2012年4月9日月曜日

外山秀俊の『3・11 複合被災』『震災と原発 国家の過ち』の2冊を読んで


外山秀俊の『3・11 複合被災』『震災と原発 国家の過ち』の2冊を読みました。「元・朝日新聞の名文記者」と言われ第一線で活躍し独立した人物で、しっかりと現場で取材しながらも感情に溺れず、自分の立場を絶えず確認しながら書いているという印象を持ちました。

「原発事故が目前の脅威となってから、岩手や宮崎、そして福島でも津波被害の大きかった地域のことは、報道の前線から退いていった。新聞やテレビは、『被災してもがんばる』と前向きに生きる人々を大きく取り上げたが、『がんばれない人々』については目を背けていなかっただろうか。心情や情緒について、励ましや支援については多く語ったが、復旧や復興がこれほどまでに遅れたことについて、その構造のいびつさや政治の貧困を、鋭く追及してきただろうか。フリーのジャーナリストになった自分を含めて、今回の災害情報における『ジャーナリズム』の貧困を意識せざるをえない」(『3・11 複合被災』より)。ここに著者の立場がすべて言い表されていると思われます。

一方、後者の本は、「文学で読み解く『3・11』」とあって、著者の考えてきたことが重層的に、引用した本と絡み合わせながら語られます。そして最後に、「このたたかいは、これまでの災害からだれが想像するよりも、ずっと長い時間がかかる。『無名』はまだ続く。いつまでも、苦難に我慢強く耐える『東北の思想』に甘えているわけにはいかないだろう。これまでのように、お上による『救済』を待つのではなく、民と民がお互いを支え合う新たな仕組みを創出する以外に、将来の道はない、と思う」と締めくくります。

ここのところは、氏が「最良のレポートに、出会った」という、開沼博の『「フクシマ」論』を意識しているように思えます。勿論、それがいかに容易ならざることかを意識したうえでのことでしょう。地域の発展のために中央政府と「抱き合った」(J.ダワー)福島の歴史と現実を見据えながら、「『脱原発』を進めるには、巨大な『安全神話』の成り立ちと、原発の無意識化の過程をもう一度肝に銘じるほかはない。そうでなければ私たちは、引き返すことのできない滅びへの道に、再び舞い戻るだろう」と書かれています。

著者の引用した文学とは、カミュの『ペスト』、カフカ『城』、島尾敏夫『出発はついに訪れず』、ハーバート・ノーマン『忘れられた思想家ー安藤昌益のこと』、エドガール・モラン『オルレオンのうわさ』、井伏鱒二『黒い雨』、ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』です。宮沢賢治『雨ニモマケズ』は最後に少し。

私にとって印象深かったのは、井伏鱒二の引用です。『黒い雨』の女主人公を取りあげながら、実際の原爆症の認定を受けた人は、「被曝者健康手帳」を持つ人の2011年になってようやく3%強にとどまっているという事実の指摘でした。今回のフクシマの内部被曝の問題が公然と語られるようになったのも、「被曝者の長年の運動の積み重ねがあったからだろう」ということを私は初めて知りました。できればここで被曝した7万人の朝鮮人の存在、北朝鮮を含めた在韓被爆者の問題にも触れてほしかったですが・・・

さらにスタインベックの『怒りの葡萄』のストーリーを語りながら、「一家が郷里を追われ、流亡する悲惨な物語」と福島の実例を重ね合わせ、死産を経験した娘が死に際の男に彼の子供の哀願に応えて乳を与えるという強烈なシーンから、「希望」について語ります。「絶望の果てにも、人間が人間らしく生きようとすることをやめない姿が、私たちに『希望』を与えてくれる」というのです。そのことを福島や東北で出会った人々から著者は「教えられた」と記します。

そのことを踏まえたうえで、「民と民がお互いを支え合う新たな仕組みを創出する以外に、将来の道はない」と著者は記しているのですが、まさにそうだと思いつつ、福島・東北を差別・疎外してきたのは国内植民地主義(開沼博もそう説明しようとしています)であるならば、その闘いは地域から始めるべきだという自説に戻され、そこで闘いの端緒を見い出せない私ははたとうずくまるのです。

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