1月6日のシンポジューム資料として
東日本震災を「在日」としてどのように捉えるのか
―地域変革の当事者としてー
崔 勝久
3・11の大震災に出逢い、多くの人は地震と津波と原発事故を目撃して言葉を失うほどのショックを受けたはずです。正直に告白しなければならないのですが、私は3・11の原発事故を目撃するまでは、原発は問題だという意識がありながらもどこか他人事(ひとごと)のように思っているところがありました。地震と津波は自然災害ですが、その災害の背景には都会が地方を搾取してきた植民地主義的な社会構造が大きな影を落としていることを見逃すことはできません。植民地主義の問題を露わにした東日本震災を「在日」としてどのように捉えるのか、原発問題を中心に考えていきたいと思います。
(1)在日朝鮮人として歩み
私は1945年生まれの「在日」2世です。大阪で生まれ育ち、大学に入学したときには自分の本名や韓国の本籍地もわかりませんでした。私は自分が朝鮮人であることをどう受けとめていいのか、自分は何者で、どう生きていけばいいのかを悩んでいました。
そんな私がある日、朝日新聞の記事で、高卒の「在日」青年が日本名を使い日本の住所を本籍と「偽り」日立ソフトウェアの入社試験に合格したものの、「嘘」をついたという理由で解雇され提訴したということを知りました。彼の名前は朴鐘碩(パク・チョンソク)、日立就職差別裁判闘争の当該です。
「日立闘争」は民族差別を許してはいけないという戦後初の大きな市民運動になりました。海外ではアメリカ、韓国の教会が現地で日立商品の不買運動を展開し、韓国の学生が民主化闘争の最中にこの闘争を支援したことによって、運動は大きく展開し始めました。
日立の就職差別は、植民地支配の歴史と差別社会の実態を反映したものであるというこちら側の主張が全面的に認められた、完全勝利に終わり、朴君は勝利宣言をして日立に入社しました。その朴君は今年の11月に無事、日立を定年退職します。日立闘争とは何であったのか、日立入社後の朴君がどのような生き方をしてきたのか、そこで見えた地平は何であったのか、改めてその歴史的な意味を検証する必要があるでしょう(1)。
朴君支援の運動は当初の労働問題という位置づけから日本社会の差別と同化を強いる現実を直視した運動へと質が深まりました。朴君自身もまた闘争の過程で自分の経験を「在日」の歴史と現実として受けとめるようになり、当時日本第二位の大企業を相手に勝利した朴君を韓国のマスコミはこぞって「告発精神の勝利」「民族全体の貴重な教訓」と称えました。
私は民族の主体性というものは自分の足元の闘いを通して勝ち取るものだという信念をもつようになり、ソウル大学の大学院を中退して在日韓国人問題研究所(RAIK)の初代主事に就き、「日立闘争」と並行して川崎の地域活動を始めました。
私たちは自分の「在日」としての生き方を足元の問題から取り組むという考え方で川崎の地域活動に没頭しました(2)。国籍条項や「在日」の教育問題に深くかかわるようになり、「川崎方式」とされる一定の成果を得るのですが、その運動がいつしか「多文化共生」を目指すものとなり、地域活動が行政と一体化し、同じスローガンを掲げて住民と行政の間の代弁者の役割を果たし行政批判を控えるようになってきたことを私たちは批判的に見るようになってきました。
「多文化共生」と言いながら地域における外国人の政治参加を許さず表面的な「多様性」を強調するのは、労働力を重視して外国人を「二級市民」とする植民地主義イデオロギーです。「在日」に理解を示す日本人に対しては、「在日」をマイノリティとして位置づけ自らが属するマジョリティの質、構造を問うことがないのはパターナリズム(家父長的温情主義)であるということが段々とわかってきました。それではいつまでたっても対等な関係は作りえないのです。
「在日」が「多文化共生」を求めることは地域社会の「変革」ではなく、「埋没」になるということもしっかりと見えてきました。日本社会は「多文化共生」を強調することで、日本のナショナリズム(日の丸・君が代の強制)を肯定する構造になっているのです。「多文化共生」の提唱者はしたがって、日本のナショナリズムを根底的に批判できず大きく「包摂」されるしかありません。
私の主張する「多文化共生」批判は結局、国民国家を前提にするナショナリズム(民族主義)の相対化という問題に行きつきます。私は、中央集権的な国民国家に全的に包摂されず、すべての地域住民が生き延びることができるように地域社会のあり方そのものを変革していかない限り、「在日」の人権の回復はないということを主張するようになりました(3)。
日韓併合の100年は、私の住む川崎の埋め立ての100年でもありました。その川崎は差別と貧困の中で「出エジプト」を求めた、北朝鮮への帰国運動の発祥地でもあります。臨海部の巨大なコンビナートは、かつては公害問題を生み出し経済最優先の象徴であったのですが、今や脱工業化の時代にさしかかりその持続が可能なのか問われるようになりました(4)。大震災に遭った場合の災害対策も不十分です。3・11で明らかになったように、大災害があれば住民はみんな同じく被害に遭います。だからこそ、住民は国籍や民族を越え、あらゆる境遇の人が<協働>して共に生き延びることができるように地域社会を変革していかなければならないのです。それは戦後の政党政治に依存して住民が主権者になれない問題性を問い、住民の政治参加の内実、仕組みを提起するものとなるでしょう。「多文化共生」は、地域社会そのものの在り方を求める全住民の課題に結び付かず外国人と日本人の関係性を問題にする限り、為政者にとって都合のいいものに終わると私は考えます。
(2)3・11大震災を目撃して
「いざというときに戦争にいかない外国人は『準会員』である」と放言した阿部現川崎市長は、外国人に門戸を開放しても管理職や市民に命令をするような職務には就かせないという「当然の法理」に拘泥していました(たばこや空き缶を捨てることを注意する職務もだめだというのです!)(5)。私たちは10年にわたり「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」を作り行政との交渉を続けてきましたが、その結果、市長を代えない限り閉ざされた門戸はどうしようもないという事実に気づき、阿部三選阻止に全力を挙げることにしました。そこで多くの市民と出会うことになったのです。市民が中心となる「新しい川崎をつくる市民の会」(6)を立ち上げ、上記の臨海部の問題や「脱原発」「災害対策」、そして行政単位を小さくし「開かれた地方自治」の仕組みを求める長期的な取り組みに着手し、次の市長選に臨もうと計画しています。
そのようなときに3・11の大震災に出逢い、地震と津波と原発事故を目撃しました。
原発問題の根本に地域と被曝労働者への差別があるということがわかってきました。これは戦後日本社会の形骸化した平和と民主主義、経済最優先による環境破壊、市民生活における差別・格差の固定化・拡大を象徴するもので、まさに戦後日本社会の歩みそのものが生み出したものだと考えるようになりました。
また私は、「原発安全神話」は日本だけでなく韓国も同じように市民の中に浸透しており、原発は石油を持たない国としてクリーンで廉価な電力であるという「幻想」を国民にもたせ、なによりも原発プラントの輸出によって金儲けをしようという、韓国の国策の実態を知りました。韓国は2030年までに原発依存率を約60%にまで高めるというのです。民主革命を実現した韓国がこのままでいいはずがありません。
日本もまたヴェトナムに原発の輸出をすること、モンゴルに使用済み核燃料の捨て場の確保をすること、ヴェトナムから延べ6000名の原発実習生を連れてくることを密かに進めています。インド、中国、インドネシアというような大国に日韓両国は必死になって原発を売り込もうとするでしょう。自然豊かなアジアの新興国にはお金を貸し付け、インフラ整備からありとあらゆる付加価値をつけて原発建設を進めるものと思われます。しかし原発事故が起こった場合どのような責任がとれるのでしょうか。現にいまフクシマで事故が起こりその解決のめども立てることができないでいるのです。使用済み核燃料は日本に引き取るのですか、モンゴルかロシアに持って行って埋めるのでしょうか。
東京やソウルの真ん中に原発はとても建てられない、地方もむつかしくなっている、だから海外へというのはまさに植民地主義の考えであり政策です。私は原発問題に正面から取り組む必要があると考え、その運動は日本国内だけでなく、原発が集中するアジアの民衆との連帯運動へとつながるべきであると確信するに至りました。原発事故によってすべての住民が被害に遭います。私が地域の中で考え始めていた、民族や国籍を越え、住民が生き延びるために<協働>によって地域変革をするという考え方はまさにこの「脱原発・反原発」に適合されるように思います。 しかしながら、北海道電力の原発泊3号機の再稼働は早々と決定されました。高橋はるみ知事の後援会に電力会社の大物がそろっていることから予想されたことだとは言え、わずか370ガルという低い耐震基準で設計・建設されたものを2006年に550ガルに耐震性を引き上げることが決まりましたが、北海道南西部およびその沖合は活火山地帯です。どうして住民は知事の早期再稼働の決断を支持するのでしょうか。全国の原発のある地域で3・11以降も大きな反対運動になっていかないのはなぜでしょうか。このことは菅元首相が「脱原発」を個人の資格でしか発言できなかったこと、各関連閣僚や経済界が原発輸出や使用済み核燃力の海外での処理・貯蔵を打ち出しても世論は問題にしなかったことと関係するように思います。
「原発避難民」の問題、放射性物質の食べ物や自然への影響、そして何よりもフクシマ事故の原因(津波の前に既に原子炉の配管などの破損で放射線がもれていたなど)(7)が明らかにされておらず、国内ではそれでも再稼働に際して一定のチェックをすることが決定されたのに、原発輸出を国策として従来通り進めると公言するというのはどういうことなのでしょうか。『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』の著者は「福島において、3・11以後も、その根底にあるものは何も変わってはいない」と記します(8)。
宮台真司は飯田哲也との対談集(9)のまえがきで、「この日本社会は、技術的に合理的だとわかっていることを社会的に採用できないことで知られる」、「その意味で(今でも)原発をやめられない日本社会」にこそ問題がある。そう。先の敗戦から引き継がれた問題だ」として、それを<悪い共同体>とそれに結合した<悪い心の習慣>と見做します。
宮台と飯田は「知」と「合理性」と当然のこととして「市場」を自然エネルギー普及のための重要な要素ととらえます。しかしその観点から二人が評価する名古屋市長の河村たかしと石原都知事はナショナリストで、外国人差別を平然と口にします。河村市長は南京事件での中国人虐殺はなかった、いつまで韓国・中国に過去のことで謝罪をしなければならないのかと自著に記し、住民主権の目玉である小学校区の小さな行政単位の「地域委員会」の選挙に国籍条項を設定して外国人住民を排除しました。
「知」と「合理性」を強調する宮台はナショナリズムのような「情念」をどのように考えているのでしょうか(10)。飯田との対談集からは読み取れませんでしたが、宮台は、金明秀とのツィター上の論争(11)で、世界の常識として「在日」が日本の国籍をとることは当然と主張します。外国人の地方参政権論議が盛んであったころ、政治参加を望むのなら帰化をしろという声が多く聞かれました。日本社会は日本人のものだというのです。阿部川崎市長の「いざというときに戦争に行かない外国人は『準会員』」というのも同じ発想からくるものです。私はここに日本社会の「不気味さ」を感じるのです。
「がんばれ日本」の大合唱の中、津波で死亡した多くの外国人がいながら、外国人の窃盗だとか強姦の悪質なデマがまことしやかに流されました。勿論、中国人研修生を身をもって助けた日本人上司や、韓国救助隊の献身的な働き、地元住民に校舎を開放して食事を分けた朝鮮学校のことや、韓国の芸能人からの熱烈なメッセージのことも報道されましたが、これら美談より、悪貨が良貨を駆逐するものなのです。
今回の震災ではっきりとしたことは、大災害は国籍や民族に一切関わりなくすべての住民の生命と財産を奪ったという厳然たる事実です(12)。いや高齢者や障害者、患者という社会的弱者の被害がさらに甚大であったでしょう。住民は自分と家族の命を守り生き延びるためには、災害対策や介護、経済体制を含めた、あるべき地域社会を求めて行政、地元議員、企業と一緒になって壊滅的に破壊された地域を再建していくしかありません。それは東北地方だけの問題でなく、地域社会そのものの課題だということが見えてきます。人類は未だその英知を持ちえないのです。
私は今回の東北大震災はこれまでの既存の人間関係や、中央政府に依存しない、地域住民が主権者として自らの意見を具体化しながら新しい地域社会をつくりあげる絶好の機会にすべきだと考えました。そのとき、同じ悲惨な経験をしてきた外国人住民も一緒になって、新たな地域社会建設を担う仲間として、共にその課題を担う者として受け留め合うような関係をつくりあげなければなりません。外国人住民は「二級市民」として政治参加は認められないという閉鎖的な考えでは、日本人住民自身が生きていけないということを自覚すべきです。
外国人が外国籍のままで地域社会の中で生きていくのかどうかについてですが、上野千鶴子は「当事者主権」について「なにをしてほしいかは、わたしにきいてください」、これこそが「当事者主権」の思想である、と記しています(13)。彼女は障碍者との対話から誰もが必要とする高齢者のケアーに注目しつつ、実は差別・抑圧されてきた人たち女性、障碍者、外国人の解放は、そこから逃れることのできないまさに当事者として自分が声をあげることからはじまるという大原則について記しているのです。そのことが「生き延びる思想」と結びついたのは意外でもなんでもありません、その必然があったと私は思います。日本国籍をとるかどうかは、第三者が強要したり、したり顔で「世界の常識」などと軽々しく言うべきことではありません。それは当事者が決めるのです。日本人にならないとものが言えないという「常識」こそ、粉砕されないといけないと思います。
(3)最後に
民族・国籍を超え<協働>して地域社会を変革していくことを唱え始めた私に、ツィター上で、「クソ朝鮮人!日本から出ていけ!!」という「つぶやき」が来るようになりました。金明秀、関西学院大教授にはさらにひどいHate Speechが投げかけられているようです。私は匿名をいいことにHate Crimeを今の時期にまき散らす者を侮辱罪で刑事告訴することを検討しています。そういうことを許さない社会にしなければ、私たちは、日本人も外国人も、住民として生き延びることができないのです。
私のような立場の「在日」を日本社会は受け入れ、地域社会変革のパートナーとして一緒に汗を流すのか、私たちが一生懸命になればなるだけ、日本社会は反発しさらに閉鎖的になるのではないか、今私にはそうでないと言い切る自信はありません。
しかし、災害はいつ来るかわかりません。原発は世界を滅ぼします。日本のみならず韓国もまた国策で原発を輸出し世界の新規建設の20%を目標にしています。韓国もヴェトナム戦争以後、また改めて加害者の立場に身を置くのでしょうか。私は、アジアに集中する原発建設を民衆の連帯によって阻止する運動が必要だと強く感じています。まさに、民族・国籍を越えて<協働>して反原発の連帯運動を作り、いかなる災害に遭っても、高齢者、障碍者、外国人すべての住民が共に助け合うネットワークを通して生き延びることができるような、開かれた地域社会をつくりあげていかなければならないと思います。
東日本の大震災はあらためて植民地主義の実態を可視化させてくれました。それとどのように対峙するのか、それは私たちの生き方の問題であり、自分の住む地域社会をどうするのかという問題になります。多くの人との協働が実現されることを祈るばかりです。
(「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」事務局長)(14)
<注>
(1) 朴鐘碩「続「日立闘争」―職場組織の中で」(崔勝久、加藤千香子共編
『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』新曜社 2008)
(2) 崔勝久「「日立闘争」とは何だったのか」(崔・加藤共編 上掲書)
(3)崔勝久「人権の実現-「在日」の立場から」(斎藤純一編『人権の実現』法律文化社 2011)
(4)中村剛次郎「シンポジューム・京浜臨海部の再生に向けて」(「新しい川崎をつくる市民の会」の記録)http://www.justmystage.com/home/fmtajima/
(5)崔勝久「「共生の街」川崎を問う」(崔・加藤共編 上掲書)
(6)「新しい川崎をつくる市民の会」参加への呼びかけ
http://cokw.co.jp/Simin_kai/simin41.html
(7)田中三彦 講演記録「脱原発フォーラム「原発事故について、テレビが教えてくれないこと」に参加して」
http://www.oklos-che.com/2011/04/blog-post_3425.html
(8)開沼 博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜうまれたのか』(青土社 2011)
(9)宮台真司 飯田哲也共著『原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて』(講談社現代新書 2011)
(10)崔勝久「『原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて』を読んで
http://www.oklos-che.com/2011/08/blog-post_28.html
(11) 2010.3.30 宮台真司×金明秀 外国人参政権について(完)
http://togetter.com/li/11769
(12)映像:『フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての「3・11」NHKこころの時代』
http://www.youtube.com/watch?v=lq4xuXFKlDk
映像での徐京植の話し方、その内容は多くの人に感動を与えたようです。「安全神話」にだまされてこのような原発体制をつくることに加担してきた人も、ライフスタイルを含めて、日本社会の「システムを変える責任を負っている」というのが彼の結論です。しかし徐京植自身は「たまたま乗り合わせた電車」に譬え日本社会との深い関わりを改めて述懐しますが、そこに自分自身も「日本社会のシステムを変える責任を負う」当事者であるという自覚があるのか、私にはやはり疑問が残りました。参照:崔勝久「「民族差別」とは何か、対話と協働を求める立場からの考察――1999年「花崎・徐論争」の検証を通して――」(『ピープルズ・プラン』52号 2010)
(13)上野千鶴子「当事者とは誰か」(『季刊at』15号 2009)
(14)「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」HP及び個人ブログを参照ください。
http://wwwb.dcns.ne.jp/~yaginuma/
http://www.oklos-che.com/
上記論文は、明石書店からまもなく発行される、『移民・ディアスポラ研究2』に寄稿したものです。
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