2010年2月13日土曜日

最近の参政権論議で感じること

伊藤です。

市議会への外国人参政権「陳情書案」など、最近の左右両方の動きも見て、二つの事を感じました。

1。日本の憲法の表現がどうであるかに関わらず、基本的人権は国家の枠を超える「普遍的な」権利として歴史に登場し、長い過程で彫琢されて来たものです。だから「国籍」などでその権利が制限されるなど、いわゆる現実 政治(統治)の都合で制約するなどは全くおかしい。 

しかし日本国憲法には「人権は・・・・「国籍によっては差別されない」・・・とは書いてありません。つまり差別を容認する惧れのある憲法、でしょう。在日外国人の参政権を門前払いする主張は、この文言を楯にしている。

まずこの原則を巡っての分裂が最初にあります。理由は歴史過程で被害者の側だったか、加害者だったか。次いで戦後処理の未清算と近現代教育の放置。国民が政治権力をひっくり返した事がない日本の体質、いわゆる国民性・・・。

何でもござれのようですが、この問題は現代の国民国家と政治機構の根本原理・根本システムに直結しているから、自ずから広い範囲の問題と接している。  また逆にとても広く影響が及ぶ。

 かつて論争になった日本単一民族論は、敗戦後に「収縮した」国民国家を理屈付ける空論ですが、他民族の統合支配(五族共和)に失敗した帝国日本が加害責任を回避し、一国平和主義に活路を見出した戦後過程では、他民族との協調・共存の態勢を平和裡に築く意志など、無いに等しいものでした。  
 
2。国民国家の壁は厚く、押しても引いても容易には動かない。国際化がこんなに進んでも、国籍を条件とする血縁主義の立場から日本への「帰化」を勧める(閉じた同化)方針は、多数の同意を得る傾向にある。閉じたシステムに替わるものをどう作って行くか。その可能性を何処に見出せるか?。

多くの試みのうち「多国籍」の容認実施提案、アジア平和構築の外交努力と共に、地方参政権で露わになって来た自治体の住民自治が、そのひとつの方向に違いない。しかも今は、此処でも「後ろ向き」の、右派の動きが展開しています。

大陸国家などではもっと違うかも知れませんが、国境で区切られているため、新手の「鎖国」は肌に馴染み易いもので、多数の国民を惹きつける ネオナショナリズムの御旗となるでしょう。名古屋の危険さは、まだ詳細を知らないので断定出来ませんが、新たな住民「動員」の仕方ではないか。

地域での統治手段の実験だと感じます。  いずれにしても、地方自治には住民参加が不可欠になって来ているからですが、それにしても新しい装いで日本人以外を同化・排斥・排除する国際化真っ只中の「鎖国」が、ありありと見えます。 

いつか来たと良く似たような内向きの自己本位の道。閉じた国家を、しかしいつまで維持出来ると思っているんでしょうね? 国際化が、国粋化と同時に進む。やがて自由に身動きならないどこか到着点へ向かって。

この時代を、ここを解剖し批判し、対案を出して行きたいと思います。
   

0 件のコメント:

コメントを投稿