaa/mongol.html
11 在韓被爆者2世の証言
http://www.oklos-che.com/2012/02/1945747410102002700-hanjeongsun111walk9.html
12「3・11時代」公開シンポジュームに参加してー植民地主義の見直しを
http://www.oklos-che.com/2011/12/blog-post_5520.html
13 下北半島スタディー・ツアー、函館集会は大成功でした!
http://www.oklos-che.com/2012/06/blog-post_11.html






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