2012年12月10日月曜日

歴史の不条理に立ち向かうということー原発体制は植民地主義という仮説


一昨日のブログで私はこのような言葉で締めくくりました。
地方自治体におけるこのような外国人差別と、原発立地の地方が中央から差別されてきたこと、そして日本の国益のために行われている原発の輸出、これらは植民地主義という概念をたてたときに明確につながるということがおわかりになるでしょう。戦後の植民地無き植民地主義は原発体制を生みだしてきたのですが、それは戦前の植民地主義の清算をしてこなかったからでもあると私は考えています。

私たちの再稼働反対の運動は実に歴史的な課題を担い、そして世界の構造的な問題と対峙するものだと思い定めない限り、私たちの闘いは持続できません。深い思索と世界に向けた開かれた行動実践が求められています。

「日本、この国はどこに向かうのでしょうかー歴史の不条理に立ち向かう」
http://www.oklos-che.com/2012/12/blog-post_8.html

小熊英二の『社会を変えるには』(講談社現代新書)を興味深く読みました。学ぶことも多くありました。しかしこの本はかなり前から準備されていたものらしいですが、やはり再稼働反対の運動が拡がってきていた状況下で出版され、今になって思うと、ある種の高揚、ある種の楽観的な展望を感じます。2012年の8月20日に出版されたのですから、それもやむを得ないでしょう。私もこのままいくと何か変わるかもしれないという心情を共有化していましたし、7月のウランバートルで日本大使館前でのデモにも高揚した気分で参加しました。

しかし自民党や維新の会の躍進が連日マスコミで報道されるなかで(実態はわかりませんが)、脱原発を掲げる党は多いのですが、原発輸出反対を実際に唱える党はどこもありません。よく読めばないことはないのですが、それでも原発メーカーとは日立、東芝、三菱重工であると公言し、彼らの責任を問う党はどこもありません。また官邸前でのデモにおいても、海外輸出反対を掲げる声はごくごく少なかったのは事実です。再稼働反対する人が原発輸出に賛成するはずはないと思いますが、福島で事故をおこした原発メーカーの社会的責任が一切運動側においても問われることがないという現象はどのようにとらえるべきでしょうか。

植民地主義というのはもう死語になっているのでしょうか。開沼博は『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)においてもこの植民地主義(国内植民地主義)という概念を使って原発立地地域が生まれて来た経緯を説明しますが、結論的にはそれも過去のものとして捉え、今は中央と地方の関係は制度化されたものと捉えて植民地主義の問題を正面から受け留めていません。さすがに小熊英二は慎重で、植民地主義という過去の左翼が使ってきた手あかにまみれた用語、概念を安易にもちだし説明することはしません。

しかし西川長夫が偉大なのは、植民地主義の問題を今の問題と捉え、国民国家なるものは植民地主義を再生産する装置であって、その中に生きる者は自分を含めて国民にされ植民地主義を正当化する感性、価値観を持たされてしまっているということをしっかりと逃げることなく直視します。西川長夫によれば、マスコミも裁判制度もそして学者なる者も、国会も、世界共通して国民国家を支えるように存在させられていると捉えます。学者や弁護士や政治家の先生が偉いのではないのです。彼は歴史を見るのに、表面的な現象の分析ではなく、その底に流れるものを問い、そして文化・文明なるものも国民国家のイデオロギーでしかないということを、おそらく世界で最初に突きとめた人だと思います。

西川さんが提起して一世を風靡したとされる国民国家論も今はどの研究者も自分の立ち位置の確保と研究テーマを追求する忙しさに振り回されてか、歴史や社会、なによりもそこで生きる自分自身を問うことになるこの問題を正面から取り上げることはしないようです。だからなんなんだ、国民国家を乗り越えるなどというのは観念に過ぎず、具体的にどうするのかその具体案を示せという声が聞こえてきそうです。しかし3・11で私は西川長夫の仮説は正しいと確信するようになりました。

私が知る限り、国家なるものは乗り越えられるものだと考えたのはマルクスと、そして聖書です。マルクスは階級論から現実問題として資本主義社会の根源的な矛盾を突き止めその止揚を本気で唱えた人です。キリスト教は国家による弾圧の中で、私たちの国籍は天にあるとしました。これは偉大な抵抗であり思想です。現にある国家を絶対化しない、そして神以外のいかなるものをも絶対化しないとしたのです(今のキリスト教教会のことを言っているのではありません)。

私は先のブログで以下のように記しました。
どうして、どうして、捕囚の民となったユダヤ人が悩みに悩み、その中で生れ出てきた苦難の歴史観、そこに神信仰を見い出した苦悩の闘いが思い出されます。侵略や凌辱、虐殺の歴史を否定し、過去の栄光を望んで大国日本の道を説く偽りの「預言者」に熱狂する民衆。これは過去の小説やドラマでなく、福島の事故を経験した、今の私たちの現実です。

今選挙の闘いの最中にある限り、その喧噪のなかで選挙に勝ち抜くために必至の活動するのは当然です。私はマスコミが報道する自民の過半数獲得を信じているわけではありません。まだ40%以上の人がどこに投票するかわからないと応えています。しかし私には、再稼働・再処理に反対しながら、海外への原発輸出を自分たちの問題として捉えてこなかったということから、既に今のような事態になることは見えていました。別に領土問題が起こらなくても同じ事であったでしょう。領土問題は問題を可視化させたにすぎません。

明治維新以降、富国強兵を国策として進めてきた国造りは、多くの国民を苦しめながら、結局はおのれの豊かさを願い他国への侵略をよしとし、自分たちの問題を直視できないできたのではないのでしょうか。武力を背景に開国を迫られた日本は20年後、まったく同じやり方で韓国に開国を迫りそして台湾の後植民地支配してしまいました。その植民地支配を正当化する歴史観に戦後生まれの私たち在日は自分を卑下し苦しんできたのです。人間らしくいきるために自分の朝鮮人であることを求めざるをえなかった理由がここにあります。

戦後日本は、アメリカの核戦略の中で、あろうことか原子力の平和利用ということで国をあげて豊かになることを願い、原発を受け入れました、事故があってもメーカーのGEには責任はないという条件を飲んだのです。原発といつわりの平和と民主主義は並存しました。そして長い間、そう、3・11を迎えるまで、偽りの平和を享受してきました。日本は欧米にならい、輸出先の原発事故の責任をとらないことを条件にしていることを皆さんはご存知でしょうか。これは開国を迫る明治の時と全く同じパターンです。あらためてこれは戦後アメリカの核兵器を基にした世界支配であり、核を手にした列強が他国を支配する植民地主義だと言わざるをえません。それ以外のどのような仮説がこの事態を説明しきれるでしょうか。

今改めて西川長夫の偉大さを感じます。植民地主義とは左翼用語でも観念的な概念でもなく、今の世界の不平等、搾取、原発という人間がコントロールできない核を利用した支配という実態を説明するのに最も有効な理論、仮説だと私はあらためて思います。国民国家なるものを相対化し、国民国家によって引き起こされている悲劇に対峙するための理論武装として最も重要な理論、仮説です。それはものの見方だけではありません。私たち、自分自身は、どう生きるのかという根本的な課題に正面から向き合うためです。ここではもはや私たち在日が求めざるをえなかった民族主義も克服されなければならないという結論に私自身は至っています。

日本の深い病は今回の選挙結果で一挙に変わるわけではないと思います。日本は明治以降の、そして戦後も続く西洋社会を模倣する近代化を根本的に捉え直すべきでしょう。文明・文化とは何であったのか、豊かさとはなんであったのか根底からとらえ直す機会がやってきました。これは原発を他のエネルギー源に変えればいいというような単純な問題ではありません。人間はどう生きるのか、どのような歴史観をもって生きていくのかという問題です。それを実現していく道はただ一つ、国籍や民族に囚われず、人間として生きること、自分の住む地域社会から社会のあり方を考え実行していくことです。

0 件のコメント:

コメントを投稿