2017年12月13日水曜日

「民族差別について」の講演と大学生の反応

(1)横浜国大での日立闘争当該の朴鐘碩と私(崔)の講演

一昨日、12月11日、横浜国大で日立闘争の当該の朴鐘碩と私は、この4、5年恒例になった加藤千香子教授の日本の近代史の授業の一環として、「在日朝鮮人の差別」について話をしました。

加藤教授が先週、日立闘争のスライドを学生に見せ、在日朝鮮人の歴史と差別の実態について話をされ学生たちに書かせた感想と質問に応えながら、朴は主に日立入社後の体験を話し、私は、差別問題の根底にあると思われる、学生たちの無意識の「常識」と、おそらくあまり知らないであろう幾つかの事実を話しました。

朴は淡々と用意した原稿を見ながら話をしたのですが、私は130名の学生の間を歩きながら、学生たちに質問を投げかけ彼らに直接答えてもらうやり方を試みました。昨年、韓国の金民雄教授がされたやり方です。金教授は、日本の学生は下ばかり見て私の顔を見ながら質問をしないおとなしい学生たちだと言われていました。

(2)学生の反応

しかし今回、驚いたことに、前の席には座らず後ろに固まって、PCを見たり、下を向いて何かノートを取っているように見えた学生が、朴と私の話しにしっかりと向き合う感想文を書いていました。これまでの経験で、日本の学生の感想文は、講演者の意図を見抜き、それにうまく応える文書を書くと思っていた私は、彼らが私たちの話しをしっかりと受けめ自分の考えを書いてくれたように思います。

物事を深く考える「訓練」を受けていないという私に、加藤千香子さんは、そうではなく、深く考えない「訓練」を受けていると話されていましたが、今回の感想文は少し様子が違うようでした。

それは感想文が私たちの考えに近いというようなことでなく、私たちの話しの何に驚き、それに対して自分はどう思うのかという自分自身の感想、意見を書いていたことでした。

もちろんすべてがそうではありません。数行の感想しかないものもありますし、日本社会に差別がありそれに不満があるのであれば帰国するか、帰化すればいいという類のものもなかにはありました。数%、10%未満ですね。

やはり日本の教育制度と社会の中で深く考えさせない「訓練」を受けていても、若い人の感性は何かを求め、そして自分で考えて生きていこうという可能性を秘めているのだと思います。実際日本の大学は、理工科中心で教員を実務にしばりつける傾向が強いようですが、学生の可能性を受けとめ、さらに深めていく大学のあり方が求められると強く感じました。

(3)朴鐘碩の講演の感想

朴鐘碩の事前に準備された整然とした経験談、考えに関しては、日立との裁判闘争の間の苦みと、その後の日立入社後の経験にほとんどの学生が驚嘆していました。教科書に書かれた内容や日立闘争を知る或いは関わった人が、闘争の「成功談」的な要素、すなわち、日本人と韓国人が協力しあって民族差別と闘い、裁判においても、実際の運動においても勝利して入社したところまでしか語らないのに、学生たちは、入社後の朴の、言うべきことは組合や会社に対してもしっかりとものを言うという態度、生き方に共鳴しているようでした。自分が入社した会社で同じことが出来るだろうかという不安と、しかししっかりとものを言う生き方が実際、あるんだということを彼らは知ったようです。

実際に差別にあった当のご本人から、そのときの様子や心情をお聞きできるというのはとても貴重な体験だったと思う。今まで差別というのは形でしか認識していなかったが、生の声で経験団として語られる差別を認識するのは全く別物のように感じた。」

講義でスライドを見るのと、実際に話を聞くのでは伝わる言葉の深さが全然違うと思った。朴さんの話のなかで印象的であったのは、春闘や役員の選挙の結果が元々最初から決まっていたという話、そして原発メーカーである日立が原発事故に後も原発を作って輸出すると言っている、という話だ。あまりはっきりとは知らない事実がはっきりとわかった。

朴さんのお話を聞いて、実際に差別を受けた人の生の声を聞いて、差別は人を深く傷つけてしまうと改めて感じた。労働者抑圧の例話は、日本の戦争時代のような、「誰もあらがえない雰囲気」と言うものの存在を感じて、朴さんがいう「労働者と差別の関係性」が分かりました。

争っていた相手先に就職するというのはとても勇気のいる行動であったと思いました。そのような差別を受け、行動したという経験があったからこそ、職場のおかしいところを見抜いて行動をおこそうとしたことにつながったのであろうと考えました。

(4)私(崔)の話の概要

私は冒頭、「日本という国は日本人のものだと思っていないか?」という問いから話をはじめました。この言葉に多くの学生が驚いたようです。そんなことは当たり前で考えたこともなかったからです。次に私は、在日のような選挙権のない外国人も日本社会の構成員だと思うか、と問い、構成員であるならば自分が住む社会を良くしたいと思うのは当たり前ではないかと言い、具体的に「当然の法理」という政府見解によって、地方公務員の門戸は開放されたが外国人は課長以上には就けず、市民に命令する職務に就けないという全国の地方自治体の実態を説明しました。

それと原発事故を起こした原発メーカーには責任がないという原子力損害賠償法がいかにおかしいのかという話をしました。この原賠法のように法律で定められていてもおかしいものはおかしいと私たちが原発メーカーを提訴することができたのは、私たちが日立闘争勝利の後、川崎の地域で住民から、法律で決められているからといって同じ税金を払っていても児童手当や年金は日本人に限るというのはおかしいのではないかと尋ねられ、川崎市と交渉して児童手当などを勝ち取った経験があり、人権は法律よりも重要だということを学んだからだという話もしました。

(5)崔の話し対する学生たちの反応

崔さんの話で印象的だったのは、「日本は日本のものなのか?」「選挙権をもたない外国人は日本社会の構成員なのか?」という議論だ。自分の認識をもう一度見つめ直すきっかけになったと思う。法律よりも「おかしいことはおかしんだ」と言うことが大事、という言葉は特に印象に残った。

「私たち(韓国人)は日本の構成員なのでしょうか。」崔さんのこの言葉を聞いて、衝撃を受けました。税金を払っているのに、年金制度などの福祉を受けられない(受けられなかったー崔)、地方公務員のある一定以上の役職に就けない、原爆が落とされたとき、朝鮮の人は日本人よりも救いの手をさしのべてもらえなかった・・・。この事実より考えると、果たして日本の構成員といえるような立場であるのかと疑問が湧きました。これを聞いて思ったことは、大切なことはその事実を追求するよりも、現在の日本に住む様々な方々の「立場」を明確にすることだと思います。法律にせよ条例にせよ憲法にせよ、うやむやにしないではっきりとした言葉がもりこまれることを望んでいます。

崔さんのお話は私たちの中に無意識のうちにはびこっている差別や固定観念がこんなにも人種や国のちがう人を苦しめているのかとびっくりしました。

崔さんは3・11の福島事故原発事故で、国籍を超え日本社会を変革することを提案したが、日本の意見で多かったのが、「朝鮮人は日本から出て行け」というもので、外国人を排除しようという態勢はおかしいと思いました。在日外国人は日本にいれば当たり前の前のように税金を払うが、法律は日本人にのみ適用されるということで児童手当や年金が受け取れないという内容は明らかに差別だと感じました。話を通して、現在の日本でも外国人差別があることは明らさまであるため、国として差別を撤廃できるような政策は前向きに行っていくべきだと考えます。

(6)排外主義的、現実的な意見もありました

私たち二人の話に賛同した学生ばかりではないということも事実です。ほとんどが1年生なのに、政治活動は就職に「悪影響」があるという意見もあり、また帰化するか、帰国すればいいのにどうして出ていこうとしないのか、外国人への「ある程度の制限」は当然という意見もありました。ヘイトスピーチのリーダーのアジ演説が受け入れられる素地がここ(横浜国大)にもあると感じました。

二人目の人(崔)は何をこちらにさせたいのか全くわからない。あなたみたいに政治活動をしろとでも?それが就職に悪影響を与えると理解していながら?

外国人に対して日本人とまったくおなじように待遇をしてしまうと、どんどん日本に貧しい外国人が流入してしまい、日本を日本人以外の人に乗っ取られてしまう気がする。日本は治安もよく、製品も安心安全でインフラも整備されており、また賃金も高く住みすいからだ。そのため、外国人に対してある程度の制限を設定するのは当然のことだと思う。そのような制限が嫌だと言うのであれば、帰化するなり、自国に帰るなりするのがよいと思うが、どうして出ていこうとしないのだろうか。

会社が凝固して自浄作用がはたらかないんだなと思った。・・・日本国籍をとりづらいのかわからないが日本国籍とればいいのではないかと思った。

(7)横浜国大の学生の感想文を読んで

全体として感想文がよく書けているというより、率直な感想を書いてくれたなと思います。
代表的なものを下に記します。日立闘争の後も川崎での国籍条項撤廃(「当然の法理」)、そして3・11以降も原発メーカー訴訟を提起した二人は何か特別な活動家に思えたことでしょう。しかし加藤千香子教授の日本の近現代史の授業を選択した彼らは、彼女の考えから設定された戦後日本の民族差別の授業を受け、たまたま日立闘争の当該に出会い、原発体制に挑もうとする在日の話を聞くことになったのです。興味もあったでしょうが、「実物」の実際の話しに当惑し、何かこれまで聞いたことのないような考え方、生き方を知り、ある種の衝撃を受けたのでしょう。まさに加藤さんが願った結果があったと言うべきでしょうか。

しかし問題はこれからです。そもそも教育は上の者が押し付けるものではないと私は考えています。数回の授業や、数年の学校生活で「生き方」(主体性とか、アイデンテイテイでもいいのですが)をマスターしたり、教育なるものが上の思惑通り行くはずがないのです。あくまでも本人の生き方の問題だと私は思います。自分のこれまでを考えても、自分の子供を見てもそう思います。その意味で、私たちの話したことで学生諸君が何かを感じたり、考えたりするきっかけになったとすれば、私たちにとっては大きな喜びです。それ以上でも、以下でもありません。またいつか、どこかで出会うことがあれば、声をかけてください。

きょうのお二人の刺激的なお話は私の今までの価値観やものの考え方を揺るがすとても刺激的なものだった。お二人に共通している信念として、みんなが普通だと思っていること、見過ごしていること、当たり前だと思っていることに”おかしい”と疑問を持ち政府や企業に立ち向かう強い意志を感じた。とても貴重なお話を聴かせていただけたことをうれしく思った。自分の思い込みに疑問を持てるようになりたいと感じた。





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