明日、選挙ですね、私はどこにも出かけず、自分の部屋でじっと考え事をしています。これからの日本のあり方を決定する重要な節目だと言われていますが、自公、維新の会が最終的にどれほどの議席をとるのか、まだ態度を決めていない人も多く、決定的なことはわかりません。民主の議員は、マスコミが騒いでいるが、まだわからないと嘯いていましたね。しかし私には日本の右傾化の傾向がはっきりと感じ取れます。民主の中にも自民に同調する人たちもいるようですから(田中角栄の影響って大きかったのですね)、彼らを加えると日本は明らかにこれまでと違う次元に一歩進むのは間違いないと思います。これは日本の、時代の、歴史の流れです。それを防ごうとする運動、進めようとする一群、そのための喧噪。その中で私は何を考えるのかを記してみます。
40年前の韓国の独裁政治の時代
そのような重い気持ちのなかで私は40年前、韓国に留学していたときのことをふと思い出しました。当時は朴正煕独裁政権の真っただ中で、世界的に批判の声が高まっているときでした。しかし韓国内ではマスコミ、知識人、宗教界でまったくそのような批判的な声は上がっていませんでした。批判的なことはひそひそと話すという状態でした。独裁を受け入れざるを得ず、事態は一向に変わらないように見えました。
その後民衆神学で有名になったA先生や、『苦難の韓国民衆史』の咸錫憲先生や、ソウル大学の歴史学科の教授とも韓国の状況について話をしたことがあります。咸錫憲先生の自宅に伺ったときは、KCIAらしき人が訪ねて監視をしているような状態でした。A先生も、明洞のHR教会で説教されても政権批判的なことは一切、口にされず、自宅でただ二人真っ暗なところで話をしても独裁批判は口にされませんでした。肯定するのでなく、じっと耐え忍び、深く沈潜しようとしているかのようでした。歴史学科の教授は、このようなときだから深く考えしっかりと勉強をするようにと、軽率な行動を起こさないように私を諭すような話をされていました。そして市民生活においては日常の生活が淡々と行われていたのです。私はそのとき、結婚して韓国に「ウリマル」(母国語)の勉強に来て、1年のつもりが大学院に進んだときでした。
そのような八方ふさがりのときに私が経験したことをみなさんにお伝えします。
「「3・11」を踏まえて韓国の民主化闘争とは何であったのかを考えるー反原発運動の国際連帯を求めて」http://www.oklos-che.com/2012/06/blog-post.html より引用。
韓国での私の個人的なエピソード
私は戦後日本において初めて日本社会の民族差別を法廷の場で明らかにし、世界的な大企業である日立製作所を相手にして勝利した、日立就職差別裁判闘争(以下、日立闘争)の運動の真っただ中にいながら韓国に語学留学に行き、そのままソウル大学の歴史学科の修士課程に入りました。70年代前半、まだ朴独裁政権の頃の話です。当時は教会、マスコミ、学生運動も完全に沈黙を与儀なくされていました。
大学の学部の後輩からある日私に話があり、「兄さん、しばらく会えないかも知れない」とそれほど親しくなかったのになぜか私に呟かれた言葉に何のことかわからず当惑をしていたのですが、数日後、キリスト教放送の朝のニュースで一回だけ、ただ今ソウル大学でデモが発生しましたという情報が流れ、私はすぐに当時鐘路にあったソウル大のキャンパスに駆けつけました。
2百名くらいの学生が正門前に並び愛国歌を歌いながら独裁政権を批判するシュプレヒコールを繰り返していました。そこに機動隊が突入し恐らく全員逮捕されたのでしょう。その隊列の後方に私は後輩の姿を見ました。その学生たちの立ち上がりがきっかけで、学者やマスコミや教会、そして一般市民の中から独裁政権を批判する声が徐々に上がるようになってきたことを昨日のように思いだします。民主化闘争はまさに無名の学生たちの蜂起から始まったのです。私は日本から韓国に渡りその歴史的な出来事を目撃した数少ない証人の一人だと思います。
民主主義の内実とは
韓国の民主化闘争の歴史も最初から著名な人が立ち上がり多くの賛同者がいたというわけではないのです。保守的な教会の中にあって「アカ」だと批判されながら、排斥されながら闘ってきた緩やかな流れがあったのです。そして彼らを支援する世界中の多くの人たちとの連帯があり、ようやく韓国民主化が勝ち取られました。
しかし民主化とはなんとと時間がかかり、様々な砂をかむような経験を求めるもなのでしょうか。民主化の代名詞のような存在であった金大中とその後進歩的(民主的)な政治家が大統領になったのですが、その間も実は原発は着々と作られていました。国家再建のため、豊かな国にするために必要不可欠なものと認識されていたのです。勿論、その中でも地域の反対闘争があり、原発建設を止めさせた例もありました。しかし現在20基を超える原発のうち、その半分をつくったと言われる今の李明博が大統領になり、今でも原発密度世界一なのに、20年でさらにその倍にする、世界の新規の原発建設の20%を取ると公約し、実際に輸出を始めました。
この40年にわたる韓国の歴史から多くのことを学ぶことができます。民主化は未だならず、それは形式的な民主制度の問題ではありません。日本も韓国もそういう意味では民主主義的形式が整っています。ドイツのヒットラーは選挙に勝って独裁政治をしたのですから、民主主義が完備した日本において右傾化が進むのは不思議ではありません。それでは民主化と右傾化はどのような関係にあるのでしょうか?これは結局、民主主義の中味、実態、それを支える個人倫理、道徳、価値観を含めた社会の内実を問う問題だということでしょう。
金鐘哲氏講演録「原子力事故、次は韓国の番だ」ー3・11韓国における講演の紹介
http://www.oklos-che.com/2012/03/3.html
誰に投票するのかがいかに重要なのかということはよく理解しています。しかし日本での参政権はないとしても、今回、在日の私は戦後初めて韓国の大統領選の事前投票をしました。勿論、脱原発を謳い、民主化の内実を模索しようとする野党候補に私は投票しました。
初めての国政選挙を経験して
http://www.oklos-che.com/2012/12/blog-post_5.html
しかし私の心はなぜか、晴れません。文在寅候補の当選を願い、私の一票が役にたったならそれはそれでうれしいことですが。何年に一回の選挙に行くこと、これが選挙参加ということなのかというこれまでの私の疑問はさらに膨らんでいきます。
政治参加とは何か
これは結局、自分が生きる場においていかに人間らしく生きるかということを追及することではないのでしょうか。国民国家の理念に絡み取られ、国籍は日本ではないのだから、今の自分の住んでいる地域社会の問題は日本人の問題、日本人が反省して解決する問題、私たち在日の多くはそのように考えていませんか。
「在日」作家、徐京植のNHK番組を観てー『フクシマを歩いて・・・私にとっての「3・11」』
http://www.oklos-che.com/2011/08/blog-post_31.html
勿論、それは日本社会は日本人のものとして外国人を排除・包摂してきた日本社会の実態と表裏一体です。それはいずれもが国民国家なるものを優先させ、そのナショナル・アイデンティティを個人のアイデンティティに先立つものだと考える点においては同じです。その発想、その価値観のためにわたしたち在日は苦しんできました。日本人ではない、しかし「本国」の人間とも違う、自分は「在日」でしかない、この自分のアイデンテイティに苦しまなかった在日はいないでしょう。
しかし私は結局、民族にも、国家にも自分の心の安定を求めることはできませんでした。中途半端な妥協をしたくなかったのです。私はそういう意味ではこれからのあるべき社会に向かって自分自身のアイデンティティ、主体性といういうか、生きる根拠、目的を見い出そうと決断した者です。
「捨てられた石」ー在日として生きて来て見い出したこと
http://www.oklos-che.com/2012/07/blog-post_24.html
韓国も日本も誰、どの党が勝とうが、いずれにしても一挙に民主化の中味が実現するわけではなく、新たな闘いが始まります。原発体制は戦後の植民地主義と捉える私は、それがいかに世界的な社会構造のなかから生まれてきたものかを知るようになり、その根の深さに愕然とします。その体制を維持しようとする根は深く深く張り巡らされており、それとの闘いは気の遠くなるような思いがします。
私は夢を見るのです
しかし私は夢を見るのです。未来のあるべき社会に自分のアイデンテイティを探ろうとするのですから。植民地主義とは何か、このことを学問的に定義づけし、体系立てることは私の任務ではありません。それは人が人を搾取し、核を持ち他には核を持たせなくすることで大国が小国を支配し、自己責任という建前で弱者を切り捨てる社会です。自分(都会)の繁栄のために貧しい地方に原発を押し付ける社会です。民族や国籍や性の違いで差別する社会です。弱いところに自分たちの都合の悪いものを押し付ける社会です。事故の原因もはっきりとさせられないものを自分たちは脱原発を謳いながら外国に原発を輸出し、使用済み核燃料を持ち込もうと画策する社会です。自然を破壊し、子どもたちが自由に砂場で遊べないような、愛する故郷から十万人以上の人間が追い出される社会です。そしてその犠牲者への補償さえ明確にできない社会です。これを私は植民地主義というのです。
戦前の植民地主義の清算がなされず苦しんでいる人が多くいます。そして戦後の核兵器によって苦しんできた人も世界には多くいます。ウランの採掘からして被曝者の犠牲を前提になされているのですから。私は夢を見るのです。そのような戦前、戦後を通して植民地主義によって苦しんできた人が全て声を上げ「原告」になり、その犠牲を強いてきた軍産複合体を進めてきた人たち、暴利をむさぼってきた企業、その暴力を正当化してきたマスコミ、学者、政財官の人たちを「被告」にして「国際反核民衆法廷」はできないのか。イデオロギーの違いを乗り越え、その犠牲者の声に素直に聞き従い、そこで生じた人間らしい気持を唯一共通のものとして誰もが共闘できないものなのか。
私はこの雨が降りしきる中、官邸前で、日比谷公園で原発反対の声を上げてよりよい社会を作ろうとする人たちに心からの敬意を払い、連帯・支持する気持ちでこのブログを書いています。彼らとはどこかで、いつでもつながると信じて。そして選挙の結果が出た後のやるべきことの多さと、大変さを感じながらも、作り上げるべき社会への期待に胸が膨らみます。もはやそれに邁進するしかない、そういう気持ちがふつふつと湧き上がってきます。私は選挙運動の最終日を、このような気持ちで迎えます。
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