2014年4月15日火曜日

日立就職差別裁判と原発メーカー訴訟ー朴鐘碩


朴 鐘碩 2014年4月12~13日 in 仙台

4月12(土)18:30~21:00 コリア文庫(仙台) 参加者8名
元教師、医師、飯舘村から避難した参加者、オモニ(母親)、コリア文庫の女性

1.日立就職差別裁判闘争DVD上映20分
2.朴鐘碩の話45分
3.参加者の意見・感想
●「日本における多文化共生とは何か」(新曜社2008年)の日立の職場の実態を読んで、どこの組織も同じ、医師会も同じ。
●オモニは、子ども就職で悩んだ。定年まで働き、まだ嘱託として働いていることに驚く。
●「当然の法理」という言葉は、初めて知った。川崎市は、人権施策が進んでいると思っていたが全く違うということがわかった。宮城県、仙台市どこの自治体も川崎市と同じように外国籍公務員に職務を制限している。
●仙台において県主催の防災会議が開かれ、世界から4万人を集める計画があるが原発事故は対象外だという。仙台は福島と女川の原発に挟まれている。行政のやり方はおかしい。参加者は事前にチェックされる。
(ほかにも感想がありましたが・・・)
DVDを見ながら、「日立闘争がどのような闘いであったか」を知り、皆さん驚いた様子。
青柳優子さんから「いい本です」と宣伝していただき、コリア文庫の皆さんの協力により事前に送付した「~多文化共生とは何か」11冊完売。

原発メ-カ訴訟の会in仙台
4月13(日)13:30~16:00 エル・パ-ク仙台 参加者32名
被曝避難し郡山からの参加者、前日も参加された内科医のKさんは職場の女性3人誘って参加、被爆者2世の物理学者であるKさん参加(懇親会にも参加)
1.参加者自己紹介(初めての方が多かったようです)
2.日立就職差別裁判闘争DVD上映(全員、驚いた様子で真剣に見ていた)
3.朴の話(前日と同じ原発メ-カ・日立の職場、労働者の実態、原告参加と会費、支援の御礼)20分

質疑応答
島昭宏弁護士:日立から採用拒否された時の気持ち、裁判するきっかけを知りたい。最初から大きな支援組織があったのか。
朴:私は貧しい家庭で育った。採用拒否されて崖から落とされた気持ちだった。何とかしなければならないと必死だった。日立と交渉したが結局物別れとなった。横浜駅でヘルメットを被った、べ平連の慶応の学生と出会い事情を話した。彼らが弁護士を探してくれた。最初の弁護士は、生き方を問われ辞退した。組織などない。何もないところから裁判は始まった。
この話をすると「そのことが聞きたかった」らしく身を乗り出すように参加者の皆さんは私を見つめ真剣に聞いてくれた(と思う)。その後、質問はなかった。
「~多文化共生とは何か」完売したため、青柳さんが本を紹介し、参加者に回覧してくれた。購入するためメモしていた人もいた。

島弁護士から本題である原発メ-カ訴訟・訴状内容(資料配布)説明。
1.訴訟経緯
2.民法709条に基づく損害賠償請求(過失)
3.PL法に基づく損害賠償請求(欠陥)
4.地震・津波に関する知見
5.耐震バックチェックの不備
6.老朽化
7.マ-クⅠ型の欠陥
8.損害賠償精神的苦痛\100の意味-世界中の人たちが原告になれる。
9.日本だけの問題だけでなく世界の原発体制との闘いであり、歴史的裁判となる。

【質問・意見】
●政府、東電に責任を求める裁判はあるが、原発メ-カの責任を求める裁判は世界で初めてである。メ-カに責任を求める方法がないか考えていた。この訴訟を知って原告になった。
●事故を起こして、人間の技術力では対応処理できなくなっている段階に達している。それでも原発メ-カは、国内で商売できないため輸出して儲けようとするなんて酷い話だ。被曝避難者への謝罪もない。
●放射能の影響と思われる症状が避難した400名以上の子どもたちに出始めている。
●東電の株主、融資している銀行に責任を求めることはできないか。
●被爆者が目覚めて人権を求めて成長する姿、今日の朴さんの人権を求める闘い、人権は与えられるものはなく生き方を賭けて勝ち取るものという話、島弁護士のわかり易い訴訟説明は深く繋がっている。原告になれたこと誇りに思います。
●私の隣に座っていた男性は、「メ-カ訴訟の会からmailをいただいているが、(送信者が)パクさん本人とは知りませんでした。驚きました。今日はいい話をきかせてもらいました。
●懇親会に参加できない(郡山)から参加した女性は、「いい話でした。時間が足りなくて話せなかったと思いますが、もっと職場のことを聞きたかった」
(他にも時間ぎりぎりまで意見・感想が出ましたが・・・)

懇親会 17:00~参加者13名
●「今日の集会はよかった。来てよかった。日立闘争と実際闘っている職場の話、島さんの話が繋がっていることがわかりました。初めてきくことが多かった。」
●「日立労組は堕落した。よく定年まで働きましたね。しかもまだ嘱託で働いている。普通できないことです。」
●東北大学大学院法学科に学ぶ韓国からの青年留学生は、「民団青年会が韓国人の人権を求める署名集めをしていましたが、パクさんも関係しているとばかり思っていました。民団とか青年会、民族組織から呼ばれていない?民族団体は、日立闘争知っていますよね。何故、民族団体とか民団の青年たちはパクさんの話を聞こうとしないのか不思議ですね。」「そうですね。同じように就職のこと、生き方に悩んでいる青年は少なくないと思います。」「パクさんは、民族の一員と思われていないのではないか」と島弁護士。(笑)


もっと談笑したいが、明日から日立の仕事が待っている。横浜に帰らなければならない。私の話は、本当に「よかった」のか、わからない。「全体としていい集会だった」と主催したコリア文庫の青柳純一・優子夫妻、関令子さんも語っていた。
新幹線の中で、震災後、気仙沼と大島にボランティアに行ったことを思い出した。

~「日立就職差別裁判」と「原発メ-カ-訴訟」~
朴 鐘碩 2014年4月12~13日 in 仙台


40年以上前の日立闘争のビデオを見ていただきましたが、現在の朴鐘碩です。よろしくお願いします。当時、東北大学の学生に招かれて仙台で話したことがあり、今日、こうして話す機会を与えて下さった関係者の皆さんに感謝します。

ビデオは、私が日立に入るまでの4年近い記録です。日立闘争後、日立に入った朴はどうしているか、職場で何をしているのか、何を考えて生きているか、現在の社会状況から何が見えたのか、という声に応えたいと思います。

2011年3月11日、東日本大震災・福島原発事故から8ヶ月後の11月末、定年退職しましたが、現在、横浜・戸塚にある日立のコンピュ-タ関連の職場で嘱託として働いています。

4年近い裁判闘争を経て、74年6月19日横浜地裁で勝利判決が出て、私は22歳で日立に入ったわけですが、職場で感じたことは、「民族差別・人権と全く関係ない」現実と乖離した異様な雰囲気でした。

勝訴したものの、闘争してきた私がこのような環境でいつまで働くことができるか、長くて2~3年だろう、我慢できなかったら辞めようと考えていました。

日立製作所は、日立鉱山を発端にして、朝鮮半島が日本の植民地となった、1910年に創業しています。
100年以上の経営の歴史を持つ日立は、現在、世界中に事業を展開しています。国家を支える国旗・日の丸を掲揚し、その下に「HITACHI」があります。3万人近い所員と千社を超える関連会社の総従業員数は約35万人と言われています。家族を含めると日本の人口の約1%に相当します。

日立は東芝、三菱に並ぶ原発メ-カです。日本にある50基以上ある半分近い原発を電力会社に納入しています。その一つが事故を起こした東京電力の福島原発です。3.11以降も地震が頻発している福島・茨城の海岸沿いには日立とその関連企業があります。

戦前の日本のエネルギ-政策は、炭鉱、ダム建設、送電網、資材輸送の鉄道敷設などインフラ整備が重要課題でした。最も危険な土木工事現場には、「枕木一本に朝鮮人一人」(「朝鮮人強制連行の記録」朴慶植1971年・未来社)に匹敵する、強制連行した朝鮮人、中国人の労働力が必要でした。仙山線が知られています。

日本の大企業の多くは、植民地となった朝鮮半島、満州で莫大な利益を上げ、朝鮮人・中国人労働者を酷使して労働力不足を補いましたが、こうした歴史は企業の社史に書かれていません。同時に国策による戦争で新天地を求めた多くの日本人民衆が犠牲となりました。

被曝労働(者)の実態は不明ですが、福島の事故現場は、多くの労働者が廃炉・収束工事に従事しています。今後どれだけの労働者が被曝するか、未知数です。核物質による高い放射線量、20万人近い避難者への賠償、海洋への汚染水垂れ流し、使用済核燃料処理など難問が山積みとなっています。

被曝避難者への賠償金、収束工事費用は、値上げされた私たちの税金と電気料金よって支払われています。廃炉の見通しがないのに、メ-カは、この工事で利益を得ています。

工事は、利権が絡んでいます。東京電力はじめ原発プラントを納入した日立、東芝を筆頭にいくつもの関連、下請け会社が連なっています。高濃度の現場で従事する最も弱い立場の末端労働者が被曝します。東電、日立、東芝などの正規労働者は安泰です。植民地的経営は、現在も続いています。

私は日立でコンピュ-タソフトウエアの通信プログラム開発に従事していました。当時のコンピュ-タシステムはハ-ドウエアに適合した言語で作成された、いくつものプログラムが組み込まれて動作します。プログラムの不良で証券・金融のオンライン業務が停止すれば一大事です。その責任はメ-カにあります。疑われるシステム開発担当者は原因が判明するまで帰宅は許されず、徹夜作業が何日も続くこともあります。体力と神経が犯され、職場で倒れたり、入院するエンジニアもいました。

原因が判明すればエンドユ-ザへの報告、不良を作成したプロセス、技術および動機的な原因を徹底的に追求します。不良を作った担当者およびその上司は、他の業務は停止し、事業所幹部に報告するドキュメント作成に追われます。日立の不良製品への責任と品質確保は徹底しています。

原発事故の責任が問われているのは、政府と東京電力だけではありません。1961年に施行された原子力の賠償に関する法律(原倍法)で原発メ-カの製造物責任法が適用されない規定がありますが、福島の自然、住民の土地、財産を奪ったメ-カの社会的・道義的責任は問われなければなりません。

40年前、本社糾弾闘争で日立製作所は、民族差別を謝罪しましたが、事故から3年以上経つのに、経営陣から犠牲となった福島の住民への謝罪は一切ありません。

日立は、事故原因を明らかにせず、リトアニアに輸出しようとしています。三菱・東芝もインド、べトナム、トルコ、中東、東欧に輸出する計画です。

この「日本における多文化共生とは何か」で書きましたが、日立の労働者は、資本の論理に従い、黙って上司から課せられたノルマを遂行するだけです。職場で「原発事故」について語ることはありません。誰もが口を閉ざします。

私が疑問に思うのは、これから何十年・何百年も世界中に放射能を撒き散らす日立の経営者、経営者に従う組合幹部は、土地・財産を失い、エネルギ-政策の犠牲となった避難住民のことを考えないのか、原発事故について何故沈黙するのか、ということです。

私が日立に入った後、「日立闘争の朴は、会社に埋没して管理職となり、安定した生活をしている」「闘争までして差別の壁を破ったのだから、大人しく黙って働いた方がいい」「会社・組合を批判したら、企業は朝鮮人を再び採用しなくなる」などの声を聞いていました。

裁判までして入社し定年まで働き、その後も嘱託の身分で原発メ-カ・日立で働く私は、生き方に悩み、幾度も決断しなければならない状況がありました。

入社して、5年後、胃潰瘍で1ヶ月入院しました。退院後、企業社会で人間らしく生きるためには、「間違っていてもいいからおかしいことはおかしいと言う勇気と決断が大切だ」と開き直り、組合の職場集会、打合会議で発言するようになりました。一度も当選しませんでしたが、会社と組合から厳しく監視される中、組合役員選挙にも出ました。

植民地に民主主義はありませんが、企業社会も民主主義は存在しません。日立製作所に労働者の権利を守る労働組合があり、役員選挙が実施されます。その実態は、職場と候補者名だけが掲示され、組合活動に関心もない、所信表明もしない、ものを言わない、会社の意向に沿った組合員が立候補する、というよりも、させられています。ですから候補者は、経営者に原発事故の責任を問えません。

組合員の声を反映しない組合(幹部)のやり方に我慢ならず、私は、日立本社で開かれた労使幹部の春闘交渉現場で閉鎖的な組合の体質を批判したことがあります。

おかしいことはおかしいと会社・組合を批判してきた私は、愛社精神の意思表示として、日立の会長・社長に抗議文・要望書を提出し、原発メ-カとしての社会・倫理的責任、被曝避難者への謝罪、原発事業からの撤退、輸出中止、廃炉技術・自然エネルギ-開発への予算化を求めましたが、会社は沈黙しています。

また、東京駅前にある日立本社に対して海外からの参加者と共に「リトアニアへの原発輸出に抗議」しました。
原発事故から3年目となった3月11日、日立資本の城下町である日立市中心街で、日本の青年たちと共にこのプラカ-ド(日立・GE許せん 原子炉製造/ストップ ストップ 日立・GE)「反原発、輸出反対!」「日立の労働者は、目を覚ませ!」「日立の経営陣は被曝避難者・子どもたちに謝罪しろ!」と繰り返し訴えました。

しかし、日立の労働者は、原発製造・輸出に疑問を感じても、業務に追われ、自分の将来を考えて沈黙します。「技術が進歩すれば差別はなくなる」と言うエンジニア・労働者もいます。日立に限らず企業社会で生きる多くの労働者・エンジニアは、人権感覚が麻痺しているのではないか。これが戦後・民主主義教育を受けた、民族差別と原発事故を起こした企業で最新技術を開発するエンジニアの姿です。

日立就職差別裁判が起こったとき、労働者の権利を擁護する日立労組幹部はじめ多く労働者は見て見ぬふりをしました。何故、彼らは沈黙したのでしょうか。多くの犠牲者を出した原発事故に対する沈黙と通じています。日立闘争が始まった頃と現在の日立の経営体質は変わっていないということです。

私は、定年まで日立に勤めましたが、そこで解ったことの1つは、「労働者にものを言わせない労働環境、組合・平和・人権運動は、差別を助長し排外主義を強化する。他者及び外国籍住民を抑圧することは自らを抑圧する」ということです。昨年10月に亡くなった西川長夫元立命館大学教授が書かれた、この「植民地主義の時代を生きて」を読んで、私は、労働者に沈黙させる経営こそ「企業内植民地」であると理解しました。相手国の住民への差別・人権弾圧で犠牲を強いる原発輸出と資本のグロ-バル化は、「植民地を拡大」します。

私(たち)は、植民地なき国内植民地、企業内植民地で生きています。(民族)差別を糾弾し、日本の戦争責任を求めた日立闘争は、植民地主義との闘いでした。

企業が人権侵害、不祥事を起こしても経営者の責任よりも労働者一人ひとりの「自己責任」が問われるような雰囲気が職場に漂っています。エンジニアたちは、余計なことは考えず、与えられた仕事を黙ってこなすことが自分の使命であると思っています。

ものが言えない正規労働者、雇用の調整弁として、低賃金で働く非正規・派遣・外国人の労働市場は、経団連・グロ-バル企業にとって「広大な植民地」と言えます。

事故の反省もなく平気で原発輸出を目論む日立の経営、抗議の声も出せない労働者、排外主義などの問題は全て根が深く繋がっています。韓日併合の1910年に始まった、労働者に沈黙を強いる日立の植民地的経営は、戦後、人間性よりも効率と利潤追求を優先した原発体制に繋がり、原発事故は、核開発と植民地主義が絡み合ってつくりだされた国民国家の権力犯罪です。

企業の経営者が不祥事を起こすと、マスコミは従業員の声を聞こうとしますが、彼らは沈黙し足早に去っていく場面を皆さんはTVで何度も見ていると思います。

企業社会は、「言論の自由」が保障されていませんから、企業の不祥事・談合・偽装のような犯罪があっても、経営者を公に批判する労働者は殆どいません。(籾井勝人NHK会長の)経営哲学を気楽に批判できる、開かれた風土、風通しの良い企業文化は企業社会に存在しないと言っても過言ではありません。
 
敗戦から70年近くなりますが、労働者に沈黙を強いる上意下達の企業社会は、民主主義が育ちません。
経営者と組合幹部が「労使一体」という「共生」を謳い、育てないようにしています。

戦後の労働組合・反戦・平和運動から、何故戦争責任が問われなかったのか、これが一つの要因でもあります。日立に限らず、企業・自治体・教育現場・マスコミなどどこの世界・組織も同じような状況だと思います。企業社会は依然として何も変わっていないと言えます。

3・11後、多くの市民、住民が反・脱原発を訴える中で、原発体制を維持する経団連は、相変わらず原発に依存し利益と生産力を上げようとしています。

企業社会で戦争責任が問われなかったのは、籾井NHK会長の発言ように傲慢な経営体質があります。国民国家の強化を狙った、住民を騙す国策を無条件、無批判に受け入れ、それに沿った経済、利益、効率、生産を優先し、国内/国外問わず植民地の下で犠牲となった人々への視線が全く欠けています。

その具体例があります。日立裁判の勝利判決から5年後(1979年)、東京に本社を置く経団連企業は、「差別図書である「部落地名総監」の購入、採用にあたっての差別選考等の反省を契機として、それぞれの企業が差別体質の払拭に取り組む」東京人権啓発企業連絡会(通称・人企連)を発足しています。126社(2013年10月)が加盟しています。致命的な原発事故で世界の人々の人権を侵害した東京電力、原発メ-カである日立・東芝・三菱も加盟しています。

役員には、企業だけでなく部落解放、人権運動体からも役員、理事に就任しています。これは企業が運動体を包摂する「共生」です。

1996年12月、アジア侵略した事実を歪曲・隠蔽する「『新しい歴史教科書をつくる会』の声明」が出ましたが、人企連に加盟している経営者も賛同しています。

人間を抑圧する「あらゆる差別の撤廃にむけて取り組む」会長・社長は、「つくる会」に抗議する立場にあるにも拘わらず、何故、賛同したのか。私は、「東京人権啓発企業連絡会を糾弾する!」抗議文を提出しました(1997年7月31日)。役員となっている解放同盟、運動体から抗議はありませんでした。

川崎市南部地区は、多くの外国籍住民が居住しています。公務員になるための国籍条項撤廃、選挙権のない外国籍住民の声を市政に反映する名目で設置された外国人市民代表者会議、地域の住民と共に生きる「ふれあい館」建設など、「共生」を賛美する人にとって、川崎は、「人権・共生の街」として、一時知られるようになりました。

しかし、2002年、当時の阿部孝夫川崎市長は、「日本国民と、国籍を持たない外国人とでは、その権利義務において区別があるのはむしろ当然のこと」「会員と準会員とは違う」と、市長は戦争したがっているのか、戦争に行かない「外国人は準会員」と発言しています。

また、法律でもない、単なる国・政府の見解にすぎない「当然の法理」(国籍)を理由に、採用した外国籍公務員に許認可の職務、決裁権ある管理職への道を閉ざした、この「外国籍職員の任用に関する運用規程」を作って日本に差別制度を確立したのが川崎市です。

川崎市が作った「運用規程」は、100ペ-ジ以上に亘って、外国籍職員に制限する職務と理由が記されています。これは労働基準法3条(均等待遇)に違反し、明らかに労働者の権利を侵害しています。ところがこのマニュアルのサブタイトルは、「外国籍職員のいきいき人事をめざして」となっています。

日の丸を常時掲揚するために新たにポ-ルを設置した川崎市は、「当然の法理」で外国籍住民を「2級市民」扱いする「運用規程」を作りました。

外国籍の青年は、事故や震災時、人命救助する消防士に就けません。また正式教員でなく非常勤として採用され、管理職である教頭・校長に昇進できません。

戦後の原発体制と「当然の法理」で外国籍住民を「2級市民」扱いすることは、植民地なき国内植民地主義です。植民地が新たな植民地を生むのです。

「運用規程」は作らなかったものの、被災した宮城県、仙台市はじめ東北の自治体、米軍基地撤去、移転を求める沖縄など全国の自治体は、この川崎方式を採用しています。皆さんが住んでいる自治体を調べて戴ければその実態がわかります。「運用規程」、差別制度は、自治体首長の裁量で撤廃できます。

西川長夫教授は、「植民地主義の時代を生きて」の中で、一国だけの「平和・人権」を求めた闘いが、逆に民衆を弾圧する歴史を再生産していることを指摘しています。

「『フランス革命史』に描かれている、アナカルシス・クローツという奇妙な人物がそれぞれに民族衣装を着た20人ほどの外国人を連れて立憲議会を訪れ、連盟祭への参加を要請する面白い場面を引用しました。

クロ-ツはラジカルなジャコバン派として活躍しますが、フランス革命がフランス国民の革命でなく全世界の人類のための革命であることを要求し、つまりフランス共和国を否定して最後には外国人スパイとして、ロベスピエ-ルによって告発され処刑されます」

これは、「国民/外国人という区別を作った」、「自由・平等・友愛」を目指したフランス革命は、排外主義を克服できなかった、ということです。一国主義の平和・人権運動は、愛国・植民地主義を再生産するということです。

この課題は、克服されなければありませんが、上からの「共生」イデオロギ-、自らの生き方を問わない、安易な平和・人権運動では、排外主義、戦争責任を克服できないのです。

外国籍住民を2級市民扱いする差別制度に沈黙することは、当事者主権を失う植民地主義です。反原発、反核、反差別、反格差、「反植民地化は、個々人の生き方、自分がどう生きるかの問題」ですが、開かれた地域・企業社会をつくるために、私あるいは「私たちは現在の植民地主義と闘わなければならない」と思います。

戦後の原発体制は、国内植民地主義に繋がりましたが、これを打破するためには、自分は一体何者か、どのような立場にいるのか、見つめ直す必要があります。

国民国家という怪物に騙されない、国家・権力者によって歪曲された歴史に翻弄されない生き方をするためには、人間を差別、抑圧する既製の法律、常識、価値観に囚われず、自分自身が何をすればいいか、悩みながら行動すればいいと思います。

国民国家・植民地主義と対峙し、抵抗するためには一国主義に陥らず、弱者に犠牲を強いる原発体制、それに抵抗する住民との国際的な繋がり、連帯が不可欠です。

日立就職差別裁判闘争のように「蟻が象を倒す」ことができるのです。つまり、歴史は作られるものではなく自分で作るもの、人権は与えられるものではなく生き方を賭けて自分で獲得するものである、ということです。

権力、組織は、民主主義を建前にして「中立・公正な手続きの幻想のもとに、集団の意思決定が行う抑圧をも正当化」することは、私は日立の職場で何度も経験しています。しかし、「少数者あるいは個の運動は、これとは対極の、直接民主主義と市民的不服従を揚げ」(西川長夫)、新しい歴史を創出します。

事故を起こした福島原発を造ったメ-カ日立・東芝・GEを被告として、道義的・社会的責任を求め、1月30日、東京地裁に提訴しました。訴状は、原発メ-カ-訴訟の会HPからダウンロ-ドできます。

原告は日本をはじめ韓国、台湾、ドイツ、フランス、アメリカなど39ヵ国から4000名以上の訴訟委任状が集まっています。日本国内では1,400名を超えています。現在、メ-カに責任を求める100万人の署名を集めています。最高裁まで続く原発メ-カ-訴訟の支援・協力よろしくお願いします。
原告、サポ-タ・カンパいただいた方々の中には、申し訳ないですが事務局から礼状を送っていない方もあります。少しずつ整理して処理しますのでご了承願います。ご清聴ありがとうございます。
No.345 - 2014/04/14(Mon) 22:36:11

1 件のコメント:

  1. 朴さん
    仙台での二日間、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
    40年以上も前、まだ高校生だった時、差別について考える契機となったのは「朴君を囲む会」のチラシをもらってからでした。まだ、10代でしたから、とにかく鮮烈な記憶として残りました。
    ですから、朴さんが原発メーカー訴訟の会の事務局をなさっているということ、さらに日立で退職後も働いていらっしゃるということを聞き、どれほど驚いたかしれません。
    日立就職後はどうだったのか、そして現在の活動についてのお話を聞くことができ、本当に感激です。
    メーカー内部から原発製造・販売をどう捉えるかという問題提起は根本問題を明らかにするものです。企業内植民地主義という言葉は的を射たものだと、感服いたしました。口があっても、身を守るために何も言えないし言おうとしない、これはさまざまな現場に共通するなあ、と感じました。
    それにしても、朴さんの明るく鷹揚な人柄と鋼のような強い意志力、そして、ものごとを根源的に問い続ける姿勢。あくまで真っ直ぐに生きていらっしゃる方なんだ!、と、わが身を振り返って反省しつつ、40年の歳月の重みを深く感じずにはいられませんでした。
    一緒に参加した友人たちからも、「日立闘争は全く知らなかったので、ホントにすごい人がいるんだねえ」と感心しきりでした。また、「島さんとお2人の組み合わせも絶妙で、お二人共に話が分かりやすく、引き込まれました。参加して良かったです。」とのことでした。
    「ノーニュークス権」という言葉に、久々に胸の中がすっきりする思いです。
    また、お2人のお話を拝聴できる機会があれば、と願っています。
                                      40年前女子高生だったSより    

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