OCHLOS(オクロス)は民衆を意味する古代ギリシャ語です。私は民衆の視点から地域社会のあり方を模索します。すべての住民が一緒になってよりよい地域社会を求めれば、平和で民衆が安心して生き延びていく環境になっていくのでしょうか。住民は国籍や民族、性の違い、障がいの有る無しが問われず、貧困と将来の社会生活に絶望しないで生きていけるでしょうか。形骸化した戦後の平和と民主主義、経済優先で壊された自然、差別・格差の拡大、原発体制はこれらの象徴に他なりません。私たちは住民が中心となって、それを憂いのない地域社会へと変革していきたいのです。そのことが各国の民衆の連帯と東アジアの平和に直結する道だと確信します。
2013年1月21日月曜日
投稿:「制度にのらない人の制度を考える」湯浅誠の講演を聴いて
20日にFBと「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」(CNFE)の両方に川崎の「できることもちよりワークショップinかわさき」で講演した湯浅誠さんの講演感想と、川崎市の福祉の現場で勤める仲間からの感想が出されていましたので、紹介します。「しばらくは、見合った「型」を見つけられるまで苦悩し続けるのだろうと覚悟するしかない。」と記す湯浅本人の誠実な姿勢と、「制度からもれてきた人たちの全てを支えていけるような<まち>づくりと予算措置の必要性を痛感」するという鶴ヶ岡さんの感想に共鳴しました。崔 勝久
制度にのらない人の制度を考える
鶴ヶ岡裕一(CNFE MLより)
昨日、川崎市の方で、湯浅誠さんのお話があり、聞いてきました。
「制度にのらない人の制度を考える」と題して、高度経済成長の頃の様子や、また現在の「高齢化率と社会保障給付規模の国際比較」等のデータに基づいて語られました。とりわけ、社会保障給付率だけを取り出すならば、日本も米英並みの水準だと言われているが、それに、もう一つ、「高齢化率」という横軸を加えると、いかにわが国の社会保障給付率が『低い』かということが、グラフで明白になりました。
日本の母子家庭は、『就労率世界一』といわれながらも、平均170万円ほどの年収であり、ワーキングプアという状態であるということや、または、児童擁護施設出身の人たちや、日雇い労働者等。「制度にのらない人の制度を考える」として、必要な人を効率的に支援に結びつけるためにも、放置されることによる支援コスト増大を防ぐためにも、「気遣い人」の機能をもつ社会サービスを構築する必要があり、それが、現在、モデルケースとして各地に作られている『パーソナルサポート』ということです。
バリアフルな<まち>(多様な人たちが排除されてしまう。社会参加のために必要な支援サービスの質・量は人それぞれ違うので、対応は一人ひとり個別に行う必要があり、手間も暇もお金もかかる)ではなくて、ユニバーサルな<まち>では(もともと排除される人がいないので、個別サービスを事後的に構築する必要がない。経費が少なく、活力が多い。だから、最初から多様な人たちの参加を踏まえた)。そのような<まち>づくりが必要。制度からもれてきた人たちの全てを支えていけるような<まち>づくりや、そのようなことのための予算措置の必要性というものを痛感しました。
『災いだ。家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている。イザヤ書5章8節』
原発のようなことは止めにして、人が人として生きていけるような<まち>づくりのために、予算が活用されなければならないのではと、痛感させられました。
湯浅 誠(1月20日 FBより)
「できることもちよりワークショップinかわさき」に参加。行政職が中心ながら、多様な分野の人たちが文字通り「できることもちより」の精神で参加するワークショップ。こうした協働の雰囲気が、官民や地域を超えて広がっていくと、まだまだできることはたくさんあるはず、と改めて思う。
その後、生活保護受給家庭の子どもなどと意見交換する議員にアテンド。「大学に行けるのか?」という問いに、「学費から生活費から住居費から、全部自分で賄うなら可能」と答えるのはツライ。
昨日は金子勝さん呼びかけの会議3回目。ようやく形が見えてきたが、難しさも見えてくる。無力なのにいろいろ知ってしまうのは、社会の広さ大きさに押しつぶされるような感覚を受ける。しかし、知らなかったことにするのは退化だ。しばらくは、見合った「型」を見つけられるまで苦悩し続けるのだろうと覚悟するしかない。
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