2013年1月22日火曜日

投稿:79歳になり、未だ激しく怒っています(池谷彰)


原発体制を問うキリスト者ネットワーク(CNFE)のメンバーである池谷彰さんは、争中に朝鮮の若者を3000名狩り出して戦地におくったのは軍部です。小生のエッセーは朝鮮とは無関係ではありません。79歳になり、未だ激しく怒っています。」と記したメッセージを送ってくださいました。体調も回復されたようですが、その怒りを私たちも引き受けたいと思います。   崔 勝久

ドイツ戦没学生の手紙(1939年)、きけわだつみのこえ(1988年)、イタリア抵抗運動の遺書(1943・9・8-1945年4・25)を読んで。
 池谷彰 2012年11月13日

 これらの3冊の書物はいずれも戦争中に書かれた本であると言う点で共通している。ただし、相違点としては、「ドイツ戦没学生の手紙」(以下『ドイツ』と略記)は第一次世界大戦中、1914年から16年頃までの手紙であり、「きけわだつみのこえ」(以下『わだつみ』と略記)は第2次世界大戦中の手紙であり、「イタリア抵抗運動の遺書」(以下『イタリア』と略記)は1943 年から45年までイタリアがナチに占領された時の記録である。日・独・伊と三国並んだのは偶然にすぎない。特記すべき一つはこの地上から引き裂かれるように去っていた人々の悲痛な記録であるということである。

第二点は人は死を迎えるにあたって何と静寂・静謐な時を迎えるのかと言う事である。『私は急に永遠の生命と来世での再会を信じるようになりました。この観念は今までは私にとって空虚な言葉に過ぎませんでした。それが一昨日からは固い信仰の対象となりました。何故なら,愛する人間から死によって永久に隔てられてしまうことはあり得ないからです。』(『ドイツ』ウェルナー・リーベルト、1915年戦死) 

『寝られぬままに、生きることと死ぬことを考えた。いざというときには死ぬこともなんでもない。それにもまして生きることの素晴らしさもしみじみとわかるような気がした。それでよいのだと思っている。(『わだつみ』椿文雄1939年、28歳戦死)。 
『このぼくの手紙を読むときの、あなたがたの涙が目に見えるようです。あなたがたの唇から嗚咽でなく、祈りの言葉が出るようにしてほしい、それがぼくに永遠の魂を与えてくれるでしょう。ぼくのほうも、天上から、あなたたちのために祈ります。』(『イタリア』マーリオ・ベッティゾーリ、22歳ファシストにより1944年銃殺刑)。

  第一次大戦ではフランス兵・イギリス兵とドイツ兵は塹壕に隠れながら対峙したので、時には60メートルくらいしか離れていない時もあったようである。クリスマスの情景をドイツ兵は以下のように書いている。「向こうでもクリスマスの歌や我々の祖国の歌を合唱しました。誰かが、独唱をやると、向こうの側のものが拍手喝采しました。皆さんも同時に歌っていたに違いない我々のクリスマスの歌をフランス兵はしんとして聴いていました。(『ドイツ』ゴットホルト・フォン・ローデン、 1915年戦死)

   イギリス兵とも戦ったドイツ兵の一人は次のように書いている。「イギリス兵もクリスマスの歌を見事な4部合奏曲を歌っていました。我が軍の方でも美しい古い歌が聞こえました。時々射撃の音がまざるだけです。」(『ドイツ』カール・アルダク。1915年戦死)

  第一次大戦では日本軍が南京虐殺のような市民を巻き込むことをせずに、夫を戦地に送ったフランス市民とドイツ兵との交流があった。『 この土地で僕は6人の子供のある家族のところに行きます。主人は出征中です。中略。。。「私達にとっても、あなた方にとっても悲しいことです」と彼女は戦争を嘆きます。』(『ドイツ』フリートリヒ・ソーンライ。1914年戦死)

  死に際しては父親よりも母親に宛てて書く人が多い事に気がつく。23歳でグアム島で亡くなった奥村氏は以下のように書く。
『お母さん!!しみじみとした気持ち、心の全てをこめてこう呼びかけます。答えてください。お母さん!!心の全幅をかたむけて信じてくださる人はこの世にあなたのほかにありませぬ。』

ドイツ兵も以下のように書いている。『愛する母上様! この手紙をお読みになる時は、私はもう生きてはいないでしょう。「汝、死に至るまで忠実なれ、さればわれ汝に生命の冠を与えん。」 私のために泣かないで下さい。私は光明の国にいるのですから。何を悲しむ事がありましょう。』(『ドイツ』ヨハンネス・ノギールスキー。1917年戦死) 
  最愛の妻に宛てた手紙も胸を打つ。『最愛のアンナ 私はおまえのそばにいるよ。これが処刑の場ヘ向かう前の最後の手紙だ。真の愛国者としての義務を果たした事に満足して、わたしは死ぬ。いいかい、強く生きるのだよ。天からおまえのために祈っている。』(『イタリア』アントニオ・フォーサティ、この手紙を書き残した人物については名前しか分からない。)

  『わが愛する妻よ。この人の世の航海よりも長い愛情のまえで、戦争など何物であろう。南十字星の見える海の上に来て、しかも貴方の姿は記憶をこえて激しく鮮やかである。私にはショールにおちた貴方のなみだが見えなかったけれども、詩人の心の目には、それがはっきり見える。このこと一つのためにすら私は全ての感謝を、すべての犠牲を貴方のために捧げようと思うのです。』(『わだつみ』武井脩 1945年、ビルマで戦死、27歳)

  妻と愛する子供たちへの遺言も感動に値する。『きみと愛する子供達にひとつだけ精神的遺言を残しておこう。すなわち、一点の曇りもない確信をもって人生の逆境に立ち向かい、良心に照らしてみたときに、あらゆる可能性を尽くしたという答えが返ってくるように努めなさい。』(『イタリア』ジュゼッペ・ペロッティ。1944年処刑。)

   『ドイツ』と『わだつみ』の共通点はその遺書を書いた若者達が全ていわばその当時のエリートであった大学生であったということである。したがって、日独学生達の掌中におさめた本のなかにはホーマー、ゲーテ,ニーチェなどが含まれている。特に『わだつみ』のある青年のリストはおびただしい本を含んでいる:太宰治、シェリー、ゲーテ、坪田穣治,クラウゼヴィッツの「戦争論」などである。

  そして驚くべき事に、『わだつみ』には『ドイツ』への言及があることである。精神的支柱を『ドイツ』を書いた青年に求めたのかもしれない。『私は「ドイツ戦没学生の手紙」を読み返し、無量の感慨のとりことなった。これは人間の魂と生との調和をそのまま投げかけている。戦争そのものが持っている矛盾、およびその醸し出す多くの矛盾に生命をかけて苦悩している。ここに私は、私が論理を通してこれまで追及してきた事が明らかに裏書されているのを感じた」と池田浩平氏は書いている。(『わだつみ』池田浩平、1944年21歳戦死。)

『再び「ドイツ戦没学生の手紙」を読む。何回繰り返して読んでもいい。此処にいて読むと殊に感銘が深い。彼らは真摯だ。塹壕の中で、蝋燭の灯に下で、バイブルを読み、ゲーテを読みワグネルに思いを寄せる彼らは幸福である。死骸の中から取り出した手記に敵を誹謗する文句がない、と言う記録は注目に値する。』(『はるかなる山河に』中村徳郎、1944年戦死)(注:『はるかなる山河に』は1951年に発行され、その続編が「わだつみ」である。)

  『ドイツ』と『わだつみ』の主人公はすべていわばエリート階級に属する大学生であって、しかも戦う相手は『ドイツ』の場合はフランス人、イギリス人、『わだつみ』の場合は中国人であり、侵略戦争のいわば先兵であったのに反して、『イタリア』の場合は同じ国民のファッシストまたは、その背後にあるナチであった。これが決定的に異なっている。なぜ日本においては、軍部に対抗する市民運動がなかったのかという問題については余り大きな問題であるが故に本論では扱いかねる。

 『イタリア』の場合は『ドイツ』と『わだつみ』の場合とは異なり、その年齢層は多岐
にわたる:土木作業員(18歳)、機械工(21歳)、精錬工(24歳)、28歳(女性美容師)、鍛冶屋(39歳)、仕立て屋(61歳)など。

  28歳で反ファシスト運動に携わり、処刑された美容師パーオラ・ガレッリは処刑される直前に娘に以下のように書き残している。『可愛いミンマ あなたのママは行かねばなりません。あなたのことを思い、愛しながら、大切な娘よ、良い子となって勉強をして貴方を育ててくれた叔父さんたちの言う事をいつでも聞くのですよ。ママの代わりに彼らを愛しなさい。ママの心は静かです。親類の人たちや、お祖母さんやそのほかのみなさんに、つらい思いをさせてすまないとママがおもっていることを、あなたが伝えるのですよ。泣いたり、ママのことを恥じたりしてはいけません。大きくなったら、もっともっとあなたにもわかるでしょう。ひとつだけ御願いがあります。勉強してね。ママが天から守ってあげます。いま、あなたとみなを心のなかで抱きしめ、思い出しながら。あなたの不幸なママ。』

  私はこの拙文を書くにあたって上記の3書を読み返しながら、何度も胸が詰まって先に進めなかった。特に幼い子供を残して銃殺刑にあったイタリアの美容師の遺書は胸を打つ。『ドイツ』の訳者高橋健二氏は翻訳に当たって助言を受けたメイ・サカ・フォン・ハウラー夫人についてこう書いている。「女史の父君は大戦中戦死されたので、女史は本書簡集に対して他人事ならぬ共感を寄せられ、訳者と共に全書簡を朗読するうちにいく度か感きわまって嗚咽された。」

 『ドイツ』を読んで気がつくことだが、編集者ヴィットコップは『ドイツ!祖国!これらの言葉、これらの価値が、これ以上に崇高に宗教的な荘重さをもって体験されたことは未だかってない。』と述べ、ドイツ至上主義を前面に出して編集している。したがって、そのような遺書を「臆面もなく」前面にだして、はばからない。一方『わだつみ』第2集はそのような戦意高揚するような遺書は極力省くというような編集方針をとった所為か、日本帝国万歳的遺書は少ないことにほっとする。『わだつみ』には「はさみ」(検閲の事)が厳しかったので、『ドイツ』とは異なりどこで戦っているという情報は全くない。しかし、軍の「はさみ」をかいくぐって、本音も所々現れている。『軍人としての本分と学徒のそれとはほとんど 常に矛盾した。軍人たるべくば他のすべての使命も欲望も捨てるべく命令された。しかしその軍人の本分は何と形式的で低級だったことだろう。』(松永竜樹1944年戦死)。

 そして以下のような遺書を読むとき世界平和に通じる発言を見出す。『日本人の死は日本人だけが悲しむ。外国人の死は外国人のみが悲しむ。どうしてこうなければならぬのであろうか。なぜ人間は人間で共に悲しみ喜ぶようにならないのか』(岩ヶ谷治禄、『はるかなる山河に』)

最後に『日本人はもっと謙虚であるべきはずだ。黙々として、永遠に全人類の心を脈打って流れる偉大なる貢献をなしてこそ、初めて日本民族の偉大性が燦として全人類史を飾る事になるのである。』(中村徳郎『はるかなる山河に』1944年戦死)を引用して本稿を終わりたい。

               終わりに
 冒頭にも述べたようにこの地から引き裂かれるようにして亡くなった人々の遺志を我々はいかに継ぐべきなのか?人類の宝とも言うべき若者を弾除けとして使った軍隊への厳しい批判は第一になすべきであろう。安倍晋三一味が画策するように「内閣総理大臣を最高の指揮権者とする自衛軍を創設する」ことなのか?世界に誇るべき現行憲法を破棄して、ヒットラーの再来のごとき独裁者の様相をもった石原慎太郎が主張して止まない、新しい憲法を制定することなのか? 

中村徳郎氏が遺書で述べているように永遠に全人類の心を脈打って流れる偉大なる貢献をなすこととは、我々が人類に誇るべき憲法を死守することではないのか?3冊の遺書の背後に聞こえる切々とした悲しみを慰める唯一の方法は「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使をしない」と誓い、わが国の憲法を死守する事ではないのか?これこそが我々のできる死者への最大のオマージュではないのか?

  最後にルソン島で23歳の若さで戦死した詩人竹内浩三の詩の一部を引用して終わりたい。
 『戦争やあわれ 兵隊の死ぬるや あわれ 遠い他国で ひょんと死ぬるや
  だまって だれもいないところで ひょんと 死ぬるや』


 「パパ・ママ バイバイ」   
  今回はやや語調を変えて書いてみたいと思います。1959年、敗戦後14年たった6月沖縄県現うるま市の宮森小学校の近くの住宅地に米軍F100Dジェット戦闘機が墜落し、漏れた燃料に引火し、住宅18棟と木造校舎が火に包まれました。その衝撃で校舎のガラスは吹き飛び、自動の顔や体にその破片は突き刺さりました。「先生、お母さん、助けて」と泣き叫び、あたりは阿鼻叫喚に包まれました。児童11人が死亡、156人が重軽傷を負う大惨事になったのですが、パイロットは空中で脱出し、無事でした。

 トラックで現場に駆けつけた米兵は子供らの遺体に目もくれず、新聞記者の写真撮影を禁じ、カメラからフィルムを抜き取って去りました。「彼らは助けに来たのではなく、事故を隠すために来たのだ」とその当時の小学校の先生は振り返っています。

  同じ様な事が、2004年に飛行場に隣接する沖縄国際大学に起こっています。大型輸送ヘリが大学に墜落しました。この場合も先の墜落事件と同じく、米軍は先ず墜落した乗員の救出が第一義で、住民被害の事などは、二の次で、沖縄県民のみならず、多くの日本人の憤激を買いました。

  我々が住む神奈川県は基地の数では沖縄の次に多い県ということをご存知でしょうか?沖縄には34基地がありますが、我が県には14あります。横須賀には海軍司令部、キャンプ座間には陸軍司令部があり、有事の際(何をもって有事と言うのかわかりませんが)海軍・陸軍の総司令部になります。

 事件は現在の青葉区で1977年に起こりました。ファントムジェット機がエンジン火災を起こし墜落したのです。丁度その日は小学校で運動会が開かれていました。重量26トンの機体と大量の燃料が、飛散し、民家を火の海にしてしまいました。自衛隊ヘリが飛来し、被災者を一人だに救助することなく無傷で地上に降りた米軍パイロットを乗せて、厚木基地に帰ってしまったのです。

 当時3歳の祐一郎君は『おばあちゃん、パパ、ママ バイバイ』と言う言葉を最後に息を引き取り、弟の康弘君は『ポッポッポ』と鳩ポッポの歌をかすかに歌いながら1歳の命を閉じました。

  これらの一連の惨事に共通していることは日米の軍隊(日本の自衛隊は世界第四位のれっきとした軍隊です)のいずれも、市民の命を全く顧みず、ひたすら事件を隠蔽しようと努力していることです。(東電との恐ろしいまでの類似性!)そしてこの背後にあるものは日米の軍事同盟の根幹を成す安保です。それは言うまでも無く1960年に昭和の妖怪といわれる、岸信介が自民党のお家芸である強行採決で、500万人のデモ隊に囲まれながら、ヤクザ尾津喜之助の手下・2万を動員してデモ隊を蹴散らし、無理やり通した同盟です。 この忌むべき軍事同盟はオスプレーを米軍普天間基地に押し付けようとしています。ハワイにはこの「寡婦製造機」は置こうとしません。住民の反対があるからです。力の無い所に「国益のために」と言う口実で、東北の辺地に設置して犠牲を強いてきた原発と恐ろしいほど似ています。   文責  池谷彰   2012年8月29日



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