2011年2月22日火曜日

昔の写真、力動山・白井義男・ベビーゴステロ・親父


1952年、ハワイに行ったベビー・ゴステロと親父です。下はその時世界チャンプになった白井義男とカ―ン博士です。負けたダド・マリノも写っています。力道山のリキジムにはうちのオールジムから重量級選手だけ、移るようになっていました。



これは誰だかわかりますか。力士時代の力道山と親父です。力道山は同郷の親父を兄貴と呼んでいました。谷町でもあった親父の名前は力道山に関する本には出て来ませんが、力道山が死ぬまで親しく付き合っていました。

今日はむつかしい話しはなしで行きましょう(笑)。

そもそも日本のボクシングの最初のチャンプを決めたのは、昭和23年で、西日本と東日本のチャンプが闘い、その勝者が初代日本チャンプになったのです。うちのオールジムからは5階級のうち、2階級の選手を輩出する名門でした。

私はいつも親父に連れられて東京に行き、力道山の家で泊り、力道山も大阪に来るとうちに来ていました。プロレスの初期のころ、柔道出身の木村や山口という選手と日本のプロレス業界の覇権を争い、力道山は「約束」を無視して無茶苦茶にやっつけたのですが、そのとき、遅い晩飯を食べながらそのときの様子を話していた記憶があります。

「在日」とアウトロー、プロレスとボクシングは興行のためにとアウトローとの付き合いは必定でした。昔のやくざの組長はほとんど難波にあったうちの練習生だったと言います。

芸能界とスポーツ界、ここには多くの「在日」がいました(し、今もいます)。しかし圧倒的多くの場合、出自を隠して生きなければならないというのは、なんともやりきれないですね。

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