2011年3月19日土曜日

宮本常一『忘れられた日本人』を読んで想うことー内在的なものからの「変革」の可能性

昼からは毎日近くの図書館に通っています。そこで宮本常一の本を借りました。

「辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の舞台にうかびあがらせた宮本民俗学の代表作」と岩波文庫の表紙に記されています。

また解説の網野善彦も的確な紹介をしていて、さすがだなと思いましたい。網野善彦は、宮本の自叙伝を引用して解説を締めくくります。「私は長い間あるき続けてきた・・・いったい進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、・・・進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めていくことこそ、われわれに課されている、もっとも重要な課題ではないかと思う。」

私はまさに都会っ子で、大阪の難波で生まれ育ち、田舎の生活経験がまったくない、偏った生を送ってきました。しかし宮本常一の切り拓いた地平、足で歩き、見て、人と会い、対話を通して見えてきたことを文字にしていくことで、社会のあり方の根本的な問題を示唆するところに私は思わず引きずり込まれました。

「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」という言葉を漁村の老人から引き出した宮本にも、同じ考えがあったのでしょう。

戦後民主主義だ、選挙だとかのまだない時代においても、対馬の山奥の農村でいかに「民主的な」やり方が行われていたのか、何時間かかっても話合いを重ね、意見が一致しなければ次の話に移り、そしてまた戻り、それを何回も続けていって意見の一致を見るのです。

封建制、農村、貧困、階級社会というイメージがあった私には、その対馬の農村でのものの決め方が新鮮でした。何も西洋の民主主義制度でなくとも、日本の農村の伝統の中にこのような「民主主義」があったではないか。

私には農村、古い共同体、村八分というイメージがありました。明治以降の富国強兵政策の中で「近代化」が進められ、どんな片田舎の農村でも国民国家に丸ごと巻き込まれ、招兵され、共同体が崩壊してきたというのも事実でしょう。それは巻き込まれた者の責任ではなく、巻き込んで「近代化」を進めた国家の責任です。しかし中村常一のような在野の研究者が残してくれた著作で、私は日本の地域の内在的な発展の可能性を感じるのです。

図書館で思わず『忘れられた日本人』という本に目が留まったのも、何か私自身、外部からの思想や借り物の制度でなく、内在的なものから現代社会の変革の可能性を見つけ出したいという思いがあったのでしょう。

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