原発メ-カ-・日立の「植民地的経営」と原発事故が意味するもの
-「原発体制と日立就職差別裁判闘争」から考える-
~国籍・民族の違いを超えてともに脱原発の実現を!~
「原発体制と日立闘争」
今回、京都・東九条(井筒和幸監督・映画「パッチギ」の撮影舞台となった)に近い場所で「原発体制と日立闘争」について講演することになった。8月4日、(社)大阪国際理解教育研究センタ-主催の「第26回KMJ研究夏季セミナ」でアジェンダ・プロジェクト(http://www3.to/agenda/)の谷野隆編集員と出会った。
戦争責任・脱原発運動にかかわる谷野さんは、「日立就職差別裁判から原発問題に繋がる話、原発メ-カである日立製作所の労働者・職場の実態について聞きたい人たちがいる。京都にお呼びしたい」と依頼され、「原発メ-カ-・日立の「植民地的経営」と原発事故が意味するもの」を話すことになった。
当日、午前中、大雨となり、「大阪でオスプレイ配備に抗議する集会もあった」ため、主催者は、人が集まるのか心配した。 (民族)差別・人権、反原発、労働運動に関わる学生(京都・関西・大阪市立大学)、女性、労働者、連れ合いの学生時代の同級生など、会場は、50人余で満席となった。多忙の中、西川長夫立命館大学名誉教授も参加され、講演後の質疑応答など最後まで清聴された。
話し終わった後、休憩もなく会場からの質疑応答が続いた。メモする時間もなく、終了間際まで多くの質問が出された。日立闘争を経験した当事者として、原発メ-カである日立製作所で働く私の生き方を問う厳しい質問、意見も出された。欠落した部分があるかも知れない。覚えている内容は記録に追記した。
★労働者が沈黙せざる得ない日立のような厳しい職場で、ものを言えば労働者は孤立する。孤立した労働者が解雇されたグル-プがいくつかあるが、そのような人たちとの繋がりはあるか。
★退職祝の時、仙谷由人元官房長官と会ったそうですが、何を話したのか。日立闘争のDVDの中にあったが、原発メ-カである日立製品の不買運動、製造物責任を問うことは、反原発運動にとって重要な視点である。これは効果があるのではないか。
★会社生活で失ったもの、得たものがあると思いますが聞かせてほしい。また外国人参政権についてどう思いますか。
★なぜ、日立の就職差別闘争から反原発運動に関わるようになったか。
★福島の事故現場は、日立の正規労働者よりも関連会社あるいは末端の非正規、日雇労働者が危険な現場で働いていると思う。原発事故に関する情報があれば教えてほしい。
★ものを言わないエンジニア・労働者と今後どう向き会っていくのか。
★集会後の懇親会は10名以上が集まった。半数近くは学生だった。日立に入ろうとした学生は、「今日の話を聞いて、考え直さなければならない」と語っていた。「日立に入りなさい。入ってから考えればいい」とアドバイスした。
★「万国の労働者、団結せよ!という言葉があるが、日本の労働者が団結できないのにそんなことできるのか。簡単ではない。企業社会の労働者が団結できない厳しい現実があることを学んだ」と語る学生。
★「企業内植民地という言葉を聞いたが、大学では社会問題のチラシも配布できない。まさに俺たちは大学内植民地で生きている」と大学を批判する学生。
★「日立闘争を支援した当時学生だったTはよく知っている。その頃から関わっている」と私と近い年輩の参加者。「日立闘争」を生徒に教えるコリア国際学園・社会科非常勤講師は、「日立闘争は同化裁判と批判し、民族団体は関わらなかった?支援しなかった?そんなことがあったんですか?日立闘争の裏話にも問題の本質があるみたいですね」と驚いた様子。「今日のレジメにHPのURLを書いていますので読んでください。」
★「政府、東京電力に責任を求めることも必要だが、原発メ-カの製品不買運動、製造物責任についてもっと話してほしかった。聞きたかった」と言う主催者女性。1時間余の交流会は、盛会に終わった。「日本における多文化共生とは何か」10冊完売した。
主催者アジェンダ・プロジェクトの藤井悦子さんは、以下の感想をHPに書いている。
本日は雨の中、ご参加ありがとうございました。約50人の参加で、会場は満席に近い状態でした。IWJの中島さん・岡田さんには中継をしていただきました。本当にありがとうございました。
自らの生活がかかっている企業の中で、労働者として声を上げていくことは、本当にきついことだと思いますが、朴さんはそれをずっとやってこられたんだなと改めて認識しました。朴鐘碩さん、貴重なお話を本当にありがとうございました。
朴さんのお話の中で印象的だったことのひとつは、民族差別をなくす運動で先進的と言われる川崎市でも外国籍市民は、公務員になれても役職に就けないこと。それにもかかわらず人権団体などがそれで良しとしてしまっているということ。この方式は、川崎を前例に京都など全国でも採用されていること。私たちも地元の自治体が差別をしていないのかどうか、このような差別を「差別」だとちゃんと認識できるような人権意識を持てているのかどうか、人権・差別ということをきちんととらえて、流されないで声をあげていくことが重要だなと感じました。
また朴さんのお話の中で、「原発メーカーに原発を作らせないようにしなければ脱原発はできない」という趣旨の言葉が印象的でした。日立関連の労働者と家族は、日本の人口の1%にも上るそうです。驚きですが、この中で声があげられない構造は深刻です。ほかのメーカーも含めて、企業内部から原発やめろという声を上げていけるかどうかが非常に重要だと思います。
朴さんは近々、原発を作った企業の製造物責任を問う裁判を起こされるのだそうです。私たちはみな原告になれるようです。これまで大飯原発に関しても、政府や電力会社には抗議を続けていますが、原発メーカーに対する抗議はあまりできていません。日立闘争に際しては、韓国から日立不買運動がおこり、それがマスコミで報じられたことが大きな影響を与えたそうです。宣言だけでもかなり効果があるそうです。私たちも、原発メーカーの日立・三菱・東芝に対して、不買宣言などの声を上げていくと、効果があるかも知れません。みなさん、今後はメーカーに対しても抗議の声を上げていくよう頑張りましょう!
このイベントページは、近日閉鎖します。みなさん、ありがとうございました。
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「原発体制と日立闘争」レジメ
2012年10月28日 朴鐘碩 アジェンダ・プロジェクト
京都・下京いきいき市民活動センタ
1951年、愛知県西尾市で貧困家庭9人兄姉の末っ子として出生
高校卒業後、日本名で日立製作所受験、合格 国籍を理由に採用取消
1970年12月横浜地裁提訴 日立就職差別裁判闘争始まる
民族組織は、「裁判は同化に繋がる」と批判。「民族・国籍」とは?
1974年6月勝利判決 9月コンピュ-タソフトウエア員として日立に入社
入社5年後、胃潰瘍で1ヶ月入院。日立製作所労働組合、職場集会で発言。
1995年、勤続25年記念論文会社/組合に提出 事業所は国旗、国歌中止。
「戦後50年日韓交流への提言」朝日新聞・東亜日報に応募(朝日1995.7.31)
(民族)差別と労働者の問題 ものが言えない企業社会
2000~2010年 ソフト執行部委員長に立候補-敗北。2000年~評議員に立候補-敗北。公正な選挙、組合費の使途、春闘/一時金闘争など問題点を提起
日立製作所労働組合への公開質問状 開かれた経営、組合組織を求める。
「企業内植民地主義」批判 2011年11月定年退職 12月から日立製作所で再雇用
原発事故の意味と日立の植民地的経営を問う。
【資料 記事HP抜粋】
NNAA(No Nukes Asia Actions http://ermite.just-size.net/nnaa/index.html
CNFE(Christian Network for Nuke-free Earth)
原発体制を問うキリスト者ネットワーク http://jcnfe.sakura.ne.jp/
http://www.oklos-che.com
日立製作所(会長・社長)への要望書 2012年10月17日
「(続)日立闘争・在日としての経験・現代の日本社会」 2012年8月15日
「原子力を世界に」求める日立 2012年7月1日
日立製作所(会長・社長)への抗議文 2012年6月19日
「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」-コミュニケ-ション-掲示板
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html
「日本における多文化共生とは何か」共著 新曜社 2008
2012年5月12日朝日新聞「耕論オピニオン 冷や飯を食う」
2012年1月6日 神奈川新聞 2012年1月6日 東京新聞(川崎版)
2011年12月28日「窓 論説委員室から ある会社員の定年」朝日新聞
2011年5月11日 「日本を変えた日立闘争」民団新聞
1990年5月28日 にゅうす・らうんじ「在日」の壁乗り越えて 朝日新聞
日立製作所労働組合・統制委員会への公開書簡 2006年6月2日
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_111.htm
日高六郎理事長 高橋幸吉事務局長への抗議文
社団法人 神奈川人権センタ-を糾弾する 1997年1月
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_140.htm
民族的自覚への道-日立就職差別裁判上申書(生い立ち) 1974年
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_18.htm
日立就職差別裁判 横浜地方裁判所判決 1974年6月19日
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html
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「原発体制と日立闘争」
朴鐘碩 2012年10月28日
アジェンダ・プロジェクト
京都・下京いきいき市民活動センタ
こんにちは。
民族差別の不当性を訴えた4年近い日立就職差別裁判の歴史、勝利するまでの記録(DVD)を見ていただきましたが、あれから40年以上の歳月を経た、現在の朴鐘碩です。よろしくお願いします。
私は、1951年に9人兄姉の末っ子として生まれました。貧困家庭で民族を知ることなく育ち、日本人化した私は、高校卒業して間もない19歳の時、1970年に日立製作所を訴えました。私は、昨年11月末、定年退職しました。その後、日立の企業城下町である横浜・戸塚で日立の情報・通信部門で嘱託として働いています。
今日は、国策に便乗して原発を製造し、開発途上国に輸出しようとする日立製作所の職場の実態と戦後の「植民地主義」のシンボルである原発体制の関係を考えたいと思います。
国籍を理由に就職差別し、原発製造企業の一つであり、多国籍企業の日立は、どのような会社なのか、そこで働く労働者たちと職場の実態、社会状況について、私の経験に基づいて話したいと思います。
世界を震撼させた福島第一原発事故は、未だに放射能汚染の解決の糸口は見えませんが、気になるのは今後の対策です。福島の事故は収束するのか、収束するまで何年かかるのか、今後どれだけの労働者が被曝するのか、放射能汚染はどこまで拡大するのか、放射能は遮断できるのか、炉心はどうなっているか、原発を開発・製造した日立に廃炉技術があるのか、など原発メ-カに対して疑問が出ています。
報道されましたが、事故後においても日立はじめ東芝、三菱は、原発の輸出で莫大な利益を上げようとしています。日立は、原発プラント建設に60%以上の人々が反対したリトアニア、ヴェトナムに輸出を計画し、さらに国内増設に向けて精力的に動いていました。日立は、1957年から日本の50基以上ある原発の半数近い原子力プラントに携わっています。
日立は、事故現場に関連会社含めて千名以上のエンジニア、労働者が被曝しながら復旧なのか、廃炉なのかわからないまま、大きなクレ-ン車をいくつも並べて、収束工事に携わっています。放射線量の高い危険な現場での末端下請け作業員の日当は「高い」という噂もありますが実態はわかりません。日立の正規労働者は、現場にいないのではないか、多くは関連会社、下請の末端労働者が現場作業に携わっていると思います。
歴史をみると日立製作所は、日立鉱山を発端にして、朝鮮半島が日本の植民地となった、韓日併合の1910年に創業しました。エネルギ-の根幹である電力事業で当時から水力発電プロジェクトで東京電力(電燈)とは深い関係にありました。
資源のない戦前の日本の電力エネルギ-確保は、炭鉱、ダム建設、資材輸送の鉄道敷設のインフラ整備が必要でした。危険な土木現場には、「枕木一本に朝鮮人一人」(「朝鮮人強制連行の記録」朴慶植1971年未来社)に匹敵する、強制連行された多くの朝鮮人、中国人の労働力が必要でした。
私は、昨年黒い壁(津波)で三日間燃え続けた気仙沼に行ってきました。JR気仙沼線のレ-ルは針金のように大きく曲がり、平穏だった街は真っ黒に焼けた瓦礫の山に変貌し、凄まじい光景が拡がっていました。戦後の廃墟そのものでした。
被災した東日本沿岸の気仙沼・大船渡線はじめ危険地帯のJR(日本国有鉄道)の鉄道網、ダム建設にはご存知のように植民地から、多くの労働者の命が犠牲となりました。つまり国民国家のエネルギ-政策は、原発立地と同じ植民地主義への道だったのです。
オ-ストラリア、モンゴルなど、原発の源であるウラン採掘には周辺の原住民が被曝し、原発プラントは末端労働者が被曝します。沿岸部の原発立地の住民は都市部の犠牲となっています。原発事業は、被曝労働者の犠牲によって成り立っています。
植民地から解放された朝鮮半島は、分断され、核兵器を持つ覇権国の犠牲となりました。朝鮮戦争で家族、親戚、住民の生活は破壊され朝鮮半島は廃墟となりました。ところが侵略戦争を起こした日本は、「分断」を免れ、続いて起こったヴェトナム戦争で、経済復興を遂げました。
戦争責任を問わない経済成長は、効率と利益を優先させ人間性を無視した、見せかけの復興と言えます。植民地を失った日本の経済復興の裏には、労働者に沈黙を強いる企業と組合が一体となった植民地的経営があります。
原発体制は、科学技術の先端シンボル、「平和利用」と称して住民を騙してきました。労働者が沈黙する中で日立は、原発を製造し、輸出するまでになりました。しかし、事故は韓日併合の年に創業した日立100周年を祝った、翌年に起きました。
先ほど日立闘争のDVDを見ていただきましたが、訴訟当時、私は民族意識を持たず、日本名で受験し、訴えた裁判は同化に繫がる、と民族団体から厳しく批判されました。それでも裁判・運動で日立の民族差別を糾弾し、戦争責任を問い続けました。
勝訴した後、私が入った日立の職場は、民族差別とかけ離れた別世界でした。その実態を書いたのがこの『日本における多文化共生とは何か』にある「続日立闘争」の部分です。労働者の問題は、「日本人の問題」として理解し、組合活動に関心はありませんでした。民族差別と沈黙している労働者の問題がどこで繋がるのか、悩みました。ストレスで胃潰瘍になり、1ヶ月日立の病院で生活することになりました。
入社後の私の続「日立闘争」は、企業社会における労使協調・「共生」の実態、労働者の問題を提起しました。
これを書いたのは2008年です。多くの企業がそうだと思いますが、日立製作所の抑圧的な経営、職場で働く労働者が沈黙せざる得ない状況と民族差別は深く繫がっています。私はこれを企業内植民地主義と理解しました。
私が属していた日立労組は、日本最大の労組である電機・連合の傘下にあります。連合は、昨年「原発推進を凍結する」と宣言しておきながら、大飯原発を再稼動させた民主党政権を支えています。
再稼動を積極的に働きかけたのは、「今も弱者の味方である」と(私は信じたい)豪語した、仙谷由人元官房長官でしたが、-仙谷さんはDVDにも映っていました。資料の中に新聞記事があります-弁護士になって最初に担当した事件がこの日立就職差別裁判でした。
仙谷さんは、川崎で開いた定年退職の集会に参加し、日立裁判の話をしましたが、原発については一言も語りませんでした。地元徳島に帰る途上でした。選挙区の地元では原発推進を語ったそうです。「原発ゼロ宣言」に反対した経団連のパイプ役として動いています。私の方から原発について聞くことはありませんでした。仙谷さんが「今も弱者の味方である」と語った背景には、日立闘争を思い浮かべたかも知れません。今度会う機会があれば、きちんと話したいと思います。
私が勤めている会社が原発を製造し、事故を起こし、地元住民の生活を破壊しました。汗と血を流して開拓し、住み慣れた土地から数10万人の住民が避難を余儀なくされました。国民国家は、「安全神話」で住民を騙し、植民地であった朝鮮半島同様、家族、親戚、仲間の絆を引き裂きました。地球規模の被害を与えたにも関わらず、原発事業で莫大な利益を稼ぐメ-カの社会的責任がなぜ問われないのでしょうか。
事故現場は、日立・東芝のロゴが書かれたマイクロバスが走り回り、多くのエンジニア・労働者が放射能を浴びながら収束作業していますが、その過酷な労働実態について、会社も労組も沈黙しています。ところが、倫理教育と称して、職場は、企業の社会的責任・倫理・人権について他社であるJR西日本の事故を題材に話し合うことはあっても、日立就職差別事件、人類を破滅に導く原発事故について語ることを避けています。
先日も職場で話し合う場がありました。「私たちが勤める会社で作った原発が事故を起こし、多くの人々が犠牲になっている。現場は同じ日立の労働者が被曝しながら収束作業している。日本は広島・長崎で被曝している。リトアニアで半数以上の人々が反対している。これについて皆さんの意見を聞きたい。」
「もっと安全な原発を造ればいい。日立の原発は大丈夫。この場で政治的な話はしない。職場と直結する問題を話そう。」と原発メ-カで働く労働者としての自覚、責任は全く感じていないようです。その後沈黙です。
核(Nuke)は人類と共有できない、原発はなくすべきだ、と思っていてもものが言えない風土があります。エンジニア・労働者は、はっきりもの言いませんというか、言うことはできませんから、企業は労働者に原発を作らせて輸出します。
3・11事故から反原発運動は、世界に拡大しています。脱原発は、メ-カに原発を造らせない、原発事業の撤退を求める以外に道はありません。「原発ゼロ宣言」に反発した経団連は、事故の教訓を学ぼうとしていません。
職場のエンジニアたちは、業務に追われて、おかしいと感じても「自分ひとりではどうしようもない。ものを言えば上司から声がかかり、周囲の冷たい視線にさらされ、孤立する」雰囲気が漂っています。
日立闘争以後、経営者幹部は、しきりに「人権尊重」「社会貢献」を従業員に訴えるようになりましたが、職場の人たちは、生活を守る、家族を守る、自分の将来を考えて沈黙します。これが善悪を問わず「世界の日立」で組織の一歯車として働く、最新技術を開発する労働者の姿です。労働者は、巧みに利潤と効率を最優先する企業の論理に回収されます。最終的に「国民国家に回収されて」いきます。
植民地であった朝鮮半島で利益を得た、発電事業を発端にしたチッソは、戦後、公害水俣病を起こしました。チッソに勤める技術者、労働者は内部告発できませんでした。そのために被害は拡大し、多くの地元住民が犠牲となった、と言われています。
外部から見えない企業社会で隠されている矛盾、問題は、多くありますが、3・11事故で閉鎖的な企業の実態も明らかになりました。利益・効率を求め、原発推進を煽る経団連の抑圧的な経営は、人間を正規、非正規、派遣労働者に分断しています。
事故や不祥事が起きても経営者責任よりも末端の労働者一人ひとりの「頑張り」と「自己責任」が問われるような雰囲気が漂い、私もそうですが、エンジニアたちは、余計なことは考えず、与えられた仕事を黙ってこなすことが自分の使命であると思っています。日々のル-ティング・ワ-クからそのような価値観を持たされます。
日立のトップである歴代の社長は東大工学部、副社長は東大法学部など高学歴出身者です。取締役経営陣は偏差値の高い、所謂「いい大学」出身者で占められています。多くの青年たちが正規労働者として就職できない中、「いい大学」、「いい会社」に入るために、人間を選別する受験競争は、差別を助長します。国旗・国歌を強制する集団管理教育は強化され、企業社会で生きる労働者同様、多くの教育労働者は抑圧され、沈黙します。
日立は欧米の資本主義国の主要都市をはじめ世界中に合弁工場、営業所、関連会社、「HITACHI」のロゴがあります。売上高は10兆円近く、利益は数千億円。所員は約3万5千人です。関連会社は、千社以上、総従業員数は35万人と言われています。家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。
日立のような多国籍企業は、労組幹部が、正規労働者の賃上げ、雇用維持など労働条件の改善あるいは改悪を経営者と事前に相談して決める労使交渉が毎年あります。巷では春闘と呼ばれています。
組合員から意見・要望を聞く職場集会というものがあったのですが、私が、大きな声で会社・組合を批判したせいなのか、組合は勝手にそれをなくしました。仮に組合員から質問・意見・要望が出されても、組合・役員への批判・問題点は隠蔽します。つまり労働条件は、組合幹部と経営者幹部が決定し、彼らが労働者をコントロ-ルしているわけです。
親会社である日立製作所の春闘が決着すれば、ドミノ倒しの如く、千社近い関連会社のほとんどが妥結するようになっています。組合執行部は、現場の組合員に経営者との交渉内容を説明せず、現場にいる組合員から理解、信頼を得ようと努力しません。つまり組合幹部が予め決めたシナリオに従って交渉が進み、方針が結論となります。3万人近い組合員から強制的に集める組合費は、半日分の労働時間が毎月給与天引きされます。使途は、組合(幹部)の判断で自由に決まります。
定年退職した私は、組合員でなくなったため、毎回、立候補してきた執行委員長に出馬できなくなりました。
これは、会社との根回しもなく、私が独断で組合選挙に出た時の「選挙公報」です。この公報は、まだまともな方です。他の事業所の公報は、所属と名前だけ記載され、それを見て信任、不信任を判断します。これを読めば解りますが、もともと組合の役員、評議員というのは、労使双方で事前に指名された組合員が自主的に立候補させられ、形式的な「選挙」によって選ばれます。また多くの組合員は、組合費の使途、組合費で生活している執行部役員の組合活動に関心はありません。というより自由にものが言える企業文化はありませんから、沈黙するしかないわけです。利益に繫がる個性は認められても、人権という人間性を求めて、自立を求める労働者の個(性)は、完全に潰されます。
選挙の話がでましたので、参政権について話します。外国籍住民の参政権問題を問うよりも、私は日本人の参政権問題の方が深刻だと思います。地域や関心度にもよりますが投票率はせいぜい50%前後だと思います。半分以下、つまり少数者の有権者によって選ばれます。有権者である多くの住民・弱者の声が反映されているか、ジョブレスの人たちが投票にいくでしょうか。
企業内組合選挙の投票率はどのくらいだと思いますか。99.9%です。出張、有休、業務で投票できない組合員以外は、投票させられます。上長が監視、目を光らせる中、組合役員が組合員名簿をチェックし、組合員に声をかけて投票を強制します。投票を断る勇気と決断を持つ組合員はいません。
組合員の意見を反映しない、労働者の置かれている現実と乖離した一部の組合幹部と経営者で行われる春闘は、製品開発・不良品のトラブル・障害対策に追われている組合員にとって、別世界の出来事です。原発プラント、その事故に関わる労働者も同じ状況だと思います。
職場は、自由にものが言える「言論の自由」が保障されていませんから、原発事故はじめ経営者幹部の不祥事・談合・偽装のような犯罪があっても、経営のあり方を批判する労働者はいません。経営者の哲学を気楽に批判できるような、開かれた風土、風通しの良い企業文化は企業社会に存在しません。これは人権運動体はじめあらゆる組織にも言えることだと思います。沈黙は差別・抑圧を助長します。植民地主義に抵抗することは、他者から嫌われ、己の存在をかけることだということを職場で実感しています。
日立就職差別事件は、先ほども言いましたが植民地支配から60年後の1970年に起こりましたが、当時、日立労組幹部は見て見ぬふりをし、沈黙しました。何故、彼らは沈黙したのでしょうか?これは連合をはじめとする企業内組合が原発メ-カの責任について経営者に抗議できないことと繋がります。民族差別を謝罪した会社・組合の体質は、日立闘争時から変わっていないということです。
「共生体制」について話したいと思います。
日立就職差別裁判判決から5年後(1979年)、東京に本社を置く経団連に加盟する企業は、「差別図書である「部落地名総監」の購入、採用にあたっての差別選考等の反省を契機として、それぞれの企業が差別体質の払拭に取り組む」東京人権啓発企業連絡会(人企連)を発足しました。現在124社が加盟していますが、同様に関西人企連もあります。加盟企業だけでなく部落解放、人権運動体も役員、理事に就任しています。
1996年12月、歴史を捏造・歪曲する「新しい歴史教科書をつくる会」が創設され声明が出ました。この声明に人企連に加盟している経営者幹部も賛同しています。しかし、解放同盟、運動体から抗議はなく沈黙しました。この時期、既に企業、自治体、人権運動体の「共生体制」は確立していた、と思います。
原発マフィアと呼ばれている日立、東芝、三菱はじめ東京電力、原発の電力供給を前提にした-誰が必要としているのかわかりませんが-リニア新幹線を開発、実用化を目指しているJRは、言うまでもなくこの「あらゆる差別を撤廃する」と宣言した人企連に加盟しています。こうした経団連にも加盟する企業内組合が、人類を破滅させる原発事故についてなぜ沈黙しているのでしょうか。
敗戦から70年近くなっても、労働者が抑圧的な状況に置かれ、ものが言えない、上意下達の日立のような企業社会では、民主主義が育ちません。労使で育てないようにしています。暗い話ばかりですが、これから就職に向けて考えている若い人もこの場に参加しています。悲観的にならず、前向きに生きることを期待します。
原発に依存して、生産効率、利潤を求める企業社会は依然として何も変わっていないと言えます。このように考えると戦後の企業社会の労使協調、戦争責任を問わなかった労働組合も原発体制を支えた責任があります。
事故の教訓を学ぼうとせず、原発で莫大な利益を計上し、就職差別した日立製作所で私は働いていますが、日立闘争を経て「黙らない生き方」をした私にできることは何か、何をしなければならないのか、私自身が問われています。私は、植民地的経営体質を批判し、開かれた会社を求めてきましたが、日立闘争と原発体制の関係を深く考えることはありませんでした。悩む中で反原発運動に関わる人たちと交流し、植民地主義と繋がっていると自分なりに理解することができました。
リトアニアの人々は、「福島の事故は他国のことではない。自国でも起こる」と判断し原発プラント建設に反対しています。私は会長・社長に、「原発事業から撤退する決断を求める」抗議文・要望書を出しましたが、福島の事故後の日立の原発輸出は、内外の運動で絶対阻止しなければなりません。欧米の日立製品不買運動によって日立闘争が勝利したように、世界的な反原発運動で原発輸出を阻止し、排外主義を克服しなければなりません。
原発メ-カ製品の不買運動は、効果があると思います。企業にとっての打撃は、パブリックイメ-ジです。実際の効果に関係なく、多国籍企業である日立、東芝、三菱に対する製品不買運動の宣言、原発メ-カの社会的、製造物責任を求める抗議文を公表することです。3社は、全国、世界に拠点がありますから、海外の人々との連帯は可能だと思います。
皆さんにお配りした資料の中にありますが、私が関わるNNAA-No Nukes Asia Actions-は、11月10日「原発体制と原発メ-カ-の責任」と題して講演会を開きます、日立の関連会社であるパブコック日立で原子炉圧力容器製造に携わった田中三彦氏が、メ-カの社会的責任について話します。翌11日には、モンゴル、韓国、台湾、アメリカ、日本5ヶ国で共同記者会見を開きます。
宣言文は、国際連帯で植民地主義の象徴である「原発体制」を解体する具体的なアクションを提案しています。賛同する個人・団体を募っていますので、NNAAまで連絡ください。
私の建設的な日立批判は、愛社精神を前提にしています。日立製作所の未来を考えるならば、歴史を繰り返さないために、原発事故で犠牲となり、引き裂かれた家族・住民に原発メ-カとして謝罪すべきだと思います。また人類を破滅に導く原発事業から撤退し、廃炉技術、自然エネルギ-の開発に転換することです。
企業社会で戦争責任が問われなかったのは、傲慢な植民地的な経営体質があります。住民を騙す国策を無条件、無批判に受け入れ、それに沿った利益、効率、生産を優先し、植民地で犠牲となった人々から何一つ学ぼうとせず、こうした人々に視線を向けなかったことです。
企業社会の国旗・国歌施行は、教育現場同様日常化しています。これに批判する労働者・組合は皆無です。排外主義を煽る領土問題が起きている中で、侵略戦争・国民国家を支えた国旗・国歌を批判し、日本(企業)の戦争責任を問う人間は非「国民」扱いになります。
私は「国民」という言葉に疑問を感じています。「国民の命を守る」「国民の声を反映する」「国民の権利を守る」など、こうした「国民」の中に(被)選挙権を持たない外国籍住民は含まれているのでしょうか?
「入社してから原子力の開発に従事した」京都出身の金井務6代目社長は、被曝者のことは全く触れず、1997年防衛大学校で学生たちに次ぎのように述べています。
「戦争中にいた江田島は広島のすぐ南にあり、原子爆弾が投下されたときもきのこ雲がよく見えました。それから2週間ほどして、郷里の京都に帰るときに広島の街を通り、惨状を目の当たりにしたわけです。私は入社してから原子力の開発に従事したわけですが、そういう経験が、私の将来を決めることになった」
「1953年、私が入社した頃ですが、原子力の民間利用、平和利用が解禁され、その2年後に原子力の開発が始まりました。原子力が日本の脆弱なエネルギ-問題を解決してくれるのではないか、エネルギ-問題も将来は明るくなったと、当時私どもは喜んだものです。その後、日立の研究所で原子力の開発に携わり、工場勤務も経験しました。」「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」(「経営理念・原子力」)
広島の惨状を見た金井元社長は、戦争、原爆の脅威を感じなかったのか。犠牲となった多くの日本人、強制連行された朝鮮人が被曝した事実を知らなかったのか。日立就職差別裁判闘争から何を学んだのか。企業として戦争責任を考えなかったのか。と言いたいです。
「日本を代表する企業として、やはり国が必要としていれば我々はやらなければならない」という言葉、これこそ戦前の植民地思想に繋がっています。戦争に導いた天皇制を軸に「企業内植民地」を保持し「国民国家」を守る経団連経営者にも共通した思想だと思います。
戦後、天皇制を解体できなかった、戦争責任を問わなかった反戦・平和・人権・教育・労働運動など、私自身含めて原発体制を支えてきた責任があると思います。政府・東電に抗議する反・脱原発運動のうねりは、排外主義、植民地主義を克服できるか、これから長い闘いの中で一人ひとりが問われていくと思います。
近代100年の歴史が経過し、企業内植民地で労働者は生きています。新植民地主義の途上で私たちは生きています。定年退職の年に起きた3・11は、新たな課題を突きつけられました。私は、継続して足元の課題に、正面から向き会って行きたいと思います。
西川長夫立命館大学名誉教授の「国民国家論の射程あるいは<国民>という怪物について」([増補版]柏書房2012年)を読み、横浜国立大学で開かれた、「3・11が明らかにしたこと-戦後史再考」をテ-マにした西川教授の授業を受けました。(続)日立闘争は、私にとって植民地のない、新たな「植民地主義の再発見」であったことを改めて実感しました。
植民地思想である、個を潰す、「共生」イデオロギ-は、企業社会だけでなく、地域社会にもあります。3・11の教訓は、災害が起これば国籍、性、民族など関係なくあらゆるものが犠牲となるということです。そのために防災対策含めて開かれた地域社会をどのように造るか、それこそ国籍、性、民族など関係なく、しかも上から与えられるのではなく住民自ら開かれた社会を築くことが、求められています。
川崎市は、多くの外国籍の住民が居住しています。公務員になるための国籍条項撤廃、選挙権のない外国籍住民の声を市政に反映する名目で設置された外国人市民代表者会議、地域住民と共に生きる「ふれあい館」建設など、「共生」を賛美する一部の人たちにとって「人権・共生」の街として知られるようになりました。
しかし、阿部孝夫川崎市長は、「日本国民と、国籍を持たない外国人とでは、その権利義務において区別があるのはむしろ当然のこと」「会員と準会員とは違う」と、戦争に行かない「外国人は準会員」と発言しています。戦争に行く、行かないで判断するのであれば、戦争に行かなかった女性、障害者は準会員になるのでしょうか?
また、法律でもない、単なる国・政府の見解にすぎない「当然の法理」を理由に-この言葉聞いたことありますか-、採用した外国籍公務員に許認可の職務、管理職に就くことを制限した、この「外国籍職員の任用に関する運用規程」というマニュアルを作って、差別制度を確立しました。
これを解り易く言えば、一軍選手になれないのにプロ野球選手になるということ、横綱になれないのに相撲取りになるということです。教育現場の外国籍の教員は、正式教員としてではなく非常勤扱いです。管理職である校長・教頭にはなれません。災害時の人命救助に携わる消防士にも就けません。
100ペ-ジ以上亘って、外国籍職員に制限する理由と職務が記されています。労基法に違反し、労働者の権利を侵害する、このマニュアルのサブタイトルは-この会場である名前と似ていますが-「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっています。このような「運用規程」は作らなかったものの、ここ京都市・京都府はじめ全国の自治体は、川崎市と同じ方式を採用しています。被災した自治体も同じです。
しかし、この差別制度である「運用規程」を廃止できるのは、国ではなく自治体首長です。地域住民の結束で差別制度廃止を求める自治体首長を選ぶことです。外国籍住民を2級市民扱いする「当然の法理」という差別制度は打破できます。排外主義(就職差別)を支え、運用規程を作らせたのは誰か、ということです。排外主義を克服し、開かれた地域社会を築くために、皆さんの選挙権を生かしてください。
この「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」が作成した「国籍条項完全撤廃」関連資料を読んだ知花昌一さんは、「立派な資料ですね。よくできましたね。沖縄は基地問題、反戦運動は盛んだが人権意識が低いことは、この資料を読んで分かりました。朝鮮人というか外国人の人権に関心がない」と語っていました。
ここで問題になるのは、基地問題を抱え反戦、平和を訴える沖縄の自治体、教育労働者、労働組合は、「当然の法理」が見えないということです。外国人というか朝鮮人が見えないということにも繋がっています。敗戦から65年以上、植民地から100年経過し、戦争責任を問わない連合の労働、反戦運動は、排外主義を前提にしていることになります。現代社会は、西川教授が書いていますが、「戦後とは植民地である」ことは明らかです。
上っ面だけ仲よくしましょうと「共生」謳いながら、外国籍住民を2級市民扱いする差別制度・価値観を残したまま開かれた地域を作ることができるのでしょうか。これこそ植民地主義です。
ものが言えない正規労働者、雇用の調整弁として、低賃金で働く非正規・派遣・外国人の労働市場は、経団連・大企業資本にとって「良質な資源」を求める「広大な植民地」と言えます。脱・反植民地化は、足元の現実の課題から逃避するのではなく、正面から向き合うことです。また、それは個々人の生き方の問題であると思います。
外国籍住民を含めいかなる人も排除しないで、開かれた地域・企業社会を皆さんと考え、植民地主義を克服していきたいと思います。日立のコマーシャル、街中で「HITACHI」のロゴを見たら、是非今日の私の話を思い出してください。
ということで詳細は、この『日本における多文化共生とは何か』、レジメにある
「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議(のHP)
-コミュニケ-ション-掲示板
http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index2.html」を検索してみてください。
最後に、ここに招いて下さった皆さん、関係者の方々に感謝申し上げます。御清聴ありがとうございました。
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