2013年7月13日土曜日

「自らの足場を持ち、問いを立て、考えてきた人たちに聞いた」、朝日新聞の好企画です

朝日新聞(7月13日)2013参院選 オピニオン 日本の現在地、「自らの足場を持ち、問いを立て、考えてきた人たちに聞いた」、いい企画です。「被害者意識が増幅している」蓮池透、「安定を求め、失われた自発性」五味太郎、「「心を一つに」気持ち悪い」中村うさぎ、「優しさの保守政治、どこに」熊坂義裕が応えています。

蓮池透:「被害者意識というのはやっかいなものです。私も、被害者なのだから何を言っても許されるというある種の全能感と権力性を有してしまった時期があります」、「拉致問題を解決するには、日本はまず過去の戦争責任に向き合わなければならないはずです。しかし棚上げ、先送り、その場しのぎが日本政治の習い性になっている。拉致も原発も経済政策も、みんなそうじゃないですか」。

五味太郎:「「選挙に行かなくては」なんてしたり顔で言う人は、実は民主主義を理解しているポーズをしているだけ。民主主義の根幹って選挙(政治ー崔)に参加することじゃない。「個人が意見を言える」ってことなんだよ」、どうすれば、みんなが自発的に選挙に参加するのか。もう選挙じゃないでしょう」。

中村うさぎ:「私が恐れるのは、マチズモ(男性優位主義)的権力者のルサンチマン(怨念)が作り出す「物語」なの。「俺の人生、否定されている物語がある」って思っているレベルなら許せるけど「中国や韓国の横暴に対し、力を合わせて正義の戦いを」みたいな、一部の権力者にとって気持ちいい物語に国ごと巻き込んでいいのかってことよ」、「ところでさ、今の日本てさ、何でメチャクチャなことを言う自分が恰好いいみたいなナルシストや、強権的で抑圧的な自称愛国者が強いリーダみたいにもてはやされてんの?ホント、バカじゃないの?


私の意見―在日は日本社会では確かに被害者です
蓮池透さんの意見は今日、北朝鮮の拉致事件という、国民的な課題になり日本人のナショナリズムを高揚させてきた事件を当事者でありながら、冷静に分析しているという点ではとても好感がもてます。

「在日」として日本社会の差別構造を告発してきた私自身にとって現在、「朝鮮人を殺せ」という在特会の動きが続き、朝鮮学校への差別、地方公務員への門戸を開放しても、市民への「公権力の行使」を禁じた「当然の法理」を前提に管理職への昇進を認めず、職務の制限をすることを制度化した「当然の法理」の実態など、在日への差別が制度化・構造化されていることを批判するのは当然のことです。

在日は地域社会の一員ですー民族主義批判
しかし3・11で自然災害や原発事故の場合、国籍・民族に拘らず人は一緒に死ぬ、一緒に被害を受けるということを知った私は、日本社会の差別の問題を被害者の立場だけで問題にしてはいけないと考え始めました。差別・抑圧を受けた者は、それを生みだす社会の構造の問題を皮膚感覚で敏感に感じ取ります。だからこそ、そのような差別、抑圧を生みだす社会構造を、加害者の立場にいる人たちとも一緒になって変革していかなければならないのです。

私たち在日もまた地域社会において、例えば川崎の場合、津波が来れば海水と共に石油コンビナートの油が市街地にまで押し寄せます、北部では崖崩れは必至です。それは自分自身と家族を守るためにも、自分の問題として、選挙権があろうとなかろうと、市民・住民として地方自治体に働きかけるという意味での「政治」にかかわらざるを得ないのです。

ナショナリズム(国民国家)意識はそれを内政干渉として退けます。日本人だけでなく、在日自身がです。在日は民族を掲げるところは北も南も、また「共生」を看板にするところも押しなべて地域の住民の命に係わる問題に積極的に関わろうとしません。この民族主義は克服されなければいけないと、私は考えます。マイノリティとマジョリティの関係性を問題にする視点からは地域そのものを変革する具体的な行動は生まれません。

川崎では毎日出るゴミと下水道の汚泥の焼却灰は高い放射線量のためにこれまで東京湾の埋立地に積まれていましたが、いよいよスペースもなくなり、国と市の合意の上で、焼却灰は埋立に使われ、そこから東京湾への汚染海水の流出が始まっています。川崎の各政党は市当局の政策を是認しました。東京湾の生態濃縮はない、焼却灰の海面埋立には問題はないというのです。しかし本当にそうでしょうか?

水道水並にすればいいじゃないか、しかしいくら薄めても放射能は残り濃縮されていきます。東日本全体が放射能に汚染されているなかで川崎だけできれいごと言ってもしかたがない、大津波が来ればみんな死ぬしかないじゃないか、川崎住民からこのような話を私は何度も耳にしました。そこに流れているのは「諦念」です。しゃーない、どうしようもないんだよ、だって行政が決めたんだから。これを変えるのは、地域住民が自ら地域主権者として行動をおこすしかないのです。はっきりと言います。その住民として声をあげるのに、国籍とか民族は関係がないのです。

加害者性について
もう一点、被害者意識について言及します。それは絶対的なものではない、被害者も同時に加害者になっているという現実を受けとめる必要があります。日本の差別社会にあって被害者である在日は同時に、日本という国が中央が地方を支配・搾取するという構造の中で推進されてきた原発を認めその便利さを享受してきました。原発輸出によってそれを受け入れた国々の市民の加害者になるという現実もまた受け入れなければならないでしょう。

日本社会は広島・長崎での原発投下による被害者意識の共有化によって、植民地支配の加害者であったという事実を忘却していました。そして今、3・11によって原発の被害者として原発の再稼働反対を謳います。しかしそのとき、日本政府のトップ外交の支援を受け原発メーカーが原発を海外に売りまくろうとする動きにどれほどの人が再稼働反対と同じように積極的に立ち上がろうとしているでしょうか。

在日はどうでしょうか、私たち自身が直面する差別の現実を訴えながら、同時に、私たち自身が直面している加害者になっている現実に反対の声をあげているでしょうか。差別を生みだす、そして被害者をうみだす社会を私は植民地主義と捉えます。(参考:西川長夫著『植民地主義の時代を生きて』)

結論
在日は植民地主義の被害者であると同時に、戦後の植民地なき植民地主義の加害者になっているという現実をしっかりと受け留めたいものです。そのことは韓国も同じです。日本の植民地支配の清算がされずその被害者の問題(従軍慰安婦、被爆者1・2世、強制労働の賃金未払い)があると同時に、韓国もまた輸出促進という大義名分のもとで原発輸出を進めています。原発建設・輸出は現代の植民地主義であり、韓国もまたその加害者の立場にたっています。

これらの複雑にからみあった問題は、結局のところ、人が人として触れあい、対話を通して問題の所在をみつめ共に社会構造、社会矛盾を糾すべく共闘するしか道はありません。
市民による国際連帯、地域住民による地道な活動を続けるしか国民国家を克服していく道は開かれないと思います。

6 件のコメント:

  1. こんにちは、はじめまして。

    引用部の以下、誤字だと思われます。

    五味氏
    「選挙(政治ー崔)」→「選挙(政治一斉)」?
    「みんあが」→「みんなが」

    中村氏
    「李サンチマン(怨念)が」→「ルサンチマン(怨念)が」
    「事象愛国者」→「自称愛国者」

    返信削除
  2. どうありがとう、訂正しました。

    ただし、五味氏
    「選挙(政治ー崔)」→「選挙(政治一斉)」?
    これは原文が「選挙」だったのを、「選挙」を「政治」に言い換えられるという
    私の意見を言いたかったのです。わかりにくかったですね。内容に関しては
    いかがですか。

    返信削除
  3. >これは原文が「選挙」だったのを、「選挙」を「政治」に言い換えられるという

    あ、そういうことですか。これは勘違いしました。
    ただ、ここは五味氏の引用部分でしょうから、文中に注釈のない追記や解釈は適切ではないと思いますよ。

    内容については総論としては特に異論はありません。
    川崎市の水道汚染の問題についてはよく知らないので、そのまま在日の民族主義批判に絡めて書かれていることにはうまく論評できません。
    もちろん、地域社会としての共生・共存が「民族主義」によって妨げられるという論はありえることでしょうが、それが「在日」の問題であるにしても、「両義的」でもあるように思えます。
    氏は「在日は民族を掲げるところは北も南も、また「共生」を看板にするところも押しなべて地域の住民の命に係わる問題に積極的に関わろうとしません。」と書かれていますが、それは「民族を掲げる」ことによって、あらかじめ「積極的に関わる」ことから「排除」されている側面もあるのではないでしょうか?
    少なくとも歴史的にはそうであったわけだし、現実に権力として作用するそういう「地域住民」はいるわけです。
    そこでもし「民族を掲げるな」というのであれば、それはそれで「民族性の抑圧」として作用するでしょう。

    過度な民族主義は当然私も不要だと思いますが、在日の「民族を掲げる」ことが社会とのつながりを制限するのであれば、それこそが「国民国家」の「国民国家」たる所以であるという視点は必要だと思います。

    返信削除
  4. 適切なご指摘だと思います。五味氏の引用部分に私の見解をカッコにいれた私の名前を表記したとはいえ、誤解が生じますよね。

    適切なご指摘な書いたのは、以下の点です。「氏は「在日は民族を掲げるところは北も南も、また「共生」を看板にするところもおしなべて地域の住民の命に係わる問題に積極的に関わろうとしません。」と書かれていますが、それは「民族を掲げる」ことによって、あらかじめ「積極的に関わる」ことから「排除」されている側面もあるのではないでしょうか?」

    「共生」は今や日本政府の「統治」と同じ意味のものでありながら、あらゆる団体が使うようになった単語です。民族主義で「共生」を掲げないところはありません。私は「共生」は現代の植民地主義のイデオロギーだと認識しています。

    地域社会における「共生」を唱えるのなら、住民全ての生命に関わる問題にしっかりと関与しようぜと私は言っているだけです。しかしあらかじめ在日として「排除」されてきた歴史を経験してきた民族団体及び個人が、そのために自分に関わる問題以外の地域社会の問題に関与しないという背景に、日本社会の排外主義が在日の「疎外」、躊躇を生みだしているのだと私も思います。

    しかしその壁を乗り超えるのは実は簡単だと私は思っています。自分自身と自分の家族の命を守るのに何の躊躇がいりましょうか。政治参加は選挙だけではありません。住民主権、地方自治の自立が建前のこの社会にあって、私たち在日を含めて変革すべきことは実は多くあります。選挙という制度しか政治参加と思われていないところが実は一番肝心な点だと考えています。

    貴君とはいろんな意見・情報交換をしたいですね。よろしくお願いします。

    参考までに:
    「在日」の生き方と地域問題への関わり方ー病んでいるのは日本人社会
    http://oklos-che.blogspot.jp/2012/04/blog-post_08.html

    返信削除
  5. 返信どうも。

    >選挙という制度しか政治参加と思われていないところが実は一番肝心な点だと考えています。

    もっといえば、「選挙」自体さえ形骸化して「政治は勝手に動く」かのごとき錯覚と無関心、現状追認の問題でもありますね。

    >貴君とはいろんな意見・情報交換をしたいですね。よろしくお願いします。

    たまたま記事引用サイトからのリンクで読ませていただいたので、実はなかなか読む機会がありませんが、またコメントさせていただくこともあるかもしれませんので、そのときはよろしくお願いします。

    返信削除
  6. 追記。

    ちなみに、私が「脱/反原発」について最も多くコメントした記事はこちらです。

    http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20110616

    コメント欄のハンドルはrawan60で、一昨年のものですが、「原発と植民地主義」の観点においても論じられていますので、お時間のあるときにでも。

    返信削除