民主主義教育を護るとしてきた側が、本当に、「子どもと対話をしてきたのか」、「生徒たち自身が、過去と現在の回路を見出しながらそれぞれの未来を構想することにつながる」歴史教育をしてきたのかという問題提起です。
これはどのように子供に教えるのかということよりも、歴史を学ぶ者すべてが、自分自身の歴史観、現代社会における生き方が問われる問題だと思います。 崔 勝久
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歴研特集「新自由主義時代の歴史教育と歴史意識」(2012.11月号)
「歴史教科書問題」の現在―横浜で考える
加藤千香子
Ⅰ 横浜市の「教科書問題」
私が在勤する横浜市で「教科書問題」が起ったのは、二〇〇九年八月の横浜市教育委員会で「新しい歴史教科書をつくる会」(「つくる会」と略)による自由社版『新編 新しい歴史教科書』が採択されたことにはじまる。採択された同教科書は、二〇一〇年度から市内八採択地区(全一八地区中)野公立中学校で使用が開始されることとなった。横浜市での「つくる会」教科書採択は、地元の教員や歴史研究者にとって、まさに寝耳に水であったといってよい。
この事態にすぐに動いたのは、横浜市内で以前から教科書問題に取り組んでいた市民運動グループであった。直ちにネットワーク組織として横浜教科書採択連絡会(「連絡会」と略)が立ち上げられ、連絡会は「つくる会」教科書阻止の運動の中核となっていく。地元の教員や歴史研究者は、連絡会からの働きかけを受けながら対応策を講じはじめた。一〇月には「横浜教科書研究会」を発足させ、自由社版教科書を使用する教員のための“処方箋”作りを開始した。これは二〇一一年までに、『自由社版「新編 新しい歴史教科書」でどう教えるか?』(全三巻)に結実している 。また、市内教職員の7~8割を組織する横浜市教職員組合(「浜教組」と略)も対策として、「教員の戸惑いを払拭し、子どもたちの学びを保障する」ことを目的に独自に『中学校歴史教育資料集』の作成を進めた。
こうして、
しかし、照準があわされた二〇一一年八月の教科書採択において、「つくる会」系の育鵬社版『新しい日本の歴史』の採択が決定された。しかも、この時には採択地区が全市一地区となったため対象は横浜市全体に広がり、そのうえ新たに、藤沢市および神奈川県立中高一貫校でも育鵬社版の採択が決定されている。全国的にも「つくる会」系教科書の採択率は、「一%の壁」を超えたと自由社が評価した二〇〇九年度から四%近くに増えているのである。
いま私は、これまで対抗運動にかかわってきた者として、この事態をどう受けとめ、いったい何を見据えなければならないか、あらためて検討する必要を痛感している。
Ⅱ 教育の独立性の揺らぎ
「つくる会」系教科書採択の背景についてはすでに拙稿 でも論じたが、二〇〇六年の教育基本法改定がターニングポイントであったと考える。教育基本法改定をめぐる論議では、「教育の目標」への「公共の精神」や「我が国と郷土を愛する」といった文言の挿入が争点となったが、教育行政に関しても重大な変更があった。旧法の「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」が、新法では「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」と変わり、教育が法との関連で位置づけられることとなったのである。教育の政治からの独立―政治的中立の原則を揺るがす変更にほかならない。
〇九年以降の横浜市での教科書採択の審議過程をみると、「つくる会」支持を公言する市教委の今田忠彦委員長の主導のもとで、「教育委員会の権限と責任」と「教育基本法及び学習指導要領改正の趣旨に照らして」と言う二点が繰り返し確認され、採択の判断基準とされていたことが明らかである。さらに、自由社版採択後に、神奈川県教科書採択方針の改定も行われた。その際、方針の「観点」から削除されたのは「正確性」であり、代わって挿入されたのが、教育基本法や学校教育法の教育目標や学習指導要領の内容や目標を踏まえているかという条項であった。法や法に準ずる学習指導要領の遵守が、前景化されたのである。そのなかで、新教育基本法や新学習指導要領を最も適切に反映しているとうたう自由社版・育鵬社版採択への流れが作られていったといえる。
また、一〇年には、浜教組が作成・配布した『中学校歴史教育資料集』が大きな問題となった。横浜市会でこの冊子を問題視する質問が出たことを受け、市教委は学校長宛に「文部科学大臣の検定を経て横浜市教育委員会が採択した教科書を必ず使用しなければなりません」とし、「教員の管理監督及び教育課程の管理運営」を求める通知を発した 。今田市教委委員長は、浜教組の行為を「教育行政法律主義の原則にももとる」と断じていた 。こうした動きは教育に対する政治の介入にほかならないが、「教育行政法律主義の原則」の論理によってそれが進められる状況は、教育基本法改定後の事態といえよう。
ちなみに、このように教育の政治的中立の原則に異を唱え、政治が教育行政における役割を果たすことを明文化したものが大阪府教育行政基本条例である。横浜市では条例化こそされてはいないが、同様の動きが進行しているとみられる。
だがここで確認しなければならないのは、法律遵守を前景化させつつ教育への政治介入を進める動きが、「聖域」―教員の好き勝手が許された―とされてきた教員組織や学校教育を「民」すなわち保護者や地域住民に取戻す、という「改革」の論理によって裏打ちされているということである。この論理が、学校教育や教員に対する保護者や住民の不信感に訴えかける面は無視できない。「つくる会」系教科書採択が、新教育基本法の下で法律遵守を掲げ、学校教育に対する人々の不信感をバックグラウンドにしながら進行している面に留意する必要があろう。
そのように見ると、検定に合格し採択されてしまった教科書の歴史観を問題とし、学校現場の「戦後民主主義教育」を「守る」ことを訴える対抗運動は、はたしてどこまで説得力をもつのだろうか、考え込まざるをえない。
Ⅲ 若者世代の教育観
次に対抗運動の側に目を向けたい。横浜では、前述のように運動は決して不活発ではなかった。主に連絡会が中心となった集会は定期的に開かれ、毎回数百人規模の参加がある。ただし、運動の参加者層には偏りがある。その大半は現職を退いた六〇~七〇代の教員や市民で、市民運動の活動歴も長い方が多い。逆に言えば、会場で一〇~二〇代の世代の姿を見ることはまずない。運動を進める方々からは、運動の継承性という点で若者が参加しないことへの懸念はしばしば聞かれる。だが、運動の固定化や広がりについての限界に目を向ける際、その理由を無気力や無関心などといった今日の若者の傾向に還元すべきではないだろう。若者の発想や問題としていることと、現状の運動とのズレを直視する必要があるのではないだろうか。
ここで、二〇一一年八月の教科書採択の場に立ち会った一人の大学生の声を取り上げたい。横浜国立大学教育人間科学部四年生であった兵庫貴宏である。兵庫は、「つくる会」を「他者を攻撃しながら自らを規定していくような、子供じみたことを行っている」団体とみているが、その団体がつくる教科書が「認可され使用されるような雰囲気・社会背景」に「問題」があるのではないかと考え、「つくる会」教科書に「反対の意」を持って市教委の傍聴に出かけたという。「自由社・育鵬社が採択されるようでは世の中狂ってるな」と彼は言う。以下は、彼が傍聴後に書いた感想の一節である 。
(教育委員の委員長代理の)小濱逸朗氏は「子供を健全な国民にしたい」とたびたび発言していました。それに付随して「今の若者は覇気がない」とも述べておりました。教科書採択中に居眠りする教育委員、今田教育委員会委員長にビクビクしながら円滑に採択を進めようと右往左往する教育委員を見ていると果たして大人は覇気があるのか、と思いました。……さらには、どの審議委員も「子供の将来のために」と連呼するのですが、その後に来るのは決まって「将来の日本のために」という文言です。このように言い換えたらどうでしょう。「将来の日本のために、今の若者を教育して良い国をつくる」。結局のところ彼らが言う「若者」というのは、「日本」の未来像であって自らの希望を若者に押しつけているだけではないでしょうか。
(中略)
結局、採択の結果歴史教科書・公民教科書共に育鵬社の教科書に決定しました。審議員のやり取りから判断するにおそらく出来レースだったのでしょう。傍聴していたことがくだらなく思えるような審議の内容と結果でした。しかしながら、「つくる会」の集会から教科書採択の傍聴を行う中でわかったこともあります。それは他者とのコミュニケーションの欠如です。そもそも、コミュニケーションを取る気もないのかも知れませんが。自分ではない、他者である「外国人」「外国」「子供」などと対話を図ろうともせずに、自らに都合のよいように解釈し、結局は自らが気持ちのいいように他者像をつくる姿勢は共通していました。
そして、これは「自由社・育鵬社の教科書採択に反対する」側にも言えることでしょう。様々な有名知識人がこの教科書論争に言及し自由社・育鵬社の教科書に反対するとか言いながらもそこに彼らの中に子供の顔は本当にあったのでしょうか。私は疑問に思います。
兵庫は、育鵬社版教科書の採択を決定した市教委の委員たちの発言や態度に対して強い反発を隠さない。ただし、それは、教科書記述内容についての議論自体に対してではなく、「他者とのコミュニケーションの欠如」と表現した、「大人」の側が「教育」という名のもとで一方的に「自らの希望を若者に押しつけ」るという姿勢それ自体に向けられていることに注意しなければならない。教科書記述をめぐって歴史観や記述の正確さを主な争点としてきた「教科書問題」であるが、「若者」の視点から見るならば、子どもや若者との対話抜きに行われる議論や運動において、そこで実際に語られるのが、それぞれの「都合」にあわせた「将来の日本」像であり、子どもや若者はそのために利用される存在にしかすぎないのではないか、というのである。
この指摘は、「つくる会」を批判しながらも、別のあり得べき「日本」像を念頭において、そのために“正しい”教科書記述を生徒に学ばせる、という前提で行ってきた「教科書運動」の発想が内包する問題を鋭く突いていると思う。私たちはこれまで、公教育で教えるべき歴史観を中心に議論を進めてきたが、その際、学ぶ「当事者」である生徒のことをどの程度視野に入れていたといえるだろう? 歴史観を身につけさせる対象と見ることはあっても、「対話」の試みをしていたといえるか? 現在に生きる生徒たち自身が求めるものに対していったいどの程度答えることができていたのか? この問題は、ナショナル・ヒストリーを前提として“正しい歴史を教える”、という従来の「歴史教育」の方法そのものの問い直しを迫るものになるかもしれない。
Ⅳ 「教科書問題」の向こうに
二〇〇一年の歴史教科書問題の時に争点となった「歴史認識」の問題は、二〇一一年には公的な議論の場にほとんど登場することはなかった。「歴史認識」問題が後景に退く中で、何が一一年の教科書採択を決定づけたのか。そこで見えてくるのは、〇六年の教育基本法改定後に進行した政治と教育の関係の変化であろう。すなわち、学校教育や教員への人々の不信感を背景にしながら、学校教育の独立性が揺らぎ、法律遵守を掲げながら教育への政治介入が容認される傾向の強まりである。「正しさ」よりも法律を遵守しているかに注意が向けられる現在の状況を考えるならば、歴史教科書記述の正確さのみを問題とする対抗運動の困難が見えてくるように思う。
重要なのは、まず戦後の学校教育を支える枠組みが大きく変容しつつあるという現実に目を向けることであろう。そして、同時に意を注がねばならないのは、ナショナル・ヒストリーとして制度化されてきた「歴史教育」それ自体についての発想の転換である。「教育改革」の名の下で教育現場が露骨に政治の手段化されつつある現状のなかでなおざりにされているのは、学ぶ「当事者」である生徒たちにほかならない。いま必要なのは、学校教育を「開き」ながら、生徒たち自身が現代社会で生きる糧にできるような歴史認識を獲得するための新しい試みではないだろうか。生徒たち自身はさまざまなメディアや情報の氾濫の中にあるが、そうした彼らの歴史意識や現状感覚のなかで生きる「歴史」の実践 とはどのように可能なのか。それは、生徒たち自身が、過去と現在の回路を見出しながらそれぞれの未来を構想することにつながるものでなければならないだろう。今ここで提案をすることはできないが、そうした新しい歴史教育の議論が起こることを期待している。
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1 この取り組みについては、多和田雅保の論稿「横浜市における歴史教科書問題」(『歴史学研究』八七五号、二〇一〇年一二月)に詳しい。
2 加藤「横浜市における『つくる会』系教科書の採択とその背景」『歴史評論』七四七号、二〇一二年七月。
3 同時に『産経新聞』では浜教組批判のキャンペーンが展開されている。
4 今田委員長の発言。『横浜市会こども青少年・教育委員会記録』平成二二年五月十七日。
5 兵庫貴宏「教科書採択問題―横浜市教科書採択を傍聴して―」『靖国・天皇制問題情報センター通信』一一〇号、二〇一一年八月三一日。
6 テッサ・モーリス-スズキは、「歴史の真実」と対比させながら「歴史への真摯さ」を重視する(同『過去は死なない―メディア・記憶・歴史―』岩波書店、二〇〇四年)。
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