2009年11月19日木曜日

客観的な学問ってあるのかしらーノンフィクションを読んで


いろんな頭の痛いことが続いたので、息抜きで『神々の捏造―イエスの弟をめぐる「世紀の事件」』(ニナ・バーリー、東京書籍)(原題は、『Unholy Business』)を読みました。訳者あとがきで、「こんなにおもしろいノンフィクションがあっていいのか!」とありますが、同感です。マグナダのマリアとかイエスの弟のヤコブについてのややこしい翻訳ものがたくさんありますが、それとはまったく異なります。

ヨセフーヤコブーイエスの名が刻まれた骨箱がイスラエルで発見され、それはイエスが実在したことを証明するものだということで、大変な話題になりカナダの博物館で展示されたそうです。

その他「ヨアシュ碑文」と象牙のザクロの実が、伝説のソロモン王が建造した「第一神殿」の実在を示す、史上初の物的証拠やとして、ヤコブの骨箱とほぼ同時期に発表されたそうです。それがなんだと言う方もいらっしゃるでしょうが、実は、それらの遺物は聖書の記述の正しさを証明するものとしてカトリックは勿論、アメリカの福音派から歓迎され(韓国もそうでしょうね)、またそれはイスラエルのナショナル・アイデンティティを鼓舞し、パレスチナ侵略を正当化するものとして、現代的・政治的に大きな意味をもっていたのです。

その遺物が世界中で大きな話題になり、その真贋をめぐる裁判闘争まで行われたのですが、イスラエルとパレスチナの紛争がありながら、そのような遺物の不法な発掘と販売には、民族・国境を越えたシンジゲートが作られており、世界中の博物館や大学、個人のコレクターにばらまかれているそうです。

それにしても、その真贋を決めるのは考古学や碑文学、古代の言語学等なのですが、それら研究家においても見解が異なり、そこに研究者の個人的な事情や、信仰理解がからまり、純粋な学問成果という客観的なものはないということがわかります。20世紀の最大の発見と言われている「死海文書」は一定の発掘分野からでたものではないのですが、そのようなものは基本的にはありえないということがよくわかりました。

日本の旧約聖書学者の第一人者であった関根正雄をして(『古代イスラエルの思想―旧約の予言者たち』(講談社学術文庫)、「霊」の働きとその信仰なくして聖書は理解できないというのであれば、聖書学や考古学も信仰とは別のものとしてありえないという結論になり、私は同意できません。私はどうしても人間の生き方、というものに執着します。

0 件のコメント:

コメントを投稿