2013年7月1日月曜日

福島原発事故と沖縄米軍基地問題から 見えてくる日本の深層と宣教の課題ー渡辺信夫

No Nukes Asia Actions(NNAA)をNPO法人にしようと決定してから最終的に理事長になってくださる方がいらっしゃらなくて困っていたときに紹介されてお会いした方が渡辺信夫さんでした。昨日、私のブログでもご紹介させていただきました。

原発を問う教会、原発から問われる教会 戦争罪責と原発問題 ー渡辺信夫
http://oklos-che.blogspot.jp/2013/06/blog-post_130.html

渡辺さんがメールで送ってくださった「常陸・いわき地区」で話された内容をみなさんにご紹介させていただきます。本当にNNAAのNPOとしての出発にふさわしい大先輩にお会いでき、理事長になっていただけるようになったことを心から感謝いたします。 崔勝久




福島原発事故と沖縄米軍基地問題から
見えてくる日本の深層と宣教の課題
2013.6.11.
常陸・いわき地区 
牧師・信徒研修会
渡辺信夫

 先般、3月11日、いわき市に来て、住吉英治先生とお会いした時、この地区で「今回の大震災と原発災害を経験した者が、これまでやって来た宣教の仕方や生き方のままで良いのか」という問い直しが始まっていることを聞いた。私も一昨年來、同じ問題を頻りに考えているので、出直して、話し合いに加わりたい、と申し上げた。私自身は津波の被害も、放射能被害も受けていず、関心があるとはいえ被害の当事者ではない。だから、被害の渦中に置かれている人と同じように問題を把握しているとは言えない。この欠けを少しでも埋めるために、分かち合いに与らなければならない。――これが今日伺った動機である。

 ただ、来て学ばせて頂くに当たって、私の方から何かを先ず語らなければ礼儀に適わないのではないか。一緒に考える仲間に加えて頂く挨拶として、自分がこれまでどういう生き方をして来たか、何を考えて来たかについて、ささやかな陳述をして置く方が良いのではないかと思った。ところが、私の思いとは違って、こちらの先生方はもっとスケールの大きい題を掲げた講演会の企画を進めて来られた。私はたじろがざるを得ないのだが、準備されている位置に就いて課題に取り組む他ないと考えている。

     第一の敗戦と第二の敗戦
 2年前の3月11日のことから話を始める。私も地震を経験し、それはこれまでの生涯で感じた最大の揺れであったが、被害は何もなかった。しかし、続いて何が来るかは常識でも予知出来たから、テレビのスイッチを入れた。それから何時間もニュースを見続けことになった。

 津波が港や市街を襲って呑み込んで行く場面が眼前にある。同じ時刻であるのに、一方では生死を分ける惨事が起こっており、他方、全然痛みに遇っていない私がいる。私は見ていながら、何も助けることが出来ない。胸が痛むのを覚えた。

津波の映像をリアルタイムで見たのは生れて初めてであるが、かつて見たある情景と重なり合う感じを禁じ得なかった。では、かつて何を見たのか? これは戦争の話になるが、輸送船団が潜水艦の襲撃を受けて一挙に壊滅する情景である。護衛艦は側にいるけれども、潜水艦に爆雷攻撃を加えることは出来ない。そんな事をすれば、海上に逃れた遭難者の生存の余地がなくなる。何も手が出せず、右往左往する他ない。詳しい話は今日は省略する。私は何度もこういう場面を見ていた。その護衛艦に私は乗っていた。すなわち、みすみす多くの人員と資材が沈んで行くのに、手も足も出ない。大きい喪失感に打ちのめされた。

 その場面を思い起こした時、咄嗟に「第一の敗戦」に対する「第二の敗戦」という語句が頭に浮かんだ。「第一の敗戦」を感じた場合に就いて言うならば、必ず敗けるという覚悟はすでに心に決めていたが、一船団の全滅が目に見える情景として示された時、こういうのが敗戦なのだと悟ったのである。その後何カ月かして8月15日、無条件降伏の日になった。予想していたから、動揺はない筈だのに、ショックは激烈で、そこから生き方を変えざるを得なくされたし、この転換を元に戻そうと企てることは最早起こらなかった。
「第二の敗戦」という句は、3・11の後、一時期、評論家の間で流行語のように広まった。私も幾つかはそういう文章を読んだが、私の読んだ限りでは、筆者たちは第一の敗戦を、当事者として経験しておらぬ人、もっと若い時の体験者ばかりであった。その人たちを貶す心算はないが、私とは随分違う。敗戦の時、まだ子供だったから、何も分かっていなかった、と彼らは言う。その通り、彼らは「責任」を思うことなしに衝撃を味わった。しかし、それが出来ない立場に私はいたのである。

その前年の暮れに海軍少尉になった。将校としては最下級だが、軍隊組織では特権階級に属し、号令を掛ける側である。敗戦を人ごとのように論じる旧軍人もいるが、私にはそれが出来ない。軍隊の中で、上からの命令に一つでも抵抗した実績があればともかく、上からの命令を下に伝え、自らも率先命令を実行していた。だから、敵軍からも、非戦闘員だった同国人からも、軍隊で下級にあった人からも、責任を糾明されて当然である。
日本人の多くは1945年の敗戦を「終戦」と呼んで、「敗戦」とは言わない。私はここに責任の誤魔化しがあると感じ、その無責任体質が上から下まで満ちていることに反発して、極力「敗戦」という言葉を使うことにしている。自分は「敗戦」の当事者であり、その責任を負うべきである、とずっと自分に言い聞かせて来た。

 もっとも、「敗戦責任」といっても、二重橋の前に行って、「戦争に負けたのは私どもの努力が足りなかったからです。どうかお許し下さい」と土下座した人の感じていたのと全く別のことである。天皇に詫びなければならぬような落ち度はない。むしろ、天皇の方から詫びに来て当然だと、当時も思っていた。戦争に負けたことについて責任を取る必要は感じなかった。だが、戦争に参加したこと、すなわち、軍隊に入ることを拒否しなかった点について有罪である。

 敗戦は予想出来た。事実をキチンと考えれば初めからその答えしかない。にもかかわらず、キチンと考えることを避けた。だから「この戦争は敗北になるから、起こすべきでない」と明言することもしなかった。自分を誤魔化して、国家の起こす戦争に幾らかの正当性を認め、それに従事すべきだと己を説得した。自分自身を誤った方向に行かせた責任は取らねばならない。

 私のこのような姿勢と或る程度似た人はかなりいたと思う。私は学徒出陣で海軍に入ったが、海軍士官の中には、合理的にものを考えなければならないという気風があった。だから、敗戦を当然のこととして受け入れる人が多かったようである。だが、そういう人たちと自分を同列に置いて、自分にとって大したことではない、とウソブクことは私には出来ない。なぜなら、私は以前からキリスト者であり、そのことを明言していたからである。キリスト者として考えてはならないことを考えて、戦争に出て行ったことについて、私には責任が問われる。人は私を非難しないかも知れないが、私は自分が自分を欺いたことを知っている。また、日本と戦った連合国は法廷を開いて戦争犯罪を裁いたが、その裁判と、私が己を裁いている裁きは、別次元のものであると言えるかも知れない。だが、当事者としては簡単に判定できることではないと思うが、今は触れない。

    私の戦争罪責
 私の自覚の捉えた敗戦は、私の罪の結果としての私の敗戦である。このことについては、戦後、早い時期から語って来たが、どういうことを語っていたかを繰り返し述べる時間を取り過ぎるので、今日の集会では割愛する。

それはともかく、私が自分の戦争責任を叫んでも、無名の者の声として相手にされなかった。クリスチャンの中でもそんなことを聞く耳はないと言う人が圧倒的に多かった。ただし、少数ながら、私の言うことに耳を傾けてくれる人はいた。クリスチャンの中には勿論いたが、キリスト教信仰を持たない人の中にもいた。

「自分の責任」という事に気が付いた最初の日のことを語って置く。海軍少尉に任官され、沖縄海軍根拠地隊司令部に赴任するために、海軍の船に便乗して鹿児島港を出た、その翌朝のことである。何が起こったのか? 何も起こらなかったのである。鹿児島湾を出たところで、海は静かであり、舳先に砕け散る水玉に朝日が照っていた。

 事件は起こらなかったのだが、私の内部で変化が起こり始める。自分はもう戦地勤務の扱いになっていることに気が付いた。つまり、ここで死んでもおかしくない状況になった。実際、鹿児島湾を出た所で、敵潜水艦に捕捉され、尾行が始まり、その日のうちに、或いは夜を待って一斉攻撃を受ける。そういう経過が極めて高い確率で起きていたから、その程度の知識は持っていた。その事態は、まだ見えていないだけで、早晩起こる。日本海軍はレーダーを持たず、向こうは持っている。こちらにあるのは格段に機能の低いラディオ・ロケーターであって、こちらからは何も見えない。が、向こうからは全部見られている。向こうから先手を打って襲撃され、応戦も出来ぬままに、一方的な負け戦になる。

 この海の上で、自分の死というものを初めて具体的に想像することになって、私はハッとしたのである。それまで、戦争に出れば死ななければならないという覚悟は出来ていたつもりだった。しかし、戦争で死なねばならないということを抽象論として考えただけである。抽象的に考えられた死だから、将棋盤の駒のようなもので、何とも感じないまま、如何様にも動かすことが出来た。しかし「お前の死ぬのは、このような静かで美しい海の上なのだぞ」と一幅の風景が見せ付けられている。自分の死ぬ情景を具体的に捉えることが出来る道具立てが揃った。ここでは悲愴感を籠めて思い見る余地もない。ただ、おだやかで優美な海原がそこに拡がっている。戦争と最も無縁な平穏さがある。

 そこにもう一つ、これまで想像すべきでありながら、思い浮かべなかったことに思い至る。それは、当日、あるいは後日、海軍省のデスクで、事務員によって「某月某日渡辺少尉は南方洋上にて壮烈な戦死を遂げたり」という型通りの作文が書かれることである。死を想像することには耐えているつもりであったが、「壮烈な戦死」という、実情に全くそぐわない作文、その空虚さにはもう耐えられないではないか? 意味のない死であるのに、事実と全く別な意味づけがなされる。欺きという他ないではないか。

 誰が欺いたのか? 他者ではない。権力者でもなく、世間でもなく、私自身ではないか? まともに考えれば、無意味な死に過ぎないもの、考え深い人なら無意味だと言っているのを知りながら、戦争の犠牲になることを、さも意味あるもののように欺いたのは、私なのである。だから、自分を欺いた罰として、私が無意味な死を遂げても、抗弁のしようはない。これが戦地の第一日における開眼である。

 その日から815日の敗戦に至るまでの経過は省略するが、毎日毎日が「敗戦」であった。一般国民には隠されていたが、軍内部の主要ニュースは刻々に、ほぼ正確に入って来る。どこで何という艦が沈んだというようなことは、その日の内に伝わる。

ついに8月9日、それは二発目の原爆が長崎に投下された日であるが、佐世保にいて原爆の閃光を見た人もいるが、私は見ていない。その日の朝、直接に、給油はこれでお終いだ、タンクは空になった、と告げられた。癌患者に対する余命何日という告知のようなものである。この最後の油を使って、最後の決戦に出て行けと言われたのではない。もうすることがないと知らされたのと同様である。敗戦であるのに、取り繕って軍務に励んだ。

 私が携わっていたのは輸送船団の護衛である。乗っていた海防艦はこの目的で急遽建造されたものであって、続々と沈められていた。戦争というものは、勝ちか負けかで分かれると言うが、私の関わった戦争は、沈められるか、沈まずに生きて還ってくるか、しかなかった。私は沈んだことはなかったが、護衛される船は大抵沈められ、護衛する艦も半数以上は沈んだ。つまり、負けてばかりいたわけである。

前線に出た初日に敗戦を先取りする経験があり、敗戦当日まで続いた。無意味な死を遂げても自業自得と言うほかない事態が繰り返し起こり、しかも私は死の狭間を何度か通り抜けながら、生かされて還って来た。

これはどういうことか? 答えは簡単に出た。私を生かして、何かに用いようとする神の御旨があったに違いない。だから、その御旨に従って生きなければならない。そのように心を定めるほかない。つまり、他者を欺かぬことは言うまでもなく、自分を欺かない生き方をする他ない。そう考えて一心に走って来たのである。

それ以来私が何をしたかについて、今は何も言わない。一昨年、5月が来れば満88歳になるから、その時に牧師の勤めを解いて頂くことに決め、準備を進めていた。私の命はもう少し続くかも知れないが、一応終わって、後は残務整理だけになる。そう思っていた。ところが、その前に3月11日が来て、私の生き方が変わらなければならないことになった。牧師の勤めを辞めるという予定を覆すことはしなかったが、初めに言ったように、思いも掛けず二度目の敗戦の衝撃を受けたのである。旅の終わりまで来たというのに、もう一つ旅を始めなければならない。

    「第二の敗戦」からの再出発
第一の敗戦は、言うならば、一たび死んだ者に与えられた第二の人生の出発のチャンスであった。だから、初めからのやり直しである。全部やりなおしたつもりである。では、第二の敗戦の機会にも、第二のやり直しを始めるべきではないのか? そうでなければならないと思う。だが、これだけ齢をとってしまったから、もう第二のやり直しをする時間も気力も残っていないではないか。被災地に出掛けて行っても、忙しい人々の足手まといになる他ない。そう考えて、人の邪魔にならないように引込んでいた。

2か月後、5月に韓国の釜山で、信州夏期宣教講座のエクステンションがあるので、日本からの参加者の一行に加わった。講座の一つとして石巻の金谷牧師が、20年前の阪神淡路の震災と、今回の地震津波の中で得た経験を語られた。講演のあとで講師に、私は被災地に行って、そこから学ぶべきことがあるとは思うのだが、自分の関心から訪ねて行っても、忙しくしている人の邪魔になるばかりで、独りよがりの迷惑行為になるから、見に行くのは差し控えている、と語った。金谷牧師は私の意見に反対して、「見るだけでも良いから行かねばならない」と言われた。私はその言葉に応じた。その時からこの牧師との深い交わりが始まった。

金谷牧師は私のために丸一日費やして、南三陸から南、石巻までの海岸線の破壊状況を直視させて下さった。第二の敗戦に正式に向かい合うのはその時からであった。そこで何を見たか、何を始めたか、詳しい話は省略するが、金谷牧師が言われたように、見ることの意味があり、見ることによって具体的に考えることが始まり、老齢者にも出来ること、あるいは老人だからこそ出来ることがあるのが見えてくる。何をしたかについては今日は話題が拡がり過ぎるので黙って置くが、私は第二の人生は終わったと考えていたのだが、もう一つの人生に取り掛かることになった。

    原子力による災害という新しい事態
「第二の敗戦」に関して、当初の私の理解は浅薄であったという思いが、時が経つにつれてますます強まって来ている。初めは、この災害を地震と津波による人命と生活条件の崩壊という程度にしか捉えていなかった。つまり、後で触れる「原発事故」の規模の大きさと被害の深刻さが分かっていなかった。だから、このような崩壊は、戦争による崩壊よりは小さく、災害を蒙らなかった人々からの援助が期待できるから、回復の速度は遅くても、根気良くやりさえすれば事態は徐々に良くなって行くはずだ、と思っていた。

そのことに関連して、以前から考えていた一つのことがある。私が専門的に研究して来たのは16世紀の宗教改革、とりわけカルヴァンを主たる指導者として知られる改革派のジュネーヴにおける改革である。その精神の継承と、事柄の研究の点で立ち遅れているのは、教会の「ディアコニア」の務めである。こういうことを、あちこちで講演していた。「ディアコニア」。簡単に言えば、使徒行伝6章に見られるような、貧しい人の食卓の世話のために、教会がその務めを担う人を選んで、按手によって任職し、活動させた制度である。宗教改革の教会は説教だけをしていたのではない。だから、今回の災害のもとで、苦悩し困惑し恐怖を覚えている隣人のために、教会は何をなすべきかを考え、動き出さずにはおられなくなるであろう、と予想していた。

3・11の直後、私の予想は正しかったのではないかと感じた。一般の人々もクリスチャンも、被災地の続々と詰めかけて「ヴォランティア」活動を始めた。私は「ヴォランティア」と「ディアコニア」は違うのだ。教会に根拠を据えているのは自発的発想に基づく「ヴォランティア」ではなく、「ディアコニア」なのだとしきりに語って、「ディアコニア」という呼び方が少しは定着するようになった。言葉の説明は別の機会に譲る。

私の見通しが甘かったのではないかと感じ始めたのはその後間もなくである。キリスト教会の一部は、かつて例がなかったほどの組織的奉仕活動を展開した。しかし、全然動かない教会も少なくない。教会は御言葉を正しく宣べ伝えることを第一義とすべきである、という金科玉条を振りかざし、それを怠慢の口実にしているとしか思われないクリスチャンが結構いたのである。

また、初めのうち活動は威勢が良かったが、間もなく疲れが出、倦怠感が生じ、人間としての訓練が出来ていないから、継続できなくなったグループもある。また、新しい課題に誠意取り組んだけれども、そで得られた経験を教会的に集積し・整理し・考察を深めて行く神学の基盤がなかったため、社会的な学問の後追いしか出来ず、教会的な知恵になっていない。だから、教会の役には立たない面が見られる。神学的基礎を有効に活用して、教会からの社会的貢献をして行く道筋は、まだ見えていない。

教会に若い人が少なくなったことも、行動力を弱めた理由になると思うが、若者出なくても出来ることはある。根本的には「己の如く汝の隣り人を愛すべし」との御言葉が、まともに説かれていないし、キリストの民が隣人に仕えるものであることを教えられていないからではないか。
今度の大災害に遭って、何かをすべきだという意識は目覚めたのだが、何も出来ないと感じている教会は多い。どこに問題解決のネックがあるか。一つには、社会的な働きのためには、それなりの規模の施設がなければならない、という考えから抜け出せなかった点である。しかし、教会のディアコニアは必ずしも施設によらなければ出来ないというものではなかった。小さい群れが、小さいままで、施設を作る力もないままで、出来る働きがある。むしろ、これこそディアコニアの原型であり、基本型である。使徒行伝に描かれている初期の教会の姿はそういうものであった。

小さい群れの「持続的ディアコニア」について語るべきことはなお多いが、今日は先に進まなければならない。我々が直面させられたのは、地震と津波の被害だけでなく、それよりももっと大掛かりで、もっと悪性で深刻な、そして前の時代から受け継がれた対抗策のない災害、原発事故である。

このような大掛かりな災害に対しては、最早、小さい群れのディアコニアの発想では歯が立たないのか。つまり国家や大きい公共団体のような巨大機構が動き出さなければならないのか。確かに、そういう面もあるが、小さい群れにしか出来ない事もある。小さいからこそ良く機能する場面があるのに、そこまで考えられていない場合があるのではないか。我々が関わっている現実の教会は、「小さき群れ」ばかりである。しかし、「小さき群れよ恐れるな。御国を賜うことは、汝らの父の御心なり」と仰せになった主の御言葉は、我々が小さき群れになり切る時にこそ、良く聞こえて来るのである。つまり、大きい群れになってしまえば、あるいは大きい群れに憧れている時には、聞こえて来ないのである。

ただし、小さき群れは小さき群れのままで、また散らされたままでありながら、「主にあって一つである」という秘訣を知っている。今回の大災害に際して、これまで個々別々の働きしか出来なかった諸教会が、震災支援という目的では協力した。これは、いわきとか、仙台とかですでに実行されて来たことで、私から語るまでもなく、皆さん良く御存じの事実である。教会の外の人々への奉仕に関しては、教派の違いは殆ど問題にならない。ここで得られた経験の蓄積と伝承とは、教会の将来への展望の材料である。

かつての日本では国家目的のための大同団結が強制され、それに服従せざるを得ないと感じた人々は「一つになることは主の御旨だ」と偽って大合同をし、結果として教団内の信仰分裂を深めることになったが、一見主の御旨とは思われなかった大災害のもとで、偽りの口実や政府の圧力では成し得なかった協力が出来ている。このことはディアコニアの実施に関して考えて見るべきポイントになっている。

    未経験の災害への対応
津波の災害を見に行った話の続きに戻る。石巻の帰りに福島と郡山に住む何人かの親しい人を訪ねた。福島県の浜通りに行って見たかったのだが、車を運転出来ないので、鉄道か路線バスの通っている範囲しか行けない。だから浜通りにはなかなか行けない。しかも、その地帯には知るべきこと、そして知らされていないこと、もっとハッキリ言うと隠蔽されたこと、掘り起こさねばならないことが一杯ある。そして知らないということは、知識の量が少なくて力にならないだけでなく、偏った理解が生じて、誤解と偏見と対立を生み出す。だから、見ることだけでも広く見ることを欠かしてはならない。

福島と郡山に立ち寄っただけでも、それまで東京にいて、新聞・雑誌やテレビでは分からなかったことがかなり分かった。すなわち、現地には生活者が住んでいる。その中に立つと、人の生活感覚が分かる。禁止区域になった地から脱出して来た人がいると共に、ここでも危険なのではないか、もっと遠くに移住すべきではないか、と迷っている人の不安が伝わって来る。――もっとも、それが分かった時、自分には何が出来るかを考えて見ると、考えは纏まらず、私もまた困惑している人たちと似た立場にいることが見えて来る。

とにかく、媒体を介して知ることと、行って直に触れることとの違いが良く分かって来る。津波による被害と放射能被害の違いの大きさも分かる。津波の破壊力は巨大であったけれども、被害は一応終わった。これからは、癒しと社会の再建である。それも苦渋に満ちたものではあるが、津波被害そのものはもう終わった。それに対し、原発事故の被害はまだ終息していない。放射能は拡散し続け、除染作業は終わることがないように思われる。危険は目に見える形を取らないまま続行し、人間の肉体と心とを蝕んで行く。津波の場合、国家は破壊されたものの復興に関しては責任があるが、原発の場合は、危険が警告されていたのに、無視してこれを設置したために起こった災害であるから、反対論を却下した国家の罪責が問われる。

さらに、この点については、時が経てば経つほど、国家の責任回避の罪悪性が見えて来た。そういう難しい点に加えて、原発被災については、地域居住者以外の者の無理解と言う問題があり、被災者にはさらに悪質なイジメや、風評被害が加えられる。さらに加えて援助金の額の違いが生む被害者間の不和がある。要するに、津波の被害の救済よりは、原発被害の救済の方が遥かに困難である。だから、これに立ち向かう奉仕作業に際して、精神的なものの占める位置が大きく、キリスト者の働きがより大きく求められることになる。

原発問題への対処について、ただ考えて論じるだけなら、余り時間を掛けなくても案は纏められる。だが、行動を起こすことは容易ではなかった。いや、今もまだ手が着けられない領域がある。手間取っている理由は、原子核分裂をエネルギーに利用するという問題を解明して行く知識と知恵の不足である。思想的にも解明しなければならない点がある。我々がそこまで学びを深める義務があるのか、という疑問もまだ解けていない。それでも、危険に対抗するこの種の知識が必要とされている以上、誰かが受け持って学ばねばならないのではないか。

核物理学を或る程度マスターしていなければ、物が言えない、という現実がある。事故が起こるまでは、知らなくても良いと思われていた領域であった。だが、専門家と称する集団は電力会社側についていて、素人は言い負かされっぱなしであって、知識がなければ危険に曝されるという事態になった。こういう時に、専門領域の知識を具えつつ、民衆の側に立ってくれる学者が少数ながらいたことは心強かった。この人たちは研究もよくやっていて、しかも長い期間、不遇に甘んじて原子炉の危険を直言してくれた良心の人である。

原子力利用の利益にしがみつく人たちと、暴力や数によらず論戦して勝つためには、そのような人が指導者、少なくとも助言者でいてくれることが望ましい。そういう人は人格的に清潔でなければならないとともに、学問的にも勝てる人でなければならない。私は反原発闘争の指導者にはなれないので、指導者に随いて行く群衆の一人であるが、群衆も或る程度の見識を持たなければ、指導者を孤立させてしまう。――そこまでは分かっているが、では核エネルギーの勉強をしたかというと、思い立っても、実力が伴わない。理解も確信も定まらないままで、反対!反対!と叫んでも、根が浅いと枯れて倒れるであろう。

責任逃れのように取られるが、戦前に基礎教育を終え、その後は理科の勉強をしていない者にとって、原子力に関連する知識を獲得することは難しい。用語くらいなら、注ぎ込まれれば覚えるが、原子力利用の学びの枠組みについては、説明をこなすだけでやっとである。これまでの考えの枠組みが組み替えられたものだと言われれば、一応、観念的には理解出来るのだが、それでは原子力を人間が利用するという思想に対する戦いにならない。これは思想に対する思想の戦いだと私は思う。

話が難しくなってしまったが、私自身にとっても難しい問題である。津波という災害は昔からあったから、経験の蓄積と伝承が出来ていた。最小限、命を守るために何をすべきかは言い伝えられていた。ところが、原発事故の経験の蓄積は殆どなく、データそのものも公開されていない。だから、目に見えない被害があっても、体調の悪化が顕われるまでは分からない。今後露わになって来る現在進行中の人身の損傷がある。目に見えないから、被害を無視し、過小評価する人もいるし、権力を持つ者の側では通常、被害を過小評価し、むしろ隠蔽に傾く。この傾向については、日本においては第五福竜丸の被曝を米軍が隠したことに対する戦いや、公害反対の闘争を支える学問が成果を上げて来た。

公害闘争は公害を垂れ流す大資本との戦いのように見られている。それはその通りであるが、時間を掛けて観察していると、公害問題の解決を遅らせている力がある。それは政府と裁判所である。ワザと遅らせているようには見えないかも知れぬが、もっともらしい託宣を述べて、結果として解決を遅らせ、苦しむ庶民の苦しみを長引かせる体質がある。そういう構造が出来ていて、官僚や裁判官は必ずしも残酷な人ばかりではないが、余程の正義感と憐憫の情の具わった努力家が現われないと、早期に解決することが出来ないような巨大な仕組みになっている。善き人をどのようにして育てるのかが殆ど分かっていない。信仰の教育がここで有効だと考えられなくないが、信仰者である我々は、信仰の捉え方を抜本的に変えなければな手も足も出ないと感じている。

   国家の悪を見抜く叡知
このような難関に行き当たった教会は何をなすべきか? 新しい事態と直面するに至ったのだから、見識も改めなければならないのではないか? 一昨年3月以来、我々はこのことを考えた。単に考えるだけでなく、なにがしかの行動を起こして来た。それは道端に半死半生になって倒れている人を見て、通り過ぎることが出来なくて、あり合わせのオリーブ油と葡萄酒で傷口の手当をしたサマリヤ人のした程度のこと、あるいは、それにも劣るささやかな奉仕に過ぎなかった。

いや、サマリヤ人のようにではなく、見て見ぬ振りをして道路の向こう側を過ぎて行った祭司やレビ人のようであった、と言わねばならないのではないか? それはその通りであったと言うべきだが、今は、一応、あり合わせの物を使って看護した人になぞらえて置く。すなわち、それだけでは十分でなかったし、サマリヤ人自身は翌朝には遠くに去って行かねばならなかった。怪我人は当分その宿で療養しなければならなかった。

それ以上の親切は不要だと言うのではない。差し当たっての、ささやかなことしか出来ていないから、十分なことをしたと達成感に満足するのでなく、癒しの全貌がどれだけのものかを弁えなければならない。
    
「第二の敗戦」という言葉を思い付いたことは先に述べた通りであるが、これが単なる思い付きとして終ったのでなく、「第一の敗戦」と何か実質的関係があるのではないか、ということを私はズッと考え続けていた。そのうちに、第一の敗戦を敗戦としてシッカリ受け留めなかったことが第二の敗戦の準備になったらしい、ということを次に考えるようになっていたが、その関連が明らかに見えて来たのは昨年の12月である。すなわち、総選挙の結果、日本に新しい政権が立ち上がった。この政権は憲法の改正を叫ぶ事を特色とする。私が戦後ズッと戦って来た過去の日本、それを復活させようとしている。

問題が非常にハッキリして来たのは、この政権が国防軍を作り、安全保障のためにはアメリカべったりになり、原発政策を復興させ、天皇を元首としようとしているという具体的な点である。戦後ズッと私にとって戦争はなくなっておらず、むしろ敗北が続いているように感じないでおられなかったのは、このことだったのだ。日本政府は1945年の敗戦をなるべく「敗戦」と呼ばないで、「終戦」と言い換えていたのは、敗戦に徹することを拒絶し、したがって戦争責任を本当は認めず、戦前の万世一系の大日本帝国を存続させようとしていたことの表れであった。

私自身は神礼拝を第一義的なこととし、当然、政治的行動に深入りしないよう気を遣っていたが、それでも神に仕える者は、隣人のためにも働かなくてはならないから、正しい政治活動は支援し、平和運動、靖国神社反対運動、教育の改悪に反対する運動、慰安婦にされた人たちの人権回復の運動に関わっていた。それらの戦いは全部敗北に終わったのであるが、我々に反対する人たちの目指したものは、現政権の目指すことそのものである。

私が敗戦以来一筋に努めたことは、平和憲法の確立であったが、彼らの目標は憲法を骨抜きにすることであり、その総仕上げは、現憲法の廃止、旧憲法の復活であった。その勢いの盛り上がりと並行して、在日朝鮮・韓国人に対する常軌を逸した嫌がらせがある。

そして、これらと根っ子が繋がっていることを露わにしたのは、財界をバックにした「原発再稼働」の主張である。かつて日本中に燃え上がった原水爆禁止の声を和らげるために、「原子力平和利用」のキャンペーンが、往時の戦争推進の指導者によって進められ、ついにこの企みは成功した。ところが、大地震と大津波によって原発安全の神話は崩壊した。それでも、戦争が利益になると計算する人には、原発維持も儲けになると見えるのである。原発推進派は反対派の気勢に押し切られて、一時鳴りを潜めていたが、政権が変わり、反原発ブームが下火になったと読んで、エネルギー不足の危機感を煽り立てて、再稼働宣伝の巻き返しを図っている。これは原発事故で傷ついた傷口を逆撫する心ない業である。

    沖縄と福島
さて、今日、私に課せられている課題として、もう一つ「沖縄問題」がある。この沖縄問題を福島県に来て取り上げることは、先には考えていなかった。ということは、沖縄について関心がなかったという意味ではない。その逆である。先に私は実戦の経験を海防艦乗組員として味わったことを述べたが、その海防艦は第4海上護衛隊に所属し、その護衛隊の司令部は沖縄方面海軍根拠地隊司令部が兼ねていた。私は初めはその司令部付士官として那覇の近郊小禄村の司令部に赴任し、3日の後、司令部の命令で海防艦に乗った。第4海上護衛隊は所属艦船の消耗が甚だしく、艦隊として維持出来なくなって解散したが、私の実戦経験は沖縄方面での作戦の中でのものである。したがって、沖縄への思い入れはひとしお深い。戦後、沖縄がまだ米軍の軍政下に置かれていた時代から、その地を訪ね始めた。それで幾重にも関係が出来て、ほぼ毎年行っており、沖縄の人たちにとって最も苛酷な重荷である米軍基地負担についても、それに対する抵抗運動に関わっている。

そういうことについて語り始めると時間がなくなるし、個人的な思い入れを語ることになってはいけないので、触れずに置き、一昨年の3・11に始まる福島の苦悩に関して語るべきであろうと初めは考えていた。しかし、今日の集会の企画をされた方々は、福島の問題と沖縄の問題とが結び付いているという見解を持っておられ、それを私に語らせようとされたのである。

正直に言ってこのテーマは私の力量の限界を越えている。しかし、この二つが結びついていることは事実であるから、二つの問題を関連させることによって、双方の問題が良く掴めるという認識もある。題を与えられた以上、逃げないで受け留めて精一杯努めなければならない。

こういう話をすることになっているのを先日、沖縄に行った時、親しい人に語った。彼はスグに受け答えして、福島県の人々の苦悩を一番良く理解しているのは、日本中で一番苦しい目に遭わせられている沖縄の人間なのだ。沖縄では福島県の被災者を一番多く引き受け、最も良い待遇をしている、と言った。

そのことを逆の方向から見れば、福島県の人は沖縄の苦悩を最も深く理解出来る、と言えるのではないかと思う。私から語るまでもないことだが、少なくとも明治維新以来、福島県は中央政府から甚だしく冷遇された県である。だから、さらに苛酷に扱われた沖縄の苦しみを最もよく理解出来る。

沖縄の心ある牧師たちと、本土側の心ある牧師たちとが、「沖縄で宣教を考える」という主題で年に一回集まるが、先々週15回目の会を持った。問題は年々深刻さを増していると私は思うのだが、それだけに、こちら側にも問題の深さがいよいよ分かってきている。
近年、「沖縄の日本復帰はあれで良かったのか」という問いを彼らは考えるようになった。今年の4月28日、安倍内閣は、これを日本の主権回復の記念日として宣伝したが、沖縄ではこれが屈辱の日になるから祝えない、と祝典を拒否したのである。このことを安倍政権は全く理解しない。沖縄と日本本土の間の溝はこの上なく深くなった。

沖縄は昔、一つの王朝によって支配される「琉球国」であった。中国との間には朝貢の関係が続き、日本の薩摩からも搾取されていたから完全な独立国と言いがたいが、明らかに日本と別の国をなし、国内の制度も異なっていた。それを明治政府は「琉球処分」という、軍隊の威嚇を用いた強制的措置によって王朝を廃止し、王を本土の大名と同列のものに引き下げ、琉球国を琉球藩にした後、直ぐに日本国沖縄県に変更した。これで日本本土の府県と形の上では同格になるが、内容的には植民地であり、県民は形式上は他府県民と同格であるが、実質的には「二等国民」として差別されて来た。

太平洋戦争の時、沖縄は日本国土のうちでは唯一戦場にされた地域だが、本土防衛のための捨石、もっと露骨に言うならば、天皇制を保持するための出血犠牲にされた。昭和天皇が沖縄を長期に亘って米軍基地として提供することと引き換えに、自己の地位を保全しようとしたことは今日では広く知られている。

米軍による占領状態から解放されるという意味の「本土復帰」を沖縄の殆どの人が切望したことは事実であるが、彼らの望んだのは「平和憲法下の日本への復帰」であった。ところが、日本国から得たものは名義だけであって、米軍基地負担の重荷は軽減しない。日本は米国への従属姿勢の負担部分を沖縄に負わせるだけである。この欺きが沖縄側からはよく見えるが、日本側からは見えにくい。日本の主権回復が沖縄にとっては屈辱そのものである。沖縄側からの訴えは、ますます日本に通じなくなって来た。

安倍政権成立以来、日本の国家構造の醜悪な深層部が沖縄からだけでなく、日本側で物を冷静に見る人たちの眼にはいよいよ明らかになった。それは、福島県からも同じように良く見えると思う。すなわち、この国は、国として重要だと思われることを立てるためには、人民を惜しげもなく犠牲として捨てる体質を持っている。戦争の時、国は国策の名のもとに国民を棄てた。沖縄人民や、置き去りにされた満蒙開拓移住民がその典型である。そして原子力利用の国策のために、福島県民も棄民の苦痛を味わわされている。この体質は日本国のどこにも内蔵されているから、今顕在しなくても、何かの機会に顕わになって出る。実際、貧困の苦しみを国の力で救い得ないために棄民する実例が、国内到る所で見られるようになった。

それは政治上の問題であって、教会の関与すべきことではない、と言う人があろう。我々も長い間そう教えられたし、その通りだと思って来た。だが義なる神はそれを是認されるであろうか。今でも教会が政治的行動を起こすことは教会に委ねられた務めではないと私は思っている。しかし、公平に扱われていない人たちの苦しみを無視して、これが神の民の本来の姿だ、と言って良いのであろうか? 教会が置かれている場、あるいは遣わされている場は、差別のために苦しんでいる人が満ちている世ではないのか。

クリスチャンのうちには、比較的恵まれた生活をしていて、苦しい生活の人を身近に見る機会のない人が多いかも知れない。そういう人たちの恵まれた生活を非難することは今の課題ではない。恵まれていた人も恵まれていない人も、一様に呑み込んでしまう過日の津波のような災害があるということに我々は気付かねばならなかった。その時には、人に分け与えるゆとりがあるかないかを問わず、とにかく手元に何かがあれば、それを持たない人に進んで差し出すべきだということを、教えられなくても悟らされたはずである。

そのような非常事態は収まったが、災害によって見るべき眼を開かれた人は、開かれた眼を再び閉じるようなことはしないように、互いに忠告し合おう。目に見えない災害は続いているし、国家権力の無慈悲さは、ますます露骨になっている。そのような世が宣教の場である、ということを我々は悟った。

では、ここから我々は何をすべきか? いろいろ具体策を並べ立てることは出来なくない。が、いま、具体策を並べ上げても、不毛な議論の遊びに終わるのではないかと私は恐れる。話は現に助けを求める人がいて、私が私に出来る何かをしようとしている所で、上からの御言葉を求め、そこで始まるのである。

終わり

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