2011年8月28日日曜日

『原発社会からの離脱ー自然エネルギーと共同体自治に向けて』を読んで

宮台真司と飯田哲也の対談集で講談社現代新書から出版されています。表紙のレイアウトはいまいちですが、タイトルのつけ方といい、写真の使い方といい、対談者の思いがそのまま表されています。写真は、太陽パネルの成功例とされるスペインとフクシマを並べ、今後の社会のあり方を示唆しています。自然エネルギーが原発を駆逐することを明確にし、それでも抵抗する社会のあり方を問題にして分析・説明しようとした本です。負けるとわかっていて戦争に突入した官僚・政治家それに与したマスコミ、勝てるという偽り情報を信じてきた国民たち、これらを原発推進社会の類似と見做します。

原発ムラの中にいて福島原発にも関わり、官僚の実態を熟知する、いまや自然エネルギーの旗手として時の人となっている飯田哲也(昨夜のNHK番組でも出ていました)を引き立てるような役割を宮台がしています。3・11を経験して社会的に不合理だとわかってきても動きのとれない、日本社会のありかたを<悪い共同体><悪い心の習慣>と概念化し、<共同体自治>概念を提示して説明しようとするのは宮台の役割なのでしょうが、言いたいことはわかるがそんな言い方でいいのという感じがします。

飯田は東電の責任追及も明確ですし、原発を推進してきた官僚に対しても、またその官僚をコントロールできない民主党に対してもしっかりとした批判を展開します。内輪話的なエピソードが多くどこまで本当かわかりませんが、原発推進派と反対派の二項対立的なあり方をイデオロギーに依拠していると批判し、ヨーロッパにおける原発から自然エネルギーへの移行の実態とそれを支える思想(知の営み)を目撃し学んだ飯田は、自然エネルギーの展開によって原発をなくそうとしているようです。イデオロギー論争ではなく、具体案を提示して合意して実を取ることを重視します。そして何よりもその根底に「知」の営みがあること、徹底した合理性を追求する姿勢を持つことを重要視します。ここらへんが宮台との共通項のようです。

また自然エネルギー実現は共同体の自治のあり方、内実と関連していると見なし、中央よりも地方、それもできるだけ小さいほうが官僚の影響をミニマイズできると考え、自治体に任せるのではなく自治体に住民が影響を与える(一緒にやるのではないところが中途半端)方向を目指します。誰もが反対できないような方法論を重視し、例えば、名古屋の河村たかしの減税・議員削除から地方委員会の設定、そしてそこから自然エネルギーへの転換をめざすあり方を高く評価します。

「知」の営みの重視といい、具体的なプラン作成といい、市場の働きをあるべき社会に組み込もうとするあたりは確かに現実的です。それを確固たる思想の上での柔軟な姿勢とも言えるでしょう。しかし私は、「知」の働きの背後にある情念的な、例えばナショナリズムをどのように考えるのか、二人に聞きたい点です。国家とか会社とかに盲従する、即ちシステムを絶対化することに異を唱える宮台が、「外国人参政権についての宮台真司さんと金明秀さんの議論まとめ」 http://togetter.com/li/11554
では鄭大均の考えに依拠して、「在日」が日本国籍をとることを世界の流れと断定し、「在日」の住民としての政治参加を認めません。これは国家の相対化を主張する今回の議論とは矛盾します。一度機会があれば論争してみたいものです。上野千鶴子さんあたりを巻き込んだ生産的なものにしたいですね。

石原都知事や河村市長の政策の一部分をとっての評価は宮台・飯田の価値観から来るものでしょうが、二人の政治家がいずれも極端なナショナリストで、河村の場合、外国人の政治参加を否定して地域社会においてさえ国籍条項を設けたことをどのように考えるのか、開かれた社会をつくるには、飯田の会社内での外国人社員の活用というレベルでとどめず、地域社会においても外国人を住民として受け入れ、政治参加を当然視する主張があってもいいのにと残念です。策士が逆に反動に利用されているような危険性を感じます。

いずれにしても原発は斜陽産業で自然エネルギーが2050年には完全に勝負をつける、それが合理的で時代の流れと主張します。しかし確かに欧米の流れからみるとそう見えるのでしょうが、原発がアジアに集中し、日韓両国がアジアに原発を売り込み、インドと中国という巨大市場により安全な原発を売り込むという流れまで合理性を根拠に阻止できるのか、私は楽観は許せないと見ます。超多忙なお二人のようですが、第二弾を期待します。

0 件のコメント:

コメントを投稿