2011年8月4日木曜日

あるハルモ二(祖母)の転落死

昨日の朝、突然電話があり、私たち家族で親しくしている李ハルモ二が亡くなったという知らせを受けました。80歳とのことです。外出先で電話を受けた私は呆然とし、この知らせを受けたら彼女と親しくしていた義母はどう受けとめるのかなと思いました。

二人はもう60年も前に、韓国から密航船で釜山から日本に来て、九州のとある海辺に降りて浜辺まで歩き、そこで着替えて汽車に飛び乗り川崎に来た、遠い親戚だったらしいのです。私の妻はそのときまだ3歳で、何も話してはいけないと言われて彼女は釜山から川崎までのあいだどんな思いだったのでしょうか。そのとき以来、義母と李ハルモ二はずっと川崎に住み、韓国教会の教会員として生きてきました。

韓国で結婚した後、主人が出稼ぎでまず日本に来てその後しばらくして奥さんを日本に呼ぶ例は多いのですが、そのハルモ二もまた韓国で結婚していくらもたたないうちに御主人は日本に働きにでかけ(勿論、密航でしょう)、韓国の田舎から日本に呼ばれて来るようになりました。二十歳になるかならないかの若いそのハルモ二は、しかし川崎で残酷な現実を知ります。御主人に「女性」がいて、生まれたばかりの男の子がいたのです。

その後4人の子供を授かりますが、彼女は日本の女性の赤ちゃんを引き取り、自分の子として5人、育てました。田舎で育った女であるが故、彼女はようやくハングルが読めるくらいで、日本語の読み書きはできず、人前で話すこともなく、いつも控えめで賢い女性でした。ご主人はビジネスの面ではやり手の人だったのでしょう、子供はみんな大学を出て、「長男」は御主人の事業を引き継ぎ、娘たちも「在日」世界の中では一定の社会的地位のある男性と見合いで結婚をしています。一番下の息子は優しい性格で、死の前日も彼の東京の自宅で母親と一緒に食事をしたということでした。

生まれつき体が丈夫なハルモ二でしたが、この半年あまりは痴ほう症が進み、会った息子のことも話していてわからなくなる時があったといいます。比較的裕福な生活をしてきたハルモ二ですが、晩年は5人の子供のうち、彼女が本当の母親でないと知りつらく当たり始めた「長男」と、長女のような愛情を受けなかったと言う次女、三女の3人が母親と父親の相続をめぐる争いになり、私はずっと相談を受けていましたが、まるで家に寄り付かなくなったそうです。引っ込みじあんでどちらかというと人前ではおどおどしているように見える彼女は自分を守るためにお金に執着したのでしょうか。当然のことです。しかし彼女は結局は裁判にすることなく、すべて子供たちの言う通りそのままを受け入れました。

晩年は長女と孫娘3人の5人で住み痴ほう症独特の症状で家族の者を困らせることがあったらしいのですが、私たち家族と会うときはまったくそんなそぶりは見せませんでした。こぎれいに着込み、結婚前から私たちのことを見守ってくれていたハルモ二にとっては、自分のもっとも信頼する姉のような存在である義母と、日本に一緒に来た時3歳であった妻とその結婚相手である私と会うことは心の拠り所であり、気休めになっていたのでしょうか。

義母はいつも彼女の話になると涙ぐみ、可哀そう、可哀そうと連発していました。
昨夜、彼女の自宅に駆け付けた私たちは、ハルモ二が窓から落ちたという現場をみました。3階につながる階段のところに窓があり、長女がいくら探しても見つからなかった母親がその窓から転落しているのを発見し駆け付けた時にはもう冷たくなっていたとのことです。雑然と荷物が置いてあるその場所から身を乗り出し、40-50センチ先の隣人に何か声をかけようと身を乗り出したのでしょう。

警察で死亡原因の確認のための解剖をされた後、葬儀屋が棺に彼女を入れて家に運び込んできました。わずか10メートルくらいの高さから落ちていく瞬間、彼女の脳裏に浮かびあがったものは何だったのでしょうか。先に逝ったご主人のことであったのでしょうか、韓国の故郷の田舎の風景であったのでしょうか、それとも恐怖で何も思い出す間もなく地面にたたきつけられたのでしょうか。棺の中の彼女の顔はむくんでいつもの温和な顔ではありませんでした。

しかし遅れてきた元の牧師夫人とデイケアで彼女を見ている牧師夫人の娘のKが見せてくれた、ハルモ二が描いた絵は驚くものでした。いつもおどおどし自信なさそうにしていた彼女が描いた動物は漫画チックなタッチでしたが、韓国語で「ウサギ」と書かれた素晴らしいウサギが描かれていました。私の日曜学校の生徒であったKが言うには、絵が本当に好きだったというのです。日本語を学びたいと常々言っていた彼女は、歴史に翻弄され思うようにならなかった晩年のことにも何の愚痴を言うことなく、丹念に心を込めた絵を残して旅立ちました。それらの絵は棺とともに燃やされるのでしょう。あんなに親しかった義母も、李ハルモ二が絵に関心があったとは知りませんでした。しかし孫娘の一人は絵を専攻し美術館で勤めていると聞きました。喪主は心優しい末っ子の次男が務めたそうです。

私が大学生のころ、民族意識に目覚め、己の出自を隠していた自分が教会の中でイエスと出会い本名を名のり生き始めるクリスマス劇のシナリオの中で、先の義母とハルモ二が密航で日本に渡ってきた場面を取り入れました。日曜学校の子供たちに自分の母親たちの歴史を演じることで自分がその歴史の流れの中で生きていることを実感してほしかったのです。ハルモ二の娘3人はその劇で芝居をしたのですが、今となってはそれが彼女たちにどんな意味があったのかわかりません。しかしその芝居を観たハルモ二は涙なくしては観れなかったでしょう。

ハルモ二は義母にはいつも私のことを、しっかりしたサウィ(娘婿)をもらって幸せだねと言ってくれてましたが、自分の実家と妻の実家の両方を無謀にも受け止めようとした私は事業の面ではすべてを失う不届き者になりました。ハルモ二も私たちの事情を知っていたのか知らなかったのか(恐らく全て知っていたでしょう)、そんな私を「しっかり者」と励ましてくれていたのでしょうか。

全てを神に委ね、「杖一本」で生き始めた私は自分に与えられた役割を担い、原発のことや地域社会のことで神のみ旨の内に生きようとしています。ハルモ二に私の胸の内をすべて打ち明けることもなく、また今の私の働きの報告もできませんでした。いつか優しい笑顔で私を迎えてくれるでしょう。その時が楽しみです。ご冥福を祈ります。ありがとうございました、李ハルモ二。

1 件のコメント:

  1. 先ほどKHさんよりハルモニの訃報を伺いました。

     若かりしころ義母さまとこのハルモニにはお世話になった一人です。
     当時すごく年上と思っていましたが、あまり変わらなかったのですね。いつも優しい笑顔と控えめな態度が印象的でした。

     苦難、苦労の人生だったかもしれませんが、信仰と義母さまのようなよき友人に恵まれた方でもありましたね。

      3年前の李仁夏牧師の葬儀でお会いしたのが最後でした。
    今は帰天してほんとうに安らぎの中におられると思います。

     詳しいお知らせありがとうございました。

                        申 英子

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